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 漆黒の旗が揺れる。

 雲ひとつない冬空をくっきりと切り取り、強い風にたなびくいくつもの軍旗。それはエゼルバード帝国皇帝が直接指揮する禁軍の証だった。

 そこにゆっくりと近づき、かなりの近距離まで来て止まったのは、対照的に真っ白な軍装の五百騎余りの神殿騎士たち。

 高台に布陣したエゼルバード帝国皇帝の禁軍は、位置的にも兵数的にも優位に立っていた。たとえ相手が精鋭の手練れぞろいであったとしても、その気になれば五百の騎兵などあっというまに踏みつぶせる。

 しかし、白衣の騎士たちの先頭に掲げられた旗一本、白地に金で刻まれた太陽神の紋章が、その未来を否定していた。

 禁軍が彼らを攻撃することはない。お互いがそうと知っているから、黒衣の師団は動かないし、白衣の騎士たちも平然と近づいてこれるのだ。

 ハロルドは、主だった配下の者たちを背後に控えさせ、高い位置からその一団を見下ろしていた。

 布陣の関係上やむを得ないと言えなくもないが、本来であれば街道の位置まで降りて迎えるべきであり、儀礼にやかましい者がいれば額に血管を浮かせそうな態度だ。

 しかし、もちろんそれは意図的にしたことであり、相手を歓迎していないという明確な意思表示だった。

 止まった集団の中から、五名ほどの神殿騎士たちが騎馬を進める。その中に、先日挨拶を交わした褐色の肌の教皇がいた。

 容貌まで判別できる距離になっても、ハロルドは無言で立ったまま身動き一つしなかった。

 声が届く距離にまで彼らが近づいてきて初めて、ハロルドの騎士たちが長槍を掲げてその行く手を遮る。

「やあ、エゼルバード帝。大変な時に申し訳ないね?」

 軍旗と天幕が風ではためく音しかないその場に、伸びのあるその声は遠くまで響いた。

 ハロルドは返事をしなかった。

 改めて教皇の顔を見ると、メルシェイラを奪っていこうとする敵だとしか思えなかったのだ。

 数千の人間が集まっているとはとても思えない沈黙がその場を支配する。

 ハロルドの心に、このまま敵を始末してしまえという誘惑が過った。

 皇帝の命令であれば、即座にそれは実行に移されるだろう。

 そして、寡兵しかそばに居ない教皇は、いくら太陽神の加護があったとしても、数の暴力には勝てない。

「……陛下」

 背後から、ネメシスがそっと声を掛けてきた。

 あからさまなほどの逡巡の末、ハロルドは静かに息を吐きだした。

「このようなところまでよく参られた」

 声が多少尖っていても、それぐらいは許されるだろう。

 危険な誘惑を弄びながら、意図して薄く笑みを浮かべると、当たり前のことだが教皇の護衛たちが身構え、連動するかのようにこちらの近衛騎士たちも長槍の先を斜めに倒す。

 ハロルドは、更にその緊張感を増長させるかのように、無言で来客を見下ろした。

 一触即発の構えでいる配下の者たちを諫めはしない。彼ら以上に、この招かれざる客を歓迎していなかったからだ。

「申し訳ない。皆気が立っている」

 ハロルドは、帯剣を隠すように垂らしていたマントを払いのけ、剣の存在が相手側によく見えるように、柄の部分に軽く両手を置いた。

 殺意すら交えたその態度に、飲まれたような顔をしたのは相手側だけではない。

「こちらへ」

 血みどろの内乱を制し、あまたの皇子を蹴り落として冠を手に入れた。その頃を彷彿とさせる荒れた心を鎮めるために、あえて客人に背中を向ける。

 左右に分かれた腹心たちの表情はそれぞれだ。

 ネメシス憲兵師団長は相変わらず少し困ったような顔をしていて、その背後に控えるピアヌは逆に唇を歪め、笑いをこらえているかのようだ。

 ドルフェス近衛師団長は未だ多少やつれの見える顔つきで、不安そうな眼の色を隠せていない。

 朱雀将軍の代理として控える副司令官も、独特な竜騎士の礼装を身にまとっているロバート・ハーデス青竜将軍も、相手がポラリス教皇だと知っているだけに表情は硬かった。

 ハロルドはそんな彼らの間を抜けて、もと来た天幕の方へと足を勧めた。

 ややあって、背後で揉める気配がする。ついて行こうとする教皇を、護衛たちが止めたのだろう。

 無理もない。

 ハロルドの怒気は隠されておらず、連動するように、周囲の者たちの態度も友好的とはいえないからだ。

「陛下、お待ちを」 

 背後から近づいてきたネメシスが、周囲にも聞こえる音量で耳打ちした。

「会談の用意をここに整えさせましょう」

 ハロルドは足を止め、顔だけを半分腹心に向けた。

「その方が教皇猊下のお付きの方々もご安心でしょう」

 教皇と彼を守る白い神殿騎士たちが言い争うのをやめ、こちらの反応を伺うように立ち止まる。

 ハロルドはそんな彼らの方は見ようともせず、天幕の方へと顔を向けた。

 自らを壊滅させ得る数千の兵に囲まれるのと、狭い天幕に誘い込まれるのと。どちらが安全かを気にする時点で、味方だとは思っていないと態度で示しているようなものだ。

「……任せる」

「かしこまりました、陛下」

 我慢ができないほど不快感が増したので、ハロルドはそのまま天幕に戻ることにした。

 頑として背後は振り返らない。

 メルシェイラの自称祖父と名乗るには若すぎるその美貌が、穢れとは無縁と主張している白い法衣が、穏やかにたたえられた微笑みも何もかもが、怖気を振るうほどに不愉快だ。

 天幕に戻り、入り口の垂れ布が周囲の視線を遮ると同時に、ハロルドは手近なところに置かれていた椅子を容赦なく蹴りつけた。

 ものすごく大きな音がしたが、知るものか。

「陛下」

 そんな彼を遠巻きにしている侍従や護衛の騎士たちは無視して、もう一度倒れた椅子に当たり散らそうとしたハロルドに、皮肉気な声が掛けられた。

 その不快感を煽る喋り方に、普段なら感じない怒りが倍増する。

「陛下、陛下、ちょっ……子供じゃないんですから」

 丁度いいとばかりに脚の折れた椅子をピアヌ憲兵副師団長の方に蹴りつけると、呆れたように太いため息をつかれた。

「まあ、十年前のやんちゃな陛下が戻ってきたようで楽しいですけどね」

「……黙れ」

「はいはい。わかってますよ。あのちんまりと可愛らしい奥方様の事を思い出したんでしょう?」

「黙れ」

「もういい年をした大人なんですから、敵対するんじゃなく上手に立ち回らないと」

 もう一度怒りをぶつけようと、今度は手近なところにある水差しを握った。

「内緒でいい話を聞かせて差し上げます。先ほどうちの師団長から聞いた、陛下の大切な奥方についての最新情報ですよ」

 全力で不愉快なその顔めがけて投げつけようとしていた水差しは、振りかぶったところで静止した。

「聞きたいでしょう? 聞きたいですよね? だったらその水差しはテーブルの上に置いて、一回深呼吸しましょうか」

「……貴様」

「おお、陛下にそう呼ばれるのも久しぶりですねぇ。そんなに怒らないでもいじゃないですか。ほら、水差し」

 ハロルドは、荒れ狂う胸中を無理やりに押さえて大きく息を吸いこんだ。

 にやにやと笑っているピアヌをジロリと睨み、振り上げていた水差しを彼が指さす場所に降ろした。

「メルシェイラはどうしている。無事なのか?」

「ええ。うちの精鋭一個分隊が張り付いています。陛下もご存知でしょう? ダンのところです。あとはテトラム。多少間引かれましたが、妾妃さまの護衛は十二分にこなせます」

 ハロルドは目を閉じて、いったん心を落ち着けてから「そうか」と静かに言った。

 異端審議官らと思われる者たちの襲撃を受けて、メルシェイラと彼女の護衛たちが離宮を離れたところまでしか情報がなかった。

 無事だとは聞いていたが、その先どこへ向かったのか、どうしているのか、詳細な報告がなかなか来なくてやきもきしていたのだ。

「詳しい報告書はまだまとめていませんので午後にでも。かいつまんで申し上げますと、中央神殿がさせようとしたことを、別の方面からアプローチしようとしておられるようです」

「……させようとしたこと?」

「素人には判断が難しいので、先にリアンドル先生に相談してみます。陛下はそのあとでお聞きになった方が良ろしいかと」

 ニヒルに唇を歪めて笑うピアヌはどう見ても裏社会の人間だが、実は最高学府を優秀な成績で卒業した非常に頭が切れる知識人である。そんな彼が判断に難しいというのだから、頭の出来に関しては凡庸なハロルドには余計にわかるまい。

 納得できはしなかったか受け入れることにして、深くため息をつく。

 ひねくれもの相手に口を割らせるだけの時間はない。会談の用意など、ものの数十分で整うだろうからだ。

 長く待たせるにはポラリス教皇は大物だった。

 この世界でハロルドと並び立つ権威を持つ者はそう多くないが、その数少ない相手のひとりなのだ。

「陛下、御準備が整いました」

 念を押してメルシェイラの無事を確認しようとしたところで、天幕の外から呼ばれた。

 予想よりもはるかに短い時間で席が整ったらしい。

 ハロルドはもう一度、長く息を吐き出した。

 素早く近づいてきた侍従に、いくらか乱れていた礼装を整えられた後、入り口で置物のように直陸不動の姿勢でいる近衛騎士に頷き返す。

 ばさり、と天幕の布が開けられた。

 普段よりは豪華な、黒地に黒銀の縁取りの天幕から足を踏み出すと、先ほどと寸分変わらぬ状態で近衛騎士たちが整列している。

 等間隔に並ぶ最前列の重騎士が掲げ持つのは長槍。その後ろで控えるのは盾持ち。

 更にその後ろで整列しているのは、昨日の夜にも武器を手に敵と戦っていた朱雀師団の上級将校たちだ。

 おそらく椅子を蹴った音などは聞こえていただろうが、彼らの表情はまったく動かず、ただ一点を見据えている。

 ハロルドもまた、何事もなかったかのように無表情を保った。

 彼らによってつくられた通路を進むと、歩く速さに合わせて長槍が掲げられる。

 一糸乱れぬその動きは洗練されているが、同時に武張って威圧的だった。

 メルシェイラが見ると怖がらせてしまうのではないか。

 大股にその間を突き進みながら、ハロルドが考えていたのは、無事だと聞いた愛する妻の事だった。

 あの黒い瞳を。どこをとっても小さく、触れれば壊れてしまいそうに頼りない華奢さを。

 今から向かう先にいるのは、そんなメルシェイラを彼から奪い去ろうとする存在だ。

 絶対に、許してなるものか。

 自然と足取りは荒く、顔つきも険しいものになる。

 しばらく行くと列が途切れ、その先に空間が開けた。

 ハロルドは、腹心たちと近い距離で向き合っている白衣の集団に近づこうとして、足を止めた。

「……ピアヌ」

「はい、陛下」

「どうしてあの女がいる」

 開けた空間を挟んで、白と黒の両軍が対峙している。

 その真ん中に置かれた、場違いに洗練されたテーブルと二脚の椅子。

 一方には教皇ポラリスが座っていて、もう片方はハロルドのために用意されたものだろう。

 冷たい冬の風に乗って、軽やかな笑い声が聞こえてくる。若い女性と、美貌の教皇のものだ。

 そこだけ見れば、まるで絵にかいたように美しい情景だった。

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