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「陛下ずっと機嫌が悪くて……ごめんな、姫さん」

「こんな時ですから仕方ありません。わたくし、気にしておりませんわ」

 足早に天幕を出たところで、聞き捨てられない女の声がした。

「お力になれればそれで」

「あ、陛下」

 ドルフェスが呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。

 無言のままそのまま進み、数十メートル先に設営された別の天幕へと向かう。

 本陣でもっとも大きなその天幕に、軍議の為に指揮官を集めていた。ドルフェスも参加するはずなのに、何をやっているのか。

 近衛師団長の体格に見合わない呑気な声が、ハロルドの背中を追ってくる。

 その空気を読まない飄々としたところが気に入っていたはずなのに、声を聞くだけで苛立ちが募る。

 普段であれば仕方がない奴だと苦笑いのひとつでも返しただろう。しかし今は、本気で罷免してやろうかとすら思っていた。

 天幕に入ると、きっちりと軍服を着た集団が一斉に立ち上がり、胸に手を置いて騎士の立礼をした。ハロルドが頷き返すと、ぞろぞろと椅子に腰を下ろす。

 誰も彼も、さほど緊迫した表情はしていない。戦況はマンネリ化していて、今はシステマティックに敵の出方に対応しているだけだからだ。

 ハロルドが一番奥の上座に着いたところで、進行役の准将が立ち上がって軍議の開始を告げる。

 毎日のことなので慣れているはずなのに、何故か口ごもるその姿に、眉間にしわが寄った。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

 よくわからない間が空いた数秒後、涼やかで可憐な声がした。

 天幕内の軍人たちが落ち着かな気に身じろぎする。

 さっと入り口の布が持ち上げられて、淡い水色のドレスを着たリリアーナ嬢がにこにこと微笑みながら姿を見せた。

 ここには女性騎士もいるにはいるのだが、それとは見るからに毛色が違う、そこだけパッと明るく見えるような登場の仕方だった。

「お疲れ様でございます」

 彼女は手に盆を持ち、場違いな陶器のティーカップをひとつ掲げ持っていた。

 そのまっすぐに向かう先はハロルドのいる上座。

 軽やかに進み、ハロルドと視線を合わせてにっこりとまた笑顔を深くする。

 ハロルドは努めて、表情を動かさないようにしながら彼女のその嬉しそうな笑顔を見上げた。無表情でいないと、思いっきり不快感を露わにしてしまいそうだった。

 反応を返さないその様子に小首をかしげ、次いで少し悲しそうにまなじりを下げる。

「あの、お茶を……」

「失礼いたします」

 ばあやと呼ばれていたリリアーナ嬢のお付きの女性が、やたらと声を張り上げて後ろから出てきた。

「陛下、ハーデス公爵領よりお持ちしたテフェロ産の高級茶葉でございます。是非ともご賞味くださいませ」

 ハロルドはそのまま視線を手元の書類に落とした。

「……軍議を始める。部外者を外に出せ」

「っ」

 下を向いた瞬間、ふわり、と華やかな花の匂いがした。戦場にはひどく場違いな、清楚で軽やかな香りだった。

「お、お邪魔致しました」

 明らかなその涙声にも、ハロルドは頑として顔を上げなかった。

 それよりも、居心地悪そうな配下の者たちが、幾分責めるような雰囲気を漂わせている方が問題だった。

 ハロルドにはすでに複数の妻がいる。そんな自国の皇帝に、あきらかな色目を使ってくる女に違和感を抱かないのか?

 いや、百歩譲ってそれはいいにしても、重要な機密を話し合うべき場所に、素人の女が居る事に問題を感じないのか?

 とはいえ、戦況は膠着しているので、特に目新しい情報はなく、方針の変更もない。

 軍議はほんの数十分で終わったが、その間中皆がやけにそわそわとしていたのが気に障って仕方なかった。

「陛下」

 無言で席を立ったハロルドに、ドルフェスが声を掛けてくる。

「さっきのあれはちょっと可哀そうじゃないですか?」

 また不愉快な女の話を振ってくる赤毛に、もはや視線をやる価値すら感じない。

「ピアヌ中将を呼べ」

「……憲兵副師団長を?」

 すでにネメシスは本陣を離れている。

 メルシェイラの一件を早急に対処するよう申し付けたからだが、それ以外にも、竜の召喚陣を探すように指令を出している。多忙な彼はおそらく帝都に戻っていて、連絡要員として憲兵師団の数人を置いていった。その筆頭が副師団長のトーマス・ピアヌ中将だ。

 ハロルドはなおも何か言いたそうにしているドルフェスを尻目に、足早に執務室の天幕へと戻った。他の天幕に比べて立派なわけでも、華やかなわけでもない。ごく一般的な軍用のものだ。ただ、近衛騎士の護衛は手厚くついており、さすがにそこにはあの女も近づいてこれないようだった。

 ハロルドが大股に歩くスピードを削がない素早さで、入り口の布がめくられる。

「陛下、陛下! ちょっと、どうしたんですか? 何か変ですよ」

 変なのはお前だ。

「もしかして体調でも悪いとか? いや、リオンドール卿から何か嫌な報告でも?」

 それを大声で言い放つドルフェスの精神状態のほうこそ疑う。

「へい……」

「黙れ」

 天幕の入り口が下ろされ、外部に声が漏れる恐れがなくなったタイミングで、さすがに我慢の限界が来た。

 食い気味に唸ったハロルドに、まったくよくわかっていない表情でドルフェスが顔を顰める。

「やけに機嫌が悪いじゃないですか。本当にどうしたんです?」

「ここは前線だ。無関係の女がウロウロしていい場所ではない。追い返せと言ったはずだ」

「……ああなんだ、姫さんのこと心配してたんですね。だったらそうと」

「違う」

 本気で蹴飛ばしてやろうか。

「せっせと皆にクッキー配って挨拶まわりして、いたわってくれるし、感じいい子だし」

 あの女、そんなことまでしているのか。まさか軍部の機密部署にまではいりこんではいないだろうな。

「メルシェイラの姪だ」

 ついこぼれたその言葉に、ドルフェスの表情がわずかに顰められた。

「ああ、ハーデス公の養女の」

 養女、というその言い方に引っ掛かりを感じて、今日初めてまともにドルフェスの顔を見上げた。

「お姫様について何か悪口でも吹き込まれたんですね。ですがいいお嬢さんですよ。陛下も直接話せばきっと……」

「……貴様、何を言っている」

「え?」

「メルシェイラが悪口を言うわけがないだろう。あれは人をけなすような気質ではない。誰から聞いた?」

「え? そりゃ……」

 ドルフェスが戸惑った様子で視線を虚空に滑らせる。

 その分厚い肩を、握っていた剣の鞘で強めに突いた。わずかによろめき、そこに手を押し当てた腹心を、昨夜からの苛立ちのすべてを込めて睨んだ。

「もう一度言っておく。リリアーナ嬢について、あれの口から一言たりとも聞いたことはない」

「……いや、だけど」

「それから、メルシェイラは正式に認知された公の実子だ。そのこともお前は知っているはずだな? なのになぜ養子だなどと言うのだ?」

「いや、姫さんが」

 やはりリリアーナ嬢か。どうやら情報操作にも長けているらしい。腹立たしい事に。

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