犬と首輪と1

 いつも陸に上がると憂鬱になる。

 軍人としてそれなりに仕事ができる方だと自負しているが、一旦船を降りるととたんに無防備になった気がして、心許なくなる。

 港で待ちかまえているのは、伯爵家のきらびやかな紋章が刻まれた馬車だ。

 リヒター自身が呼んだのだから、約束の時間に遅れる方が問題なのだが、子供の頃から見知った従僕とセットで停車している馬車を見ると、毎度毎度ものすごく気分が下がってしまう。

 新しい年が巡ってくる時期、軍人たちも交代で休みを取る。海の男たちがまとまった日数陸に上がれる貴重な期間で、多くは家族や恋人と過ごす。

 リヒターも毎年この時期には家に帰ることにしていた。一応は家長であり、爵位もあり、妻子もある。しかし、一年の大半を海で過ごすので、家の事は何もかも引退した父に任せっきりで、妻にも子供たちにも、帰宅するたびに他人を見るような目で見られていた。

 リヒターの家系では、一族の男子のほとんどが軍人になり、貴族としての仕事は妻か親族に任せる者が多い。だからというわけではないが、自身が年に幾日かという短い日数しか家に戻らない生活を、特におかしいとは思っていなかった。

 他家から嫁いできた妻がそのことについてどう思っているかは、年々冷えてくる目つきがすべてを物語っている。

 しかし、喧嘩をするほど顔を突き合わせているわけでもなく、夫婦がお互いに不干渉を貫くことで、かろうじて形が保たれている関係だった。

 恭しく頭を下げる男の、若干薄くなった頭皮を眺めながら、このまま回れ右をしてボートに戻りいという気持ちを押し殺した。

「おかえりなさいませ、旦那様」

 いつもより長く頭を下げられた気がして、いぶかしく思ったのは一瞬。

 開かれた馬車の扉の内側に鎮座しているキラキラしいその姿に、やはり本能に従って逃走するべきだったのだと悟った。

「……そこで何をしている」

「早く乗ってください」

 言葉は丁寧語だが、お世辞にも丁寧な応えではなかった。

「提督が愛人をつれていると噂になってもいいとおっしゃるのなら話は別ですが」

 久しく直接顔を見ていなかったが、記憶の中に在る通りの冷ややかな物言いに、リヒターの頬が大きく引きつった。



「初めてお目にかかります、奥方様。わたくし後宮で一等女官を務めさせていただいております、ルシエラ・マインと申します」

 楚々と淑女の礼を取る女官殿に、ぞっと背筋を凍りつかせながら視線を泳がせる。

 家人のすべてが、まるで罪人であるかのようにこちらを見ていた。

 いつの間にか学院の制服を着るまでに大きくなっていた子供たちも、青ざめ信じがたいものを見る目をしている。

 彼らが想像していることは大体わかる。

 家長であるリヒターが、愛人を連れて帰ってきたと思っているのだろう。

 もとより、女性関係において緩い方だというのは周知の事実で、派手な醜聞はなくとも、それなりに愛人をとっかえひっかえしてきた。

 しかし、正妻の領分を侵害するような行動をとったことはないし、もちろん本邸に連れてきたことなども一度もない。そもそも、一年の大半を海で過ごす彼に側室や妾を囲いこむ暇はないのだが。

 今回に関しては完全に誤解なので、声を大にして「違う!」と言えば良いものを、リヒターの血の気を下げた顔がなお一層状況を悪くしていた。

「……どういうことがご説明いただけますか?」

 妻の目が険しく尖り、絞め殺しそうな表情でこちらを見た。

「まさか、後宮の女官殿を孕ませたなどということは……」

 な、なんと恐ろしいことを言うのだ!!

 ぶるぶると首を左右に振るリヒターを、周囲の誰もが侮蔑の目で見ている。

「まあ! とんでもございません」

 ころころと、鈴が転がるような軽やかな笑い声に慄き震えた。

「提督には大変お世話になりました」

 お世話?! 徹底的に鼻っ柱をへし折られ、土に頭を擦り付けて謝罪してもなお背中を踏まれるような扱いは受けたが。

「奥方様にぜひご挨拶を申し上げたくて、参りましたの」

 絶対に、誤解を増長させ面白がっている。

 これも贖罪のひとつなのだろうか。言い訳することなく口を閉ざしていろと?

 この一年、破天荒な女官殿には散々振り回され、いいように使われた。最終的には陛下にお褒めの言葉をいただけたので、悪い結果ではないのだろうが、そもそもその過程がいけない。

 一見非の打ちどころのない美貌の才女であるこの女官殿が、どんなに人使いが荒く、どんなに恐ろしい采配を振るうかなど、誰も想像もできないに違いない。できれば二度と関わりあいになりたくない。そう思っているのに、どうして彼女の言葉を否定することすらできないのだろう。

 もはや死刑判決を受けた罪人の気持ちになって、リヒターは遠くを見た。

 年頃の娘の、地虫をみるような目が地味に辛い。

 しばらくして、状況を楽しんでいたに違いない女官殿が、ふっと真顔になった。

「藤の宮の御方さまから、書状を預かっております。奥方様と、皆々様へ」

 これまでは嫋やかで育ちの良い淑女にしか見えなかった彼女の急な表情の変化に、まず最初に気づいたのはに妻だった。

「第四皇妃さまから?」

「グリセンダ妃のブドウ荘園について、御方さまのお耳に入ったのはほんの数日前なのです。陛下は一言も話しておられなかったようで……」

「そうなのですか?」

 妻がちらり、とリヒターの方を見た。

「本来であれば直接ご挨拶に出向きたいところですが、手紙で申し訳ないと御伝言を承って参りました」

 いつの間にか、女官殿の手には漆塗りの小さな文箱が掲げ持たれていた。

 手荷物などなかった気がするが、どこから出してきたのだろう。

 その文箱はごくシンプルな黒いもので、表には以前に見た事のある鹿の角と藤の花の紋章。結ばれた組みひもが繊細な花の形になっていて、地味ではあるが上品で洗練された雰囲気だった。

「陛下と御連名の感状です」

 意図的に最後に告げたのであろうその一言に、妻をはじめとして家人すべてが息を飲んだ。

 慌てて深く礼を取ろうとしたが、女官殿がその必要はないと首を振る。

「陛下も、御方さまも、大げさなことは望まれておりません。この一年ほど、リヒター提督にも大変ご尽力いただいたので、その恩賞を含め、後日きちんと形にして礼をするとのことでした」

 女官殿の至って事務的な口調に、ようやく事態を理解したのだろう。

 むしろ顔色を悪くした妻が、すっかり険をおさめた表情で項垂れた。

「失礼な態度をとってしまい申し訳ございません、てっきり夫が、その……」

 女官殿が、ほのかに眦を下げてほほ笑んだ。

 下手に造形が整っているから、そんなささやかな表情の動きでも一瞬にして周囲の好意を惹きつける。

「わたくしが奥方様に一度お会いしたいと思っていたのは事実ですよ。以前からお名前は伺っておりましたので」

「まあ、どのような噂でしょう」

「若手をよく取りまとめ、派閥のバランスをそつなく保っておられるとか。提督が長く海に出られているのに、よく領地をご差配なさっていると聞いております」

「とんでもございませんわ。義父や子供たち、有能な家人に助けられているからこそです」

「良ければ一度、後宮にいらっしゃいませんか? 御方さまにグリセンダ妃のブドウ荘園について話して頂けると大変喜ばれるかと思います」

「機会がございましたら是非」

 待て待て。勝手に話を進めるな! 

 リヒターはトントン拍子に進んでいく内容に口を挟もうとした。しかし言葉を発しかけた唇は、薄い青銀色の女官殿の一瞥で凍り付いてしまった。

 政略で娶り、疎遠としか言えない妻の事で、ここまで本能的に危機感を抱くなど思ってもいなかった。彼女まで女官殿の蜘蛛の糸に絡め取られてしまうと、焦りばかりが募る。

「い、いや。御方さまは最近また大変なことに巻き込まれたばかり。ご体調に触ってはならないし」

 喉が締め付けられそうな思いをしながらなんとかひねり出したその言葉に、じろり、と妻が探るような目を向けてきた。焦る様を、隠し事があるのではと勘繰ったのだろう。

 とんだ濡れ衣だ。

「ふさぎ込んでおられるのでしたら、なおの事お慰めしなければ」

「では改めて招待状をお送りいたします」

 後宮なので滅多なことで外からの客を入れることはないが、許可証あるいは皇妃殿下の招待状を持つ女性であれば、一部入ることが許されている。

 妻の目が、見た事がないほどにきらきらと光った。

 それなりに向き合っていた新婚の時ですら見た事がない、嬉しそうな表情だった。

 リヒターはますます喉が詰まってきた気がしてゴクリ、とつばを飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る