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 ハーデス公爵領ザガンに到着したのは、予定より二日遅れの夕刻だった。

 ほぼ丸三日近い遅れを不審に思っていたのだろう、大型艦が港の水深の深い位置に錨を下ろす前から、遠方で尋常ではない騒ぎが起こっているのが聞こえた。

 聞き覚えのある翼の音に顔を上げると、帆の近くにまで複数の翼竜が迫っているのが見える。

 優雅に見える旋回をしながら、騎手がこちらの様子をつぶさに伺っているのがわかった。

 メイラは、準備万端整えたドレスの裾を持ち、巨躯の竜騎士に向かって軽く礼を取った。

 異母兄の服装はその他の騎士たちとさほど違いはないのだが、騎乗する翼竜の色が他とは違う。判断は間違っていなかったようで、その美しい翼竜を操る騎手が軽く手を上げ挨拶を返してくれた。

 ゴンドラの準備も整ったようで、ピカピカに磨かれた扉がディオン副長の手により開けられる。

 どうぞと促されて、ここ数日、頑としてメイラに近づいてこようとしなかった提督の方を振り返った。

 ひと際真っ白な軍装なので、遠目にもすぐにその所在が把握できる。

 やはり最後まで、膝を付き頭を下げる仕草はやめてくれなかった。

 メイラは扇子を広げて口元を隠し、何か言葉を掛けるべきかと迷った。

 どれだけ伝えても、存在に気づき視線を向けた時には常に片膝をついて頭を下げている。さすがに起坐や額を床に激突させるような奇行はやめてくれたが、それでも気が引けるなんてものではない。

 艦隊の最高指揮官とその補佐、旗艦の艦長までもがそういう態度でいるので、他の将校たちもメイラに気づくたびに立ち止まり、片膝をつく。

 勘弁して欲しい。気が引けるどころか、居たたまれなくなるのだ。

 結局メイラは、残る船旅の間ほとんど部屋から出る事はなかった。

 変化のない景色を見ても仕方がないからいいのだ。冬だし。

 ……自身でも言い訳にしか聞こえないのが辛い。

 メイラは少し悲しい気持ちになりながら、ゴンドラの扉の前で膝をつくディオン副長とグローム艦長に頷きかけた。

「お世話になりました」

「いえ、この度はまことに」

「グローム艦長」

「っ、はい」

 またも謝罪を繰り返そうとする灰色の髪の男に向けて、メイラは初めてその名を呼んだ。

「いろいろとありましたけれども、楽しく快適な船旅でした」

「……はい、御方さま。光栄にございます」

「ディオン大佐も」

 顔に傷のある巨漢は、生真面目そうな顔に生真面目そうな仕草で頷いて、立てていた片方の膝を下ろして改めて深く謝意を伝える礼を取った。

「傍付きの者たちがいろいろと、その……迷惑をおかけしました」

 特にS系女子筆頭の二人が申し訳ない。

 彼女たちによって、誇り高き海軍の幹部たちが被虐趣味に嵌ったのではないかと心配なのだが、淑女が他人の性癖に口をはさむべきではないのだろう。

「それでは、今後のご活躍とご健勝、航海の無事をお祈りします」

 乗艦した時同様に、びっしりと甲板に整列した乗員たちが一斉にざっと敬礼する。

「皆々に神のご加護がありますように」

 ……これだけの人数に跪かれなくてよかったと安堵したのは内緒だ。

 儀仗兵たちが魔道銃をグルリと回し、踵をドンドンと鳴らす。

 メイラはちいさく頷きかけてから、狭いゴンドラに乗り込んだ。

 ゴンドラは四人乗りだが、同乗するのはマデリーンひとりだ。

 ギリギリと滑車が回る音がして、吊り下げられたゴンドラが宙に浮き、丸みを帯びた船腹に沿ってゆっくりと下に降ろされていく。

 大きめのボートには、すでに後宮近衛騎士が待機していて、サッハートでの時と同様に、多少手こずりながらも移動に成功する。

 なんとか腰を落ち着けて、ボートの揺れに閉口しながら降りたばかりの軍艦を仰ぎ見た。

 やはりものすごく大きくて、少し離れたぐらいでは視界にすべて収まらない。次第に首が痛くなってきたので見上げるのをやめたが、波止場に到着するまでリアリードの黒々とした威容から目を離すことが出来なかった。



 ようやく到着したザガンは、建築物や生えている植物などもサッハートに比べると華やかさに欠け、いかにも地方都市といった雰囲気をしていた。

 しかし、かつてメイラはこの街をすごい都会だと思っていたし、実際に人口はおそらくサッハートと遜色ないだろう。

 ただ、商人よりも漁師や船乗りが多い街なので、自然と武骨な雰囲気が漂っているのだ。

 波止場にたどり着き、サッハートでの見送りの時と同様に大勢の出迎えを受けたが、何故だか雰囲気は真逆だった。

 歓声もほとんどなく、どこか緊張したような空気。

 メイラの立場も立場だし、そもそも陛下がいないからだろうと安易に考えていたのだが、やがてその思い違いに気づいた。

「……お父様」

 どうしてここにいるのだ。

 帝都で難しい折衝をしていると聞いていたのだが。

「ようやく着いたか。不測の事態でもあったか?」

 淡々とした口調にしわがれた声。なにより、相変わらずの悪人面。

 領民たちも歓声を上げずらいというものだ。

 いや、尊敬はされているのだ。ハーデス公爵領は他のどこよりも治安が良く、税率も低い。それはすべてこの老人の手腕だと誰もが知っている。

 しかしそれ以上に、厳しく恐ろしい領主だという評判のほうが強く、なによりこの面相だ、親しみよりも先に畏怖してしまうのだろう。

「迎えに来て下さったのですか」

「到着が遅れていると聞いた」

 ん? 今ほんの少しだけ「心配していた」と聞こえた気がするのだが。気のせいか。

「無事でなりよりだ。宿をとってあるから、今夜はそこで休むように」

 至極単調な、愛想の欠片もない口調でそう言って、老人の皺の多い手が差し出された。

 嫌だ握手なんてしたくない。と身体を引きかけて、父が握手など求めてくるわけがないと思い至る。きっとエスコートだろうと当たりをつけて、おずおずと扇子を持ち替え指先を乗せると、軽い舌打ちと同時に手を引かれ肘の関節に誘導された。

「こんなところで舌打ちなんてなさらないでください」

「トロトロしているお前が悪い。儂は忙しいのだ」

「まあ、お忙しいのでしたら出迎えなど結構でしたのに」

「黙って歩け。時間は有限だ」

 そして再び、これ見よがしに鋭い舌打ち。

 行儀の悪い父に咎める目を向けたが、そういえばメイラの身近にはもうひとり、舌打ちの多い女性が居ることを思い出した。

 見張っていないと何をしでかすか分からない一等女官は、少なくともメイラの視界の中にはいなかった。

 急に心配になって視線を巡らせると、何故か周囲からものすごい目で見られていた。

 しまった。陛下の妾妃として恥ずかしくないよう、楚々とした女性の仮面をかぶるつもりでいたのに!

 メイラは理解していなかった。父の護衛を含む周囲の人々が驚愕の目で見ているのは、陛下の御愛妾ではない。ハーデス公爵に遠慮ない口を利く娘と、それを許容している父親の姿だった。

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