修道女、犬と別れ悪人面と再会する
1
比較的熱が下がってきたので暇を持て余し、わがままを言って提督にまとわりつくその女性とやらを垣間見たのがそもそも間違いだった。
物陰からそっと。気づかれないように。
何度も念を押された末にコソコソと忍び歩きをするのは、本音を言えばものすごく楽しかった。
やはり部屋にこもってばかりいるから体調が悪くなるのだろう。
数十秒だけだが遠回りして甲板を歩いたおかげで外の空気が吸え、あれだけ頭を締め付けていた痛みも和らいでいた。
しかしウキウキとした気分でいられたのも、提督と微笑み合う彼女の顔を見るまでだった。
記憶の中に在るよりも年を重ね、なお一層美しさに磨きをかけたその女性を、メイラは知っていた。
かつて、街で一番と言われていた美貌の娘。公爵家お抱えの騎士を父に、貧乏子爵家の末の娘を母に持ち、公爵領の地方の街でほぼ平民と変わらない暮らしをしていた。
街の男たちはこぞって彼女に入れあげ、惚れ込み、婚姻の申し込みは列をなすほどだと噂されていたし、そのうち公爵家の誰かと縁づくのではないかとさえ言われていた。
そんな彼女から、メイラはことあるごとに目の敵にされてきた。
五歳ほど年が離れているので、本来であればそれほど接点もないはずなのだが、彼女にしてみれば公爵家の血筋というだけで目障りだったのだろう。
子供の頃には石を投げられ怪我をしたこともあるし、口にするのも憚るような噂をばら撒かれたこともある。
年齢が上がってきてからはもっと悪質になり、ゴロツキどもに囲まれるなどしょっちゅうだったし、若い男にメイラをひっかけさせようとしたこともあるし、一度人買いが夜陰にまぎれて孤児院を襲撃してきたことがあるが、あれも彼女の指示があったのではないかと疑っている。
ともあれ、あまりいい思い出のない相手だ。できれば関わり合いになりたくないと思う程に。
優秀な一等女官は、そんなメイラの表情を一瞬にして読み取った。
「お知り合いですか?」
感情の全く含まれていない単調な口調で尋ねられて、否とは言えなかった。
幾分オブラートに包みながらも正直に話すと、彼女の表情はますます無表情に、ユリは逆に嫌悪の表情を浮かべる。
「でもほら、もうずっと前の話よ」
慌てて取り繕ってみたが、誰も微笑み返してはくれなかった。
結局、早々に引き上げるよう促され、しおしおと短い散歩から引き返すしかなかった。
部屋に戻り、落ち着いたところで、もう一度彼女について質問された。
主に素性と、髪色などの特徴について。覚えている限りの記憶を吐き出したが、五年は経っているので質問が重なるにつれて不安になってくる。遠くからのチラ見しか許されなかったので、確実だとは言えないと答えるしかなかった。
晩餐が予定されているのは今夜だ。やはりもう一度確認しなければ。
本当に彼女なのか。どうして名前や身分が違うのか。そして……こんなところに彼女がいる本当の意味も。
身代わりを立てるのではなく、メイラが直接行くと言い張ると、もちろん反対された。
もっと安全な手段を幾通りか示唆されたが、なにぶん時間がない。直接話をするのが最も簡単で早いだろう。
最終的には納得してもらったが、ものすごく渋々とだった。
過去の因縁女との対決! と盛り上がっているメイドたちに念入りに化粧され、着飾らせられた。ずっとベールを外さない予定なので、そこまでする必要があるのか大いに疑問だったが。
急所になる部分に厚みのあるドレスは正直見た目よりかなり重い。陛下のお見送りを受けた時の装束もそういえば重かったと思い出し、その意味を考えると色々と怖くなった。
更に諸々の説明を受けて、ああルシエラたちは本気で警戒しているのだと、ようやく理解できた。
口に入れるのはフランが給仕したものだけだとか、ワインに見せ掛けた発砲水だが匂い成分にアルコールが含まれているので気を付けて飲むようにだとか、事細かなレクチャーが続く。
心配のし過ぎだと思っていたのに、まさかそれが現実のものになるとは想像もしていなかった。
クリスにつかみかかられ、ベールをむしられた。
それでもなおメイラと気づかず別人だと言い放った彼女の様子に、もしかすると最初からそれが目的だったのかもしれないと邪推する。脅すつもりだったのだろうか。ハーデス公爵家を? ……いや、おそらくはメルシェイラと名乗っている女を。
陛下のお身内を前に事を荒立てはしないだろうと思ったのか、そのあたりの安易な考え方は実に彼女らしいが、やっていることは大掛かりだ。船を座礁させ、提督を洗脳し……いや、やはりありえない。彼女だけの力では不可能だ。
背後にいる何者かは、メイラが別人とすり替わっていると本気で思っているのだろうか。
おそらくは祭事に間に合わないようにするのが真の目的なのだろうが、意図的にそういう醜聞を振りまきたかったのかもしれない。
クリスにベールを剥がれても、提督にナイフで切り付けられそうになっても、不思議と恐ろしくはなかった。
広くはない室内には信頼できる者たちが十分な警戒をしていて、この身に害が及ぶはずなどないと信じていたからだ。
ただ、あの白いボタンだけが脅威だった。
皆にはあの禍々しさがわからないのだろうか。クリスも提督も、よくあんなものを身に着ける気になったものだ。
布越しとはいえ、ルシエラが触れる事さえも危険だと思った。トレイではなく、もっと厳重な箱に納め、封印するべきだと。
気が狂ったように叫ぶクリスには、もはや先ほどまでの洗練された美しさはない。
見る影もなく身もだえ、床に押さえつけられて暴れる無様な様子は、おそらく本来の彼女であればもっとも他人に見せたくない姿のはずだ。
やはり、クリスもまた何者かに洗脳されているのだ。
指輪から引き離し、洗脳が解かれたはずの提督まで操るその力が恐ろしい。
結末を見届けるまで食堂に居続けることは許されなかった。
早々に部屋に引き上げさせられ、装飾品を外され、ドレスを脱がされて。ドロワースの上から分厚いナイトドレスを着せられ、化粧を落とされながら、しきりとベールに触れられる位置まで彼女を近づけたことを謝罪され続けたのが、その晩で最も対処に困る事だった。
クリスはこの後どうなるのだろう。
メイラが口をはさむべき事ではないのかもしれないが、洗脳されていたという情状が酌量されればいいと思う。
そして提督は? 二度目の暴挙ははたして見過ごされることなのだろうか。
「……ねぇユリ」
「はい、何でしょうか御方さま」
「この後どうなるのかしら」
短いメイラの髪を櫛梳っていた手が少し止まる。
「御方さまがお思い悩むことはありません」
「提督はそれほど悪くはないと思うの」
「いいえ、そもそも今回の事態を持ち込んだのはかの方です」
「……それでも、会食をセッティングしたのはこちらだし、わたくしが出席したのは自分の意志だわ」
背後で、ため息が聞こえた。
「不可避だったとはいえ、責任がないとは言えません」
「……そうね」
メイラもまた、深くため息をつき肩を落とした。
海軍中将である陛下のお身内を、メイラのことで失脚させるのは憚られた。しかしそう思う事すら僭越なのかもしれない。
「ですが、なんとかできないこともありません」
メイラははっと顔を上げた。
振り仰ぐと、櫛を片付けながらユリが困った顔をしていた。
こちらを見ない彼女らしからぬ表情に、よほど特別な手立てなのかと思いきや、どうやらメイラが不問にすると一言命じ、一筆書けばいいらしい。
直接顔を合わせれば、二度あることは三度あるでまた襲われそうで怖いが、手紙なら大丈夫だろう。
コクコクと首を上下させると、ユリはまた溜息をつき、状況を見守っていたフランもまた苦笑していた。
「ただし、クリスティーナというあの女のことは駄目です」
「……でも」
「あの女のことにまで言及すれば、口利きは失敗しますよ」
誰への口利きか。ああ、憲兵士官のルシエラか。
S系女官の思惑ひとつに提督の人生がかかっていることに気づき、メイラは閉口した。
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