第5話
五
「ホラホラァ~赤兎ィ? モウ息ガ上ガッテルジャネェカ? ドォシタァ? 俺ハマダ全然チカラヲ出シチャイネェゾ?」
「……煩いわね~。その口、縫い付けてやろうかしら? ニ度と声が出せないように」
「ギャハハハハ! 縫ッテ縫ッテ~~⁉ 縫ッテチョ~ダ~イ⁉ ……アッ、ドウセナラオ揃イニシチャウゥ?」
――わかってる。こいつは強い。そもそも、死神相手に最初から勝てる筈がないのだ。それでも……こいつに私の邪魔をさせる訳にはいかない。
それに早くしないと、私の中の【ティターニア】も暴れ始めている。やはり、この死神が作り出した存在だ……とんでもなく強い。あの女を抑え込み、自我を保っているのがやっとだ。こんな状態で、戦闘に集中など出来やしない。
さて……どうしたものかしら。
「オイ、ティターニア〜! 早ク出テコイヨ? コンナヘナチョコニ抑エツケラレルヨウジャア、オ前モマダマダダネェ?」
「残念ね。何度でも言わせてもらうけど、この身体は私のモノなの。【赤兎】から受け取ったこの身体……金輪際、誰にも奪わせやしないわ」
「……オ前、ソロソロウゼェワ。【赤兎】ノ事ヲソンナニ愛シテイルノナラ、オ前モ後ヲ追ッテ死ネバイインジャン? マ、ソウナリャ〜ソノ身体ハモウ使エナクナッチマウンダケドナァ~。デモ、イイヤ。モウ! 代ワリナライクラデモ補充出来ルシ。俺ハオ前ガ【兎神ノ子】ダカラ、使ッテヤッタダケダシヨォ! ……ナンナラ最後ニイイ事ヲ教エテヤロウカ? ヒヒッ」
死神は展望台の一番高い位置までジャンプし、そこに腰を下ろすと……綿と布で出来た小さな手をパンパン鳴らしながら大きな声で叫んだ。
「Ladies and gentlemen~! 良イ子モ悪イ子モ聞イチャイナ! コノ俺、ゲーデノ懺悔ヲサ! プフ。ハイ皆、コレニチューモク!」
死神がそう切り出すと……突然、その手の中に大きな厚切り画用紙が数十枚現れた。まるでマジックでも見せられているかのようだ。こちらから見える一枚目には、毒々しい紫色の背景に、血に濡れた少年の人形……そして、汚い字で【ゲーデ君、涙ノ懺悔物語】と描かれているのがわかった。……紙芝居でもしようと言うのか?
死神は最初の一枚を一番後ろに引っ込めた。次に出てきた絵は……一人の少女が、ニヤリと不気味に笑う少年の人形を抱きしめているものであった。
「ムカ〜シ、昔、ゲーデ君ハ……ワケガアッテ人間ノ娘ノ元デ暮ラシテイル、可愛イ可愛イオ人形サンデシタ。ゲーデ君ノ持チ主ハ、トテモトテモ優シク、良イ娘。ソウ……虫酸ガ走ルクライニネ? フヒヒ!」
次の絵は少女が口から血を吐いたり、腹部に刃物が刺さっていたり、落雷に打たれていたり、虫が身体中に這っているのを想像している人形の絵だった。……普通の人間なら直視しがたい絵である事は間違いない。けれど私は、死神の真意と懺悔とやらが知りたくて、淡々とその絵を眺め続けていた。
私の中のティターニアが、より一層外に出たがっているのを感じながら……
「ゲーデ君ハドォ~シテモ、ソノ娘ノ苦シム顔、醜ク歪ンダ顔ガ見タカッタ……ナノデ、周リノ人間ヲウマク操リ、ケシカケル事ニシマシタ。娘ヲ、アノ……見ルカラニ野蛮デ、凶悪ナ、極悪人面シタ【兎神】ノ生贄ニ捧ゲヨ、サモナケレバ災イガ降リカカルデアロウ! マァ……コンナ感ジデネ? 現ニ村人達ハ兎神ニ怯エナガラ、日々生活ヲ送ッテイタ……誘導スルノハ簡単ナ事ダッタゼ」
死神の言葉に周囲がざわつくのがわかった。
ゲーデが話している内容は、間違いなく赤兎や双子達の母親の話だ。
……そんな馬鹿な。赤兎が最初にゲーデの存在を認識したのは、白兎の為に里に下りた時だった筈。
私や赤兎は、そんなにも昔からこいつの手の中で踊らされていたのか?
一枚、一枚……不気味な絵が捲れていく。その内容に、流石の私も吐き気を覚えずにはいられなかった。
死神は、これから何を告白しようとしているのだろう?
「マッサカ、アノ兎神ト人間ノ娘ガ恋仲ニナルトハ誰モ思ワネェダロ、普通! ……ケドヨ、コノ展開モマァマァ面白レージャン? キヒ! ……ナノデ、気ノ長~イゲーデ君ハ、暫ク様子ヲ見ル事ニシマシタ。ソシテ、ムカッ腹ガ立ツクライノハッピーライフヲ過ゴス奴ラニ……何ト! 赤ン坊ガ授カリマシタァ! ソウ! 皆様ゴ存知ノ赤兎チャンデス! ワオッ!」
死神の描いた赤兎は、穢れを全く知らない、純粋そうな笑顔で笑っており、今までの絵とは異なっていた。
「コノ赤兎チャン、人ノ血ガ混ザッテル癖ニスゲェチカラヲ持ッテオリマシテェ~。何ト! 赤ン坊ノ癖ニ、ゲーデ君ガ普通ノ人形デハナイトイウ事ニ気付イチャッタミタイナンスヨネ~。アノ兎神デスラ気付カナカッタノニ。ウヒ。赤兎チャンハ、ゲーデ君ガ傍ニイルダケデ泣キ叫ビ、暴レル始末。オカシイト感ジタ両親ハ可愛イゲーデ君ヲ手放ス事ニ! トニカク、ブッ殺シタクナルクライムカツクガキダッタノデスガ……優シ~ゲーデ君ハ、マタマタ我慢スル事ニシマシタ。エライデショ? ダッテ、ゲーデ君ノ関心ハ【人間ノ母親】カラ【神ノ出来損ナイ】ニ移ッテイタノダカラ。……ア~ッ! シッカシ面倒クセェナ、コレ。ッテ事デ、短縮スンネ~? ソンナ怒ンナッテ! クケケ!」
死神は数枚の絵を空に向かって投げ捨て、新しい絵を皆に披露した。
先程の赤兎の絵とまったく同じように見えるが、今度の絵は赤兎の顔や身体が真っ赤に染まり、純真無垢な笑顔から一転……狂気染みた笑顔に早変わりしている。その後ろでは、人間達が様々な凶器を握りしめ、二人の小さな幼な子を抱えながら逃げる女を執拗に追いかけていた。
「ゲーデ君ハ人間達ガ子兎共ノ母親ヲ殺スヨウニ、ウマク仕向ケテヤリマシタ! ドウヤッテ? ソンナノハ簡単! ……人間ッテサァ、ホンット自分ノ事シカ考エテイナイオ馬鹿チャンバッカリダカラ、恐怖デ支配スリャア、何デモヤッチャウ生キ物ナノヨ。デ、殺サレル直前ノ母親ヲ庇イ、兎神ガ死ンデ…………
ナインデスヨネェ~、実ハ♪」
「……えっ?」
死神の言葉に、思わず間の抜けた声が出る。死神は私の顔を見ると、喜色満面の笑みを浮かべながら言った。
「ダッテ殺シタノ俺ダモン! 仮ニモ神ガ人間ナンカニ殺サレルカッテノ! 母親ハ赤兎ト生マレタバカリノ双子ヲ連レテ、トットト逃ゲチャッタカラ……母親ト赤兎ノ間デハ、兎神ハ人間ニ殺サレタ事ニナッチャイマシタァ! ウヒヒ、ドウコレ? ウケル~! ……ア。因ミニ、身体ヲ弱ラセタ母親ヲ殺ッタノモ、実ハコノ俺! 病死ニ見セカケテ殺シチャイマシタァ! ハイハ~イ、今ココデ、俺ノ罪ヲ懺悔シマアアアアアッス! ドウモ、スイマセンデシタァ〜! グヒャヒャヒャ!」
「……信じられない。よく笑ってそんな事が言えるわね……? 絶対に許せない……! 絶対に許さないから!」
人間の娘が、無謀にも死神に抗議をしている。島にいた神々等も皆、野次を飛ばしたり騒いだりしていた。
私はもう……どうすれば良いのかわからなくなっていた。
――ねぇ、赤兎。……全部違ったよ。真実は、私達が知るものとはまったく違ったみたい。あんたは死んでしまった。だからもう……真実を知る事は出来ない。
私達が、あの雪の降る夜にゲーデに出逢ったのも……きっと全部仕組まれていた事。……ああ、憐れにも程があるわ。私の分身よ。
あんたは生まれた時から死神に魅入られていて、幸せになんてなれる筈がなかった。どうしてあんただけがこんな目に遭わなければいけなかったの?
惨めで憐れで可哀想な赤兎。どうしてだろう、あんたがいなくなった時と同じくらい……胸が痛む。
(――あらぁ? わたくしから言わせてもらえば、憐れなのは貴女も同じでしてよ? うふ! だって貴女って、本体に情が移り……今では虫も動物も、人間だって殺せなくなってしまった甘ちゃんなんですものぉ。もういない相手にそこまで尽くすだなんて、憐れ極まりないと思いませんこと? 双子達の事だって、貴女……ちゃんと殺せますのぉ? 無理なんでしたら、黙ってわたくしと代わりなさいな? わたくしが貴女の代わりに、華麗に美しく、無慈悲かつ残酷に殺して差し上げましてよ♪)
脳内にティターニアの声が響き渡る。……いけない。今ここでティターニアと代わるわけにはいかないわ。それに、死神相手に弱い部分を見せるわけにもいかない。虚勢を張ってでも気丈に振舞わないと……
「……ねぇ、ゲーデ。話はそれでお終いかしら? そんな下らない話、聞いてるだけ時間の無駄だわ。あんた、私の事を惑わそうとしたのかもしれないけど……お生憎様。【私】は兎神の子でも、人間の娘の子でもない。ましてや、あの双子達の姉でもなんでもないわ。だから、私にそんな話を聞かせても何の意味もない。退屈なだけよ。……そんな事より、さっさと続きを始めましょうよ?」
「――イイヤ、意味ナラチャントアルサ? 確カニ【オ前】ハ、兎神ノ子デモ人間ノ子デモナイシ、双子達ノ姉デモナイ。マッタクノ赤ノ他人ダ。……ケドヨォ、赤兎ハドウダ? オ前カラ見テ、アイツハ【他人】ナノカヨォ? 違ウヨナァ? オ前ハ、モウ存在シナイ赤兎ノ事バカリ考エ、生キテヤガル。ナラドウダ? アイツノ気持チニナッテ考エテヤレヨ? 友達ダロ? 家族ダロ? 姉デモアリ妹デモアリ、時ニハ母親ノヨウニ強ク愛ニ溢レテイタ、アノ赤兎ノ傷付イタ顔ヲ思イ浮カベテミロヨ? ケケッ! ……イイカ? オ前ノ弱点ハソレダヨ、赤兎ダ。チカラデ勝ッテイヨウガ、メンタルノ強サデハ……オ前ハ赤兎ヨリズット劣ッテヤガル。俺ニハワカッテルゼェ? 今、オ前ノ心ニ生マレテイル不安ヤ葛藤……駄目ダヨォ? 赤兎チャァン? ソウイウノガ一番、悪イ奴ニ付ケ込マレヤスインダカラァ~! ――オ前ハ、赤兎ヨリ遥カニ弱イ」
「違う! 私は……!」
死神はまず相手の心を支配する。だから、惑わされてはいけない。そんな事はわかっている。でも……その通りだ。私は弱い。
赤兎がいなくなってから、まるで心にぽっかりと穴が空いたようだった。私は、あの娘の中に生まれた単なる人格でしかない。赤兎がいなくなった私は独りぼっちだ。孤独なのだ。
……この寂しさに、気付きたくなんかなかった。
本当はわかっている。あの娘が双子達に殺されたのは、全て私のせいだ。私さえいなければ……あの娘が苦しむ事も、命を落とす事もなかった。けれど、認めたくなかったのだ。認めてしまえば……壊れてしまいそうだったから。
だから全ての責任を、直接手を下した双子達に押し付け、殺意を抱き、『復讐する為だけに私は存在しているのだ』と……ずっと自分に言い聞かせて生きてきたのかもしれない。赤兎がこの場にいたら……こんな私を見て、どう思うのだろう?
――妖精が笑っている。不安に押し潰されそうな私の心に、更なる追い打ちをかけるかのように。
――死神は笑っていた。私がティターニアに再び取り込まれる事を、最初からわかっていたかのように。
そして私は……間違いなく、戦意喪失していた。
「……さっきから聞いてりゃあ、うるせぇんだよ! このキモグルミが!」
突然聞こえてきた声に、私は顔を上げる。
いつの間に上に上がっていたのだろう? 黒兎は死神の首を強く掴み、高く持ち上げていた。
「言っておくけど……僕達は今更、何を聞いても驚かないよ? ……けど、もうお前の話にはうんざりだ」
白兎はすかさず、死神の身体に青い炎を放つ。黒兎は、自分の手や腕が死神の身体と共に燃え上がろうとも、奴の首を掴んだ手を緩める事なくしっかりと握り、決して離そうとはしなかった。
「アチッ! アッチィナ~! オイオイオイ、黒兎ィ? オ前ノ腕マデ燃エテンジャアアン? 容赦ナイネ~、白兎? 俺ヲ殺ル為ナラ、姉貴ノ腕ノ一本ヤ二本、犠牲ニシテモイ~ッテノカァ? ……非情ダネェ~? オ前、俺以上ノ悪党ダワ」
「チッ! 黙れよ。てめぇを殺れんだったらなぁ……こんな腕の一本や二本、簡単にくれてやらぁ!」
「お前は今すぐこの手で殺す。……絶対に逃がさないよ。黒兎、君には申し訳ないけど……確実にこいつを仕留めるには、もうこうするしかないんだ。少し我慢してくれ……」
「馬鹿! わーってるよ! いらねぇ気なんて使わねぇでいいから……さっさとこいつの息の根を止めろ!」
黒兎の言葉に頷くと、白兎は翳した手のひらから新たな炎を生み出した。
黒兎は顔を歪め、死神は激しい炎に包まれる。それを見ていた仮面の衆が、次々に騒ぎ始めた。
「ケッ! イイダロウ……テメェラ! 大乱闘ダ! 好キニ暴レヤガレ!」
死神の言葉に、仮面達が戦闘態勢に入る。島の客人達がそれを迎え撃ち、辺りは瞬く間に戦場と化した。
「……サァテ、オ前ラモナントカシナキャナァ。アンマ調子ニ乗ルナヨ? 糞ガキ共ガ。……デモ、ソノ前ニ♪」
死神の首が一回転し、私の姿を捉えると……炎の中で、ギロリとその目が光った。
……何だ? 奴は今、何をした? 私の身体が、まるで見えない鎖に繋がれたかのように動きを止める。
戸惑う私を見て、死神はにんまりと不気味な笑みを見せると……私を目がけ、口内から『プッ!』と何かを吹き出した。
「……グッバイ、弱ッチイ方ノ赤兎チャン♪」
「っ! ――姉様、逃げろ!」
「早くそこから離れて! 姉様!」
二人の声が、しっかりと私の耳まで届く。……けれど、やはり身体は動いてくれない。
――ああ、このままだと……きっと私は死ぬのだろう。
しかし、今はそんな事よりも……こんな私を、こんなどうしようもない私なんかの事を、『姉様』と呼んでくれた二人に、言葉では表現出来ないような想いと、深い感情が芽生え始めていた。
全てがスローモーションのように見える。死神の口から放たれた、小さな鉛のような玉が……ゆっくりと、確実に私の心臓を狙って飛んできているのが鮮明にわかった。
……もう、いいや。少し疲れたもの。赤兎……私ね、あんたに逢いたいよ。クソ真面目で、口煩くて、正義感が強い割に弱虫で……誰よりも気高く、清く、思いやりのある優しい娘。この身体は、やはりあんただけのものだ。もう誰にも穢させたりしない。
ティターニアにも……この私にも……
「――危ない! 赤兎!」
突然、私の前に飛び出してきた小さな背中。その背中に鉛玉が貫通し、ゆっくりと地面に落ちる。私は、その小さな身体の人物がその場に倒れ込む様子を、ただじっと見つめていた。じわじわと血液が溢れ出し、やがてその場に小さな泉を作る。
――どうして、こんな馬鹿な真似を……?
私の身体が、ようやく見えない鎖から解き放たれた。私は膝をつき、震える手をそっと伸ばす。ごろりと体制を反転させたその人物は、ニコリと笑って私に言った。
「どうやら無事のようじゃな……間に合って良かったわい……安心したぞ……」
知ってる……私はこの穏やかな声を知ってる。
知ってる……私はこの小さな背中を知ってる。
知ってる……
私はこの優しい笑顔を知って――
「狸!」
島の客人であろう天狗の面を付けた老人は、そう彼の名を呼ぶと……目の前にいた仮面の衆らを蹴散らして、急いでこちらに駆けつけて来た。その後に、人間の娘と男が続く。
――狸神。先程船の中で、ティターニアから【私】を引きずり出してくれた張本人だ。少し調べたい事があるといい、船に残った筈の狸が……何故ここに?
狸神は、私の頬にそっと手を添えた。私の身体はビクッと反応して見せたが、私に触れたその手のひらは……とても温かかった。
「今まで、すまんかったなぁ。おまん達は、いつも儂に救いを求めていたというのに……儂は何一つ気付いてやれんかった。許してくれ」
狸神は……赤兎が慕い、とても大切に想っていた存在だ。彼は、私の存在には気付いていなかったようだけど……たまに人格が入れ変わり、暴れ、喚き散らす私の事を、いつも優しく抱きしめながら……『大丈夫、大丈夫』と、背中をトントン叩いてくれたっけ。時には、『生き物を殺したい、人間を殺してみたい』と言う私を叱り、生命の尊さというものを説いてくれた。
あの頃の私は、『口煩い糞ジジイめ、いつかお前もこの手で殺してやるからな!』と、そんな事を思ったりもしたものだが……
「……どうして?」
「ん……?」
「何故、私なんかを庇ったの? ……馬鹿ね。私なんかを庇ったせいで死ぬだなんて、とても愚かな行為だわ」
「まぁ、そう言うな。この老いぼれはな……可愛い孫の為なら何でも出来るし、何でもしてやりたいんじゃよ。それに、爺より先に死ぬ孫がおるか!」
「……貴方が実の孫のように可愛がっていたのは、赤兎でしょう? 私には関係ない筈よ」
「……いいや、おまんも儂の可愛い孫の一人じゃよ。気が強くて、気性も荒い……孫の中では一際手の掛かる、儂の大切な孫じゃよ。ほれっ、手の掛かる子程可愛いと言うじゃろうが? おまんはほんに、可愛い、可愛い……儂の孫じゃ」
そう言うと、狸神はとても嬉しそうに笑った。私は何だか胸が熱くなって、思わず顔を背けた。
止まらない血液、額から流れる尋常ではない汗の量、青ざめた顔で息急き切る狸神の姿を見て……もう長くはもたないだろうと思った。そう悟らずにはいられなかった。天狗面の老人は延命治療をしようとはしなかったし、私もしなかった。
――わかっていたからだ。もう彼は助からないという事を。
死神の口から飛ばされたものは、単なる銃弾のようなシンプルなものではなかった。……あれは邪悪な呪いの結晶。死神は生命を司る神。死神に生命を狙われた者は、絶対に助からない。
人間の娘は涙を流し、男は俯いたまま……何も話そうとはしなかった。
周りを見渡すと、今も戦闘は繰り広げられている。そして私は、再び展望台に目を向けた。
死神は相変わらず、黒兎に首を掴まれ、火にかけられている。何か話しているようだが、周りが騒がしいのと声が遠いのとで、よく聞こえない。しかし……あの二人も気が気ではないだろう。親を知らなかったあの二人からすれば、狸神は親同然の存在だった筈だから……
「……そうじゃ、まだ聞いてなかったな。おまんの名は何というんじゃ……? ちゃんと名はあるのか? あるならば、最後に教えてくれんか? どうしても、その名で呼んでやりたくてな」
「名前……? 私に名前なんてないわ。そんなもの……ある筈がない」
「――そうか。……ならば、この年寄りに名付けさせてくれんか? 実はおまんにぴったりの名を考えておったんじゃ」
狸神は小さな目を糸のように細めて笑うと、皺くちゃの手を私の頬から頭部に移し、優しく撫でた。
「赤によく似ておるが、赤ではないもの。しかしそれは赤と同じように……とても美しい色じゃ。緋色の兎……お主の名は【スカーレット】。どうじゃ? なかなか良い名じゃろう?」
「私の名はスカーレット……{緋兎}(あかうさぎ)……」
狸神は弱々しくコクリと頷いた。
「スカーレット……もう一人の緋兎。大丈夫じゃ。おまんの気持ちはきっと、赤兎まで届いておる。よくぞ今までその身体を守ってきてくれたなぁ。あん娘の代わりに……礼を……」
そう言いかけた時、狸神の口から大量の血液が飛び出した。天狗面の老人は声を大きく荒げ、必死に狸神に呼びかける。
「狸、しっかりせえ! お主が死んだら……儂はこれから誰と酒を呑めばいいんじゃ⁉ お前と呑む酒が一番美味いというのに!」
「仙人よ……儂はもう充分に生きた。あの世で爺さんが来るのを先に待っとるでな。そん時は……また共に盃を交わそう」
「バカタレが! お前はまだ、儂より全然生きてはおらんではないか! まだ早い! 順で言えば儂の方が先じゃろうが⁉ ほら、しっかりせぇ! 狸!」
鼓動がおかしいくらいに早くなる。私は無意識に顔を左右に振っていた。
……嫌だ、嫌だ、嫌だ。これが【死】だというのか? あれだけ興奮し、求めていた死が……これ程までに辛く、悲しいものだったというのか?
ならば、私がしてきた事……奪ってきた全ての生命は……
『生きている者の命を奪うなど、許される事じゃあない。まったくもって愚かな行為じゃ。その者の生命の終わりは……時が定めるか、己自身が決める事。他者が好きに奪ってよいものではない! ……命は尊いものなんよ。おまんにも、いつかきっとわかる筈じゃ』
「嫌だ……」
私の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。私は必死にそれを拭うが、一度溢れ出した涙は、まるで噴水のようにとまる事を知らない。
「嫌だぁ! お爺ちゃん死なないで! 死なないでよ……! やだよ! 死んじゃやだよ!」
「……おやおや。赤兎と同じで、こっちの【孫】も随分泣き虫じゃのう。双子達に笑われてしまうぞ」
狸神は嬉しそうに声を出して笑うと、ゆっくりと瞳を閉じた。私は、もう動かない狸神の身体を抱きしめながら、まるで赤子のようにわんわんと泣き喚いた。
「……馬鹿め。お主は本当に大馬鹿もんじゃ。心配するな……後は儂らに任しておくがいい。――狸よ、ゆっくり眠れ」
仙人と呼ばれた老人はゆっくりと立ち上がり、狸神の亡骸に背を向けると、再び戦場の中へと戻っていった。
「あの……これ、使って」
人間の娘が、私にそっとハンカチを差し出してきた。……確か、ティターニアが【ミズホ】と呼んでいたっけ。
あんたの目も真っ赤なんだから、自分で使えばいいのに……とんだお人好しね。
「いい。いらない……そんな事より、あんた達にお願いがあるんだけど」
私はそう言いながら、袖でゴシゴシと顔を擦った。目元が少しだけヒリヒリと痛んだが、そんな事はどうだっていい。
「……俺達に出来る事なら」
男が私に向かって静かにそう答えると、その横で娘も大きく頷く。私は『ふぅ』と一呼吸置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「狸神を……お爺ちゃんを……どこか木陰の方に。ここに亡骸を置いたままだと、奴らの闘いの巻き添えを食うかもしれないから。もう誰にもお爺ちゃんを傷付けさせたりはしない。彼を……ここから近く、けれど安全な場所に運んで頂戴」
事の結末を、きっと狸神も知りたいであろう。だから私は遠くとは言わず、敢えて近くを指定した。
「……わかった」
男はそう言うと、小さな狸神の身体を優しく抱き上げた。狸神は男の腕の中で安らかな表情を見せ、眠っている。
「……ありがとう」
私は二人にそう伝えると、くるりと方向を転換させた。
「貴女は……これからどうするの?」
娘の弱々しくか細い声が耳に入る。馬鹿な質問だ。私がこれから行う行動など、一つしかあるまい。
「決まってるじゃない。あの死神を消してやるわ」
私は一歩前に踏み出した。すると……今度は先程よりも小さく、消え入りそうな声が耳まで届いてきた。
「ねぇ……スカーレット。貴女は死なないでね」
――スカーレット、か。
その言葉に私は答える事なく、急いで展望台を目指した。
***
ごめんね、お爺ちゃん。折角お爺ちゃんが救ってくれた命だけれど……私はもう、取り返しのつかないくらいに沢山の命を奪ってきてしまった。
虫も、動物も、人間も……あの優しかった童子達の命までも。
愚かだった。浅はかだった。どれだけ過去を悔やんでも……もう元には戻らない。
双子達の事は今でも憎い。この私の代わりに赤兎が犠牲となり、殺されてしまったから。
けれど……私が双子達を殺したところで、赤兎は絶対に喜ばない。あの娘は双子達の事を、とても愛していたから。
私はね、【あんた】の悲しむ顔が見たいんじゃない。……喜ぶ顔が見たいんだよ。
「お爺ちゃんは死んでしまった。……もうこれ以上、あんたの大切な者は殺させない。そうする事でしか、私には償う事が出来ないものね」
生暖かいのに、何故か凍りつくような気持ちにさせる邪悪な風が……皆の身体に纏わりつき、少しずつ体力と気力を奪っていくようだ。
そして、その奪われた力は全て……死神に注がれているような、そんな気がしてならなかった。
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