夜宴の島 前編 【兎狩り編】
夢空詩
第1話
一
若葉の香りを運ぶ、初夏の風が吹きぬける夏。
私の人生を大きく変える出来事があった。
それはきっと、誰に話しても信じてもらえないような、とても奇妙で不思議な一つの物語。
私自身、今でもたまに……『あの出来事はもしかして、私が見た夢の中の話だったのだろうか?』なんて思う事がある。
けれど、彼が残してくれた沢山の思い出達が『あれは決して夢などではない』と、優しく私の心に語りかけてくれた。
私の退屈でつまらない世界はきっと、彼と出会った事によって、かけがえのない、尊いものへと変化したのだ。
蛹から脱皮し、蝶になるように。
蕾が綺麗な花を咲かせるように。
雨上がりに、鮮やかで美しい虹が生まれるように。
私は、私という殻から抜け出し、新しい自分に生まれ変わる。
そうして初めて……何もないこの世界も、案外悪くない。そう思えたのだ。
――彼と、ずっと一緒にいられるのなら。
私は誰もいない夜道を一人、ゆっくりと歩く。
既に寝静まった街を起こさないように、無意識に忍び足になりながら、夜の帳に身を隠した。
時おり立ち止まっては、星の輝く夜空を眺め、もうここにはいない彼を強く想う。
言いたい事は沢山あった。けれど、咄嗟に口から出てくる言葉はいつだって同じ。
「……ごめんね」
温情深い夜の闇が、私の目から流れる一筋の涙を、暗闇のヴェールで隠してくれた。
誰もが恐れる漆黒の夜、孤独を連れてくる夜。けれど、私はこの夜がとても好きだ。
あの世界の夜とはまったく違うけれど、この世界の夜は……彼を想う、優しい時間を私にくれるから。
考える時間を与えてくれる静かな夜。優しく私を照らしてくれる月や星達。
私は今一人、この静寂に包まれた無人の街に存在していた。
昼間は賑わいを見せる街並みも夜に溶けると、まるで別世界のようだ。
澄んだ空気を鼻からゆっくりと吸い、口からそっと吐き出してみる。とても気持ちが良い。
そんな事を考えながら、私は再び、沢山の星が散らばり眩い光を放つ、美しい夜の空に目を向けた。
――ソウくん。
貴方は今でも……賑やかで騒がしく、不気味で奇妙な、悲しくも切ないあの夜を、繰り返し過ごしているのかな?
いつか、もしも戻ってくる事があれば……必ず会いに来てね?
私はその日が来るまで、ずっとずっと貴方を待っているから。
暗い路地を抜け、広い河原に続く道に出ると、もうかなり遅い時間だというのに、花火をしている若い男女の姿が見えた。
……恋人同士かな? とても幸せそうだ。
楽しそうに見える二人の姿を微笑ましく思いながらも、ゆっくりと足を進める。
すると、突然後ろから破裂音が聞こえ、私は思わず振り返った。先程のカップルが、小さな打ち上げ花火を夜空に打ち上げたようだ。
「綺麗……」
花火は正に夏の風物詩だ。河風が火薬の匂いをここまで運んできた。
「……ソウくん。もうすぐ、夏が終わるね」
楽しそうに笑いあっている二人が、これからもずっと幸せでいられますように。お願いだから、彼と私のようにはならないで。
そんな事を思いながら軽く苦笑すると、今度こそその場から離れ、目的地に向かって歩き始めた。
彼は、とても不思議な人でした。
明るくよく笑い、場を和ますチカラを持っていたから、彼の周りでは皆が笑顔になる。それはまるで、暖かい春の陽気のように思えた。
けれど、晩秋から初冬の間に吹く木枯らしのように、冷たく、時には非情な部分も見え隠れし、何だか怖いと感じる事もあった。
ドジで、少しおっちょこちょいなところもあったな。思い出すと、今でも笑ってしまう。
だけど、本当はとても頼りになる……強くて優しい、勇敢な人。
馬鹿みたいにお人好しな彼に、たまに少しだけイライラさせられる事もあったけれど、何だか憎めなかった。
どの彼が【本当】の彼だったのか、私にもよくわからない。
でもね? 私はそんな百面相のような彼の事が、とても大好きだったんだ。
とても……とても、大好きだったんだ。
あの世界に戻りたいとは思わない。あの場所にいれば、嫌でも思い出してしまうから。
美しく優しかったあの時間を。
恐ろしくも切なく、悲し過ぎたあの結末を。
……けれど、もう一度だけでいい。彼に会いたい。
そんな矛盾した気持ちが、心の中でグルグルと渦を巻き、私を激しく苦しめた。
何となくポケットの中から携帯電話を取り出すと、繋がる筈のない彼にコールをしてみる。
――やはり繋がらない、か。
私は仕方なく、通話終了のボタンを押した。
一体、今までに何度この動作を繰り返したかはわからない。……馬鹿みたいでしょう?
けれど、今はやめられそうにないの。だから暫くは、そうする事を許して欲しい。
いつか、その癖がなくなるその時まで――
公園に着いた私は、ブランコの上にゆっくりと腰を下ろした。ここは、バイト帰りによく彼と来た思い出の場所。
ここには今でもよく足を運んでる。そして空を見上げては、いつも彼の事を思い浮かべるんだ。
彼と、初めて出逢った時の事を。
……ねぇ、ソウくん。あの時は本当にごめんなさい。第一印象で貴方を判断してしまった私は、とても小さな人間でした。
親しくなったきっかけは、とある小説。
私の好きな本が貴方の一番好きな本と同じで、思わず話が弾んだよね。
貴方はとても変わり者で、私も負けず劣らずの変わり者だった。お互いに、あまり人から理解されないタイプの人間だったと思う。
否定されるのが怖くて、私はそれをひたすら包み隠していたのに、貴方は臆する事なく、隠す事なく、堂々と周りにアピールしていたよね?
笑っちゃうくらい、貴方は自由な人でした。
だから……ああなった事は、きっと必然的な事だったのだろう。
貴方と訪れたあの島……
貴方があそこに残るのは、目に見えていたのに。
『――どこか遠くへ。そんな事を常に考えながら、俺は生きてる。……おかしいだろ? けど、本心なんだ』
彼は、『こんな何もない世界に、何の魅力も感じないんだよ』と、まるで口癖のように何度もそう言っていた。……わかるよ、わかる。
だって私も、同じ事をずっと思っていたから。
小さな頃から本が大好きで、友達と遊ぶよりも自宅に帰って本ばかりを読んでいた私は、素敵な物語を読む度に現実の世界に幻滅していく。
この世界は物語のように美しくはない。
恋愛小説のような純粋で穢れの知らない純愛など、今の時代存在しない。
ファンタジーゲームのような夢や希望に満ち溢れた大冒険など、出来る筈もない。
ホラー映画のようにシンボルになる仮面を被った殺人鬼が、次々と殺戮を繰り返していくなんて、有り得っこない。
推理ドラマのように探偵が次々と難事件を解決していくなんて、聞いた事がない。
そんな事が実際に起きる筈ないと思っているからこそ、人々は憧れを抱き、その世界観にどっぷりハマっていくのだろう。
けれど……それは違った。
人は時として突然、現実で考えられないような事態に対面する事もあるのだ。
実際あの島に招かれた私達は、有り得ない体験をしてきたのだから。
楽しかったね。でも、やっぱり怖かった。
得体の知れない、人であらざる者達と過ごす無限の夜。恐怖を感じない方がおかしいというものだ。
しかしあの世界は、この世界の何倍も何十倍も美しかった。私は本当に、あの世界が大好きだったんだ。
けれど、【あんな事】が起こってしまったのに、彼と同じようにあそこに残る事は……私には、とてもじゃないけど無理だった。
だからもう二度と、あの美しさを目にする事は出来ない。
でもね? あの島に招かれ、同じ夜を繰り返し彼と過ごした事を……私は未来永劫、忘れる事はない。
――ねぇ、ソウくん。この物語の結末はどうなるの?
ありきたりの物語を好まない貴方なら、きっと誰もが想像も出来ないような最高のエンディングを用意してくれるよね?
それまでのストーリーは私が綴るから、その続きを私に教えて欲しい。そして、感想を聞かせてよ。
お願いだから……
生暖かい夜風が、誰も座っていない隣のブランコをそっと揺らす。
まるで隣に彼がいて、私の紡ぎ出す物語に耳を傾けてくれているかのようだ。
「……ソウくん。この物語が、夜宴の島にいる貴方の元まで届きますように」
私は鞄から一冊のノートを取り出すと、ゆっくりとその内容に目を通し始めた。
***
【夜宴の島】
得体の知れない者達が島の海辺に集まる、夜の宴会場。
背後には、とてつもなく深い森が広がっていた。
暗闇に灯るオレンジの火が昇り竜のように燃え上がる。まるで躍っているかのように。
色とりどりの衣装を身につけた者や獣達も、我を忘れたかのように愉快に踊り明かす。
笛は高らかに美しい音色を奏で、皆はパーカッションのリズムに合わせ手拍子を送った。
見目麗しい娘が美しい歌声で歌い始めると、鎌鼬はそれに合わせて軽やかに舞う。
荒ぶる風を巻き起こし、鮮やかな紙吹雪を宙に撒き散らしながら。
幼い童が、揃って一斉にシャボン玉を高く飛ばすと、まるでこの宴会は水の中で行われているような錯覚に陥った。一面に広がるシャボン玉は、まるで呼吸の泡のように浮き上がる。
その美しく神秘的な空間に心を奪われた私達は、思わず息を漏らさずにはいられなかった。
「何度見ても綺麗……」
「……うん。まさに【水中月下】だね」
そう言った彼は、少年のように目を輝かせていたものの……どこかその表情は、憂いを帯びているようにも見えた。
――私達はもう何度、その宴会に参加しただろう?
月はいつも満月で一度も欠ける事がなく、星の位置もいつだって同じ。
私達は、同じ夜を何度も何度も繰り返しているという事なのだろうか? それとも……
今夜も私達は、それぞれが手に持った面を被り、その宴会に参加する。
夜な夜な繰り返される、奇妙で不可解で不思議なこの宴に……
最初にこの島に来た時、私達が謎の老人に教えてもらった約束事。
――楽しんではいけない。この世界に取り込まれてしまうからね?
――楽しまなくてはならない。皆はそっと見張っているよ? 楽しめない者は許されない。
――怖がってはいけない。ここにいる間は、皆が仲間だから。
――怖がらなければならない。 この中にいるのは良い者だけとは限らない。得体の知れない者達が紛れ込んでいるかも。
夜になると、私達はいつの間にかそこにいた。
夜明けが来るまで戻れない。ここがどこなのかもわからない。
天狗の面をつけた老人は、私達にこう言った。
「ここは【夜宴の島】だ。何もかも忘れて歌い踊れ」と――
橘 瑞歩
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