神の旋律

明智 颯茄

雨とバッハ

 十月下旬。どんよりとした雲から落ちてくる雨。止む気配のない雨季。古いレンガ造りの建物が並ぶ通り。


 向かい合った高窓を横切って干されているカラフルな洗濯物は、最近とんと見ない。部屋で日陰の憂鬱ゆううつな生活を送っているのだろう。


 花屋の軒先で色とりどりの花が抱えられて、さっきからワゴン車の荷台に大急ぎで詰め込まれている。


 石畳の上を落ち着きなく往復していた黒のスニーカーは一度立ち止まり、指差し確認で運んだ花を数える。店の中をのぞき込み、積み残しがないかを眺めながら、


「これで全部かしら?」


 リンレイ コスタリカ、二十九歳はそばに立っている女に問いかけた。


 バインダーに挟んだ紙をずっと真剣な顔で見つめていた、どこかとぼけている瞳はリストのチェックマークを目でしっかりさらって、


「はい、先輩、オッケーです!」


 シルレ スタッド、二十八歳はやがて笑顔を見せた。


 屋根代わりのワゴンのリアゲートをバタンと閉めると、溜まっていた雨の雫が一気に落ちる。


 リストからもれることなく積み終わった花々は、しばらく大人しく車に揺られることになった。

 

 傘もささずに、リンレイとシルレはシートに乗り込む。シートベルトをロックしながら、リンレイはやる気満々で言う。

 

「それじゃ、ダステーユ音楽堂にゴー!」


 雨ばかりのジメジメの毎日とは正反対に、軽快に車のキーを回して、エンジンがかかると、すぐに路上の車の列にワゴンは乗った。


 石畳の上でタイヤが通り過ぎてゆくたび、ゴーッというくぐもった走行音が車内に響く。


 快調に見えた車道だったが、すぐにいつもの渋滞につかまった。右へゆるく湾曲する道沿いに並ぶ、テールランプの赤が降り注ぐ雨ににじんでゆくと、ワイパーがそれを拭い去る。


 傘をさして足早に過ぎ行く歩道。それを背景にして、雨が銀の線を斜めに引いてゆく様を、リンレイのどこかずれているクルミ色の瞳はぼんやり眺めていた。


 まったく動かない渋滞。ギアはパーキングに、サイドブレーキを引いて、足をペダルから外した。窓枠に肘でもたれかかり、リンレイはしばらく雨音を聞いていた。


 絶え間ない変化だらけの響きなのに、立ち止まっているジレンマ。矛盾。誘発剤となって、脳裏によぎる――


 どうしようもなく切ない中で、感じた温もりと感触。


「雨……。あの時の……」

「どうかしたんですか? 先輩」 


 リンレイは我に返ると、いつの間にか指先で唇を触っていた。とぼけた顔のシルレの瞳を見つけ、現実へと引き戻される。


 あれは自分の中だけの話――


 心の中にしまう。いやできることなら、新しい毎日に埋もれて、失くして、忘れてしまいたい。吹っ切るように首を横に振ると、ひとつにまとめたブラウンの長い髪が揺れた。


「何でもないわ」


 動き出した渋滞。車が停車していた位置に気持ちだけを置き去りにしようとする。だが、それさえも不確かで、色のついていない透明な雨が虚無の境地みたいで、リンレイはやりきれなくなった。


 ひとつため息をついて、目的地のダステーユ音楽堂へと向かった――。


    *


 赤レンガの大きな建物の正面玄関へと、一台のタクシーが走り込んできた。止まると同時にドアは開き、ロータリーのコンクリートに、茶色の革靴と淡いピンクのズボンを履いた長い足が降ろされる。


 前かがみになった山吹色のボブ髪が姿を現すと、顔の半分を覆い隠すような黄色のサングラスが人目を引いた。


 しかし、コレタカ ファスル、三十歳は人の視線など気にしない。地面にまっすぐ降り立つと、ピンクのスーツとすらっとした体躯がさらに近くにいた人々を釘付けにする。


 そうして、色の変色を起こしやすい黄色のサングラスが片手ではずされると、宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳が現れた。


 ガラスに映った自分の目をじっと見つめたまま、彼は自動ドアが開くと、足早に建物の中を歩き出した。


 この場に似つかわしくない、奇抜な服装をしたコレタカを奇異な目で、すれ違う人たちが追い始めた。


 だが、彼が近づくと、不思議なことに、対象物などなかったような錯覚に陥って、誰もが興味をなくす。


 それとは正反対に、モーセが海を割いたごとく、彼のいく手を阻む人々が勝手によけてゆく。


 まわりの人々を不思議な力で操るコレタカ。本人はただ歩いているだけだったが。


 エレベータへ乗り、上階へと登り、両開きの扉から出て、白がやけに目立つ長い通路の角をいくつか曲がり、やがてガラス張りの部屋へとたどり着いた。


 近づいて、自分が映り込むほど綺麗に掃除されたガラスの向こう側を眺める。


 無機質な黄緑色の瞳で、針のような輝きを見せる銀の長い前髪を、しばらく動くこともせず眺めていたが、ふと小さな声でつぶやき、


「そうね……」


 長い足をクロスさせて、山吹色のボブ髪を両手で大きくかき上げると、不思議なことにその場からすうっと姿を消した――


    *


 ――目覚めた。静寂と闇の眠りの底から。


 急速に戻ってくる五感。まどろんでいたスミレ色の瞳が鋭利さを増してゆくと、大きなプロペラのようなシーリングファンが視界に入り込んだ。


 水面みなもから上がったように、聴覚が鋭い輪郭を持って働き出す。窓を叩くひどい雨音。ベッドの中で少しだけ寝返りを打つと、雨粒でにじむ灰色の空がガラスの向こうに広がっていた。


 寝具カバーのサラサラが素肌に清潔感という感触を落としている、何の乱れもなく、いつも通りの規律。


 そのはずだったが、反対側へ寝返りを打つと、掛け布団がめくられ、誰かが一緒に眠っていたようなもぬけの殻があった。


「?」


 自分は一人暮らし。いつからかは忘れたが、一人だ。手で触れると、かすかに温もりが残っていた。


 ベッドに横になったまま、部屋を見渡す。キッチン、ダイニングテーブルと椅子。二人がけのソファー。どこにも乱れはない。誰も触った形跡がない。


 そうなると、


 人ではないのか。

 自身の商売なら、それもあり得る。

 殺し屋。人ではなく、悪魔の殺し屋――


 物理的法則など関係なく、現れてくる悪しき者。この部屋に忍び込んでいてもおかしくはない。


 警戒心を抱いたまま、シーツの上で右太ももへ手をそうっと伸ばす。肌身離さず持っている拳銃、フロンティア シックス シュータのグリップが冷たい鉄の感触を手のひらに広がらせた。


 ベッドから静かに起き出して、床に足を垂らす。雨音でかき消されがちな物音に耳を澄まして、神経を傾けて探り続ける。


 いつから悪魔と対峙する生活を送るようになったかは思い出せない。どこで何があって、記憶をなくしたのかもわからない。


 ただ自分の名前と年齢だけはしっかりと思えている。


 レン ディストピュア、三十一歳――


 立ち上がろうとすると、ベッドサイドに身に覚えのないものが置いてあった。それは女物のイヤリング。淡いピンクの控えめな小さな宝石。女性らしく儚い持ち主が容易に想像できた。


 ひとつ取り上げて、鋭利なスミレ色の瞳で切り刻みそうなほど見つめ、レンは考える。


 なぜここに。

 いつからここに。


 悪魔どころか人の気配さえもしない部屋を、拳銃から手を離して見渡す。もうなくなってしまったが、シーツの温もり。そうなると、


 昨晩のことだろう。


 膝の上に両肘を落として、首をかしげる。


 遠い昔のことではないのに、何も思い出せない。酒でも飲んで記憶をなくしたのか。そんな覚えもない。


 サーっと宙を切るような雨音がしばらく耳に響いていたが、イヤリングをベッドサイドにイラついたように戻した。


 とにかくどうでもいい。そんなことは。自分に女はいない。それはおそらく……確かだ。自信はないが。言葉としてはおかしいが。


 とにかく今は今だ。


 イヤリングの隣に置いてあったリモコンで、携帯電話でもなく、CDコンポをプレイにする。


 緑深く生い茂る薄暗い森を覆うモヤが迫ってくるようでいて、荘厳なストリングスが、スピーカーから奏でられ始めた。


 シャワーを浴びようとしたが、レンは違和感を覚えて、動きを止めた。


「?」


 CDをかける動作は覚えていた。それなのに、また記憶がない。


 間仕切りのないワンフロアの広い部屋を見渡す。潔癖症の自分らしく、綺麗に整頓されている。食器類もなく、生活感もほとんどない。遠くのほうにカウンターキッチンがあるが、その上には何もない。


 他の部屋へと続くドアは見当たらない。全身白のすらっとした体躯はベッドから離れて、自分の部屋のはずなのに、バスルームを探す。


 ブラインドカーテンの前を過ぎて、二人がけのソファーを右手にして、ダイニングテーブルへとやって来る。全てのものが初めて見るものだった。


 さらに進むと、扉がひとつ出てきた。間取り的に、外へ続くドアのようだ。通路をたどりそこへ入り込むと、別の扉が左手に現れた。


 ホテルか何かでバスルームの場所を確認するように、開けようとすると、玄関ドアからノックもなしに、サバサバとした女の大声が聞こえてきた。


「ねぇ? あたし! 開けてくれない!」 


 つけっ放しにしたままのスピーカーから、聖なる歌声が神に祈りを捧げるように流れ出した曲。そこに混じる雑音としか言いようのない、女の声。


 しかも、シャワーを浴びようとしているのに、自分の行く手を邪魔する女。天使のような綺麗な顔は怒りで歪み、視線などくれてやるかと、見向きもせず放置しようとした。


「Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm……」


 歌詞は何度も聞き覚えがあるのに、


「ねぇ? 開けてよ!」


 ドアの外から聞こえてくる女の声は、どんなに記憶を掘り返しても、自分とは関係ないものだった。鍵はかけてある。自分の性格なら絶対にそうだ。


 レンは返事を返す義理がないと言ったように、バスルームのドアを開けて中へ普通に入っていた。


「開けてってば!」


 女の叫び声だけが虚しく響く。だが、ドアをノックする音はさっきからまったくしない。蹴破ってきそうな勢いで大声を張り上げているのに。


「勝手に開けるわよ!」


 最後通告を言い渡すと、


 ドカーン!


 という爆音とともに、ドアは中に勢いよく押し入れられた。


「もう」


 両手でスーパーの茶色い紙袋を抱えていたが、その中から衝撃でオレンジがコロコロと床に転がり出た。どこかずれているクルミ色の瞳、ブラウンの長い髪はポニーテル。


「ドア、蹴って開けたわよ!」


 バイオレンス。強行突破してきた女。動きやすさ重視の膝までのロングブーツは遠慮なしに、玄関のドアを後ろ足で蹴り閉め、すらっとした長身の男を探す。


「あら? いないの〜? いるって聞いたから来たんだけど……」


 白のシャツは襟元からボタン三つも開け切っていて、左右に体をねじるたび、胸の谷間の線が強く描かれる。


「どうなっちゃってるのかし――」


 そこで、雨音に別の水の音が混じってきた。レンがさっき入っていったバスルームの扉前で、女のプリーツ入りミニスカートが立ち止まる。


「あぁ、シャワー浴びてるのね」


 荷物でよく前が見えないながらも、ダイニングテーブルへと近づいて、


「それじゃ、出られなくても仕方ないわね」


 両手に持っていた茶色の紙袋をどさっと下ろした。


「よいしょっと!」


 電子レンジ用のラザニアやプレッツェルの袋が、几帳面に整えられたテーブルの上になだれ落ちる。


 玄関近くにまだ転がっているオレンジを拾いに、ロングブーツは戻り、膝も曲げずに片足を後ろへ床と水平に伸ばしかがむ。


 すると、太ももの内側から、拳銃ピースメーカーのグリップと下着が顔をのぞかせた。


 土足で歩く床の汚れがついたオレンジを袖で拭き、テーブルの上に置くと、女はソプラノとストリングスの調べに気づいた。


「音楽……」


 少しだけ振り返ると、青く光るイコライザーが高く伸びたり短くなったりを繰り返している。


 聞いたこともないクラシック曲。オレンジを手のひらでポンポンと投げもてあそびながら、一段と雨音が強くなった窓際へとやって来た。


「あいにくの天気ね〜」 


 女のミニスカートのすぐ脇には、ベッドサイドに置いてあるイヤリングがあったが、彼女は気づいていないのか、ただただ激しい雨を眺める。


 外は雨。玄関のドアから買い物袋を持って入ってきた女。傘は持ていない。しかし、不思議なことに、彼女の服も髪もロングブーツさえも濡れていなかった。


 白のバスローブに着替えて、フロアに出てきたレンのスミレ色の瞳に、女のポニーテールが映った。


 慣れた感じで入ってきた彼女だったが、彼はあの女など知らない。不法侵入だ。そうそうなことでは驚かないレンだが、歩みをすぐに止めた。


「?」


 誰だか問いかけようとした。だが、今度は逆の気持ちになった。この女とはどこかで会ったことがある。どこでだかはわからないが、記憶はきちんとある。しかし、名前が思い出せない。


 何かがおかしい……。


 雨音とクラシック曲が部屋の中で、五線譜の風をしばらく吹かせていた。女は振り返ることもなく、レンも動くことはなく。ダイニングテーブルを間に挟んで、女の後ろ姿をレンが見つめる。


 こんなことが昔にもあった、気がする。いや、絶対にあった。

 それでも、名前が出てこない。これ以上待っても仕方がない。


「誰だ?」


 女は驚くわけでもなく、パッと振り返って、おどけた感じで聞き返す。


「あら? もう名前忘れちゃったの?」


 知っているそぶり。

 記憶喪失なのか、これは――


 女が近づいてくる背後のベッドサイドに置いてあるイヤリングを、レンは見て、起きた時の違和感を思い出した。


 一人分のもぬけの殻。この女が今ここにいる。自分が起きるよりも早く起きて、買い物をしてきた。そうなると、


 抱いたのか――


 酒は飲んでいない。ゆきずりの女を家に連れ込む。潔癖症の自分がするというのはにわかに信じがたい。


 まるで形の似ている間違ったパズルピースを無理やりはめ込んだような違和感ミスマッチ


 考えても答えは出てこない。とにかくそんなことではなく。


「お前、ふざけていないで、きちんと名乗れ」


 レンはきつい口調で言ってから、気づいた。


 この女はやはり知らない――


 女は両腕を組み、ため息交じりに窓の外を眺める。レンの前で横顔を見せる女は、小さな声でボソボソとつぶやく。


「そう。これは違うのね」

「どういう意味だ?」


 鋭利なスミレ色の瞳ににらみつけられたが、女はおどけた感じでごまかした。


「こっちの話。いいわよ、私の名前は、リンレイ コスタリカよ。悪魔退治を生業なりわいにしてるの」


 同業者の女。それで顔を知っていたのかと思う。しかし、どうにもはっきりとしない記憶の輪郭。


「…………」


 レンが考えているうちに、リンレイは買い物袋から、中身を外へ取り出し始めた。


「ねぇ? 朝ごはんは?」

「いらない」 


 朝食は取らない主義。基本的にミネラルウォーターのみの生活だ。


 両手いっぱい持ってきたのに、断ってきた男。リンレイはがっかりするわけでもなく、カウンターパンチを食らわしてやった。


「あぁ、そう。持ち帰るのはできないから、ここに置いておくわね。三日後にはカビが生えて、腐臭漂う……かしら?」


 部屋からもわかるほどの潔癖症だ。さすがに応えたらしく、レンの天使のように綺麗な顔は今や怒りでひどく歪みきっていた。


「っ!」


 リンレイは平然と見返して、言葉をつけ足す。


「それが嫌なら、食べちゃうことね」


 次々に出てくる食料。目の前にいる女の言う通り、食べずに置いておけば、腐敗するのは目に見えている。レンは悔しそうに吐き捨て、 


「くそっ!」


 テーブルへとやって来て、濡れた髪のまま椅子へ座った。リンレイはラザニアをキッチンへと持っていき、フォークを探し出して、適当にフィルムに穴を開け、電子レンジへぶち込む。


 電気ケトルのお湯をマグカップに注ぎ込み、マドラーがわりのスプーンでカフェラテをカラカラとかき混ぜた。


 ジャンクフードなど食べるに値しない。レンはやけにフルーツが多いテーブルの上を眺めて、マスカットを一粒ちぎり、口の中へ入れたが、


「っ!」


 レモンの比ではない酸っぱさが広がり、慌ててミネラルウォーターを飲んで口の中をゆすいだ。


 冷蔵庫のドアを開けて、中を見ているリンレイは、背後でそんなことが起きているとも知らず、


「何も入ってない。っていうか、一回も使ってないみたいだわね」


 汚れどころか、プラスチックの無機質な匂いが広がっている。潔癖症にしては少々いきすぎな感が漂っていた。


 チン!


 と、電子レンジの音がして、チーズの香ばしい香りが部屋に広がる。ふたつ分手にして戻ってきたが、レンは一瞥しただけだった。


 二人でテーブルを挟んで、食事を始める。冷めてゆくラザニアの隣で、レンはミネラルウォーターを飲みながら考える。斜め前の席に座る、ブラウンの髪を持ち、サバサバとした女のことを。


 知らないはずなのに、知っている。知っているはずなのに、名前を聞く。


 リンレイ コスタリカ――


 嘘をついているようには見えない。だが、さっき初めて聞いた。しかし、耳慣れているものもある。それは、CDコンポのスピーカーからずっと途切れることのない、ストリングスとソプラノの声だ。


 やはり何かがおかしい……。


 食べかけのラザニアにフォークを立てかけて、クラッカーにクリームチーズとブルーベリージャムを塗りながら、リンレイは気になっていることを聞いた。


「ねぇ、これ誰の何ていう曲?」


 これはよく覚えている。忘れるはずがない。どうしてだかわからないが。レンは奥行きがあり少し低めの声で答えた。


「バッハのヨハネ受難曲だ」 


 リンレイは視線をあちこちに向けて、聞いた曲名を頭に叩き込む。


「そう。クラシックを聞くのね」


 彼女の仕草はどこかで見たことがある。初めて話したはずなのに、記憶がある。思い出せないだけで、やはりどこかで会ったのだろう。タメ口で話してくるのが、何よりの証拠だ。


 向かいの席で、のんきにポタージュスープを飲んでいるリンレイに、レンは少しイラついたように聞いた。


「お前、何しにここに来た?」


 タバスコを持とうとしていた手を止めて、リンレイはニッコリ微笑む。


「あたしがあなたに用事なんて、ひとつしかないじゃない?」 


 暗号みたいな言い方をされても困るのだ。記憶がないのだから。


「何だ?」


 リンレイは薄づきの口紅を指先でそうっとなぞって、こんなことを言う。 


「――セック◯」

「お前いい加減にしろ!」


 テーブルを力任せに叩き、レンは小規模噴火を起こした。リンレイはミニスカートにも関わらず、足をさっと組んで片肘をテーブルにつく。


「冗談よ。仕事の話」


 どうもこの女は相棒のようだ。


 オレンジジュースの缶のふたを、持っていたタオルで綺麗に拭い取って、レンは開けた。柑橘系のさわやかな香りが部屋に立つ。 


「どんな内容だ?」


 リンレイはタバスコをラザニアに大量にかけながら、


「北西の国境近くにある、ヘッセンって村があるじゃない?」


 二人の脳裏にこの国の地図が浮かび上がる。


「ん」

「あの外れにある、カスルディカ城っていう古城、廃城といっても過言じゃないわね。その広間に大きな悪魔が現れたって、話を聞いてきたのよ」 


 この世界には悪魔が存在する。多くの人々はそれも知らずに無防備に生きていて、いつも背中合わせの闇にいつの間にか取り込まれ、ひっそりと命を落としてゆく。そんな危険が潜んでいる日常。


「誰に聞いた?」


 カフェラテのマグカップにマドラーがわりのスプーンを刺したまま、倫礼はカップを傾ける。


「昨日行ったバーのカウンターで、隣に座ってた客がバーテンダーに話してたわよ」


 今は雨でにじんでしまった街並みに、レンは視線をくれる。あの裏路地にある古いジュークボックスからジャズが流れる小さなバーを思い出した。


 だが、すぐに違和感は首をもたげて、銀の長い前髪をさらさらと動かし、鋭利なスミレ色の瞳は切り刻むようにリンレイに向いた。


「お前、昨日の夜は俺とずっと一緒にいたはずだ」

「あら? 夢でも見たんじゃないの?」


 男と女の間で起こった意見の食い違い。レンは超不機嫌顔で、あごだけで振り返るように指図した。


「ん」

「何?」


 手についたクラッカーの粉を払い、リンレイは言われた通り後ろを見て、どこかずれているクルミ色の瞳に、ピンク色をした小さなアクセサリーが映る。さっきそばに立った時に気づかなかったものだ。


「イヤリング……?」


 昨日の夜の話。ベッドサイドに置かれたもの。リンレイはテーブルへ顔を戻して、鋭利なスミレ色の瞳に疑いの眼差しを送った。


「そう。夢じゃなくて、幻聴と幻覚を見たのね」 

「どういう意味だ?」


 リンレイは組んでいた足を下ろして、真面目な顔で現実を突きつけた。


「あれ、あたしのじゃないんだけど……」

「…………」


 修羅場になりそうな予感だった。


 ここにいない別の女のアクセサリーがベッドサイドに置いてある朝。そこで、リンレイと一緒に朝食を食べているレン。


 銀の長い前髪は針のような輝きで、スミレ色の瞳は鋭利だが透き通っていて、超不機嫌だが天使のような可愛らしさの男に、リンレイは当然の言葉を贈った。


「どこの女? そっち方面はだらしないってことなのかしら?」


 テーブルの影になっている腰元を、リンレイは想像してみた。その視線をもろともせず、レンの鋭利なスミレ色の瞳も針のような銀の前髪もまったく動かない。


 それでは誰のだ?

 二股をかけていた?

 潔癖症の自分が……?


「…………」

「言い返してこないってことは、図星なのかしら?」


 リンレイが圧倒的優勢だったが、レンがテーブルをバシンと強く叩くと、すっかり冷めてしまったラザニアが反動で浮き上がった。エロモードをゴーイングマイウェイで回避する。


「お前いいから正直に話せ」


 お怒りの男の前で、「そう?」と肩をすくめて、リンレイは正直に話し始めるが、


「ルファーって神さまから聞いてきたんだけど……」


 どこからどう聞いてもファンタジーで、おかしい限りで、はぐらかしてばかりの女。


 活火山のマグマが地底深くでグツグツと密かに活動していたのが、限界がきて、山頂から天へ突き抜けるような火山噴火ボイスが上がった。


「お前いい加減にしろ!」 

「そうやって怒るから、嘘をついたんじゃな〜い」


 クリームチーズを塗っていたバターナイフを半ばあきれ気味に投げ置いて、リンレイのため息が雨音と混じった。


 しかし、ルファーという神さまは嘘でも何でもなく、本当のことなのだ。


「どんなやつだ?」

「さぁ?」


 激辛なラザニアを頬張って、リンレイは口をもぐもぐと動かす。煮え切らない話。


「いいから話せ」


 フォークを耐熱容器に突き立て、テーブルに肘をついたまま、口の端についたミートソースを、彼女は指先で拭う。


「姿は見てないのよ。声だけ聞いたの」

「声だけ?」

「そうよ」


 懸念が出てきた。レンは拳銃の引き金に指先をかけて、グリップの曲線を何度もなぞる。悪魔の罠ということもあり得る。お引き出されて、そこで取り囲まれ、死の淵へとこの女とともに落とされる。


 窓際に飾られたサボテンの背景が雨に濡れている。何かを予感させるようなヨハネ受難曲。太ももの内側に隠し持った拳銃。


 何かがおかしい……。


 リンレイは急にぼんやりして、


「夢で聞いたのかしら?」


 首をかしげると、胸元を飾っていた十字のネックレスがカタンとテーブルに滑り落ちた。


「ふーん」


 レンは気のない返事をしただけだった。お互いに記憶がない。だが、依頼だけがやけにはっきりとしている。


 何か重要な記憶が抜け落ちている……。


 考えてみても、お互い思い出せるものでもなく、リンレイは紙ナプキンで口元を拭いて、それくしゃくしゃに丸めた。テーブルへと投げ置いて、


「で、行くの? 行かないの?」


 悪魔退治が本職だ。拒否する理由がない。


「行く」

「近くまでは列車で行けるけど、廃駅三つ分は徒歩しかないから覚悟してね」


 この雨の中を歩く。服が汚れる。耐えられない。だが、もう了承してしまった。行くしかない。


 それよりも、レンは持ち主がいないイヤリングと窓の外で激しく降る雨を眺めて、ミネラルウォーターを飲んでは、ヨハネ受難曲を何度もリピートするのだった。まるで何かの鎮静剤のように――――

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