第28話 音楽よりも歌よりも
美しいメロディが聴こえる。
弦楽器のハーモニーと、打楽器のリズムが胸を躍らせる。
シエラはモーリッツに誘われてロナティア王国の宮廷楽団の練習を見学していた。
気分転換、ということでメリーナに着飾られたシエラは、明るいイエローのドレスを身に着け、いつも下ろしている髪も結い上げている。花モチーフの髪飾りに虹色の宝石が埋め込まれたネックレス。軽く化粧も施した、いつもとは違う自分を鏡に映し、シエラは少しそわそわしていた。
だって、ここまでメリーナが着飾ったのは、シエラがアルフレッドを昼食に誘おうとしていることを知っているから。
昨夜、はっきりと愛していると告げられて、胸がどきどきして眠れなかった。
アルフレッドの低音は、胸に優しく響く。
そのせいで激しくなる動悸を落ち着けるためにも、シエラはモーリッツの誘いに乗ったのだ。
「とても素敵な演奏ね。さすが宮廷楽団だわ」
「えぇ、本当に」
シエラはメリーナと共に音色に耳を傾ける。
こうして音楽に触れるのは、随分と久しぶりのような気がする。
昔はよく、自分もクルフェルト楽団の練習に参加していた。
――【盲目の歌姫】として。
どくん、と心臓が跳ねた。
そうだ。どうして忘れていたのだろうか。
自分は、“盲目”だったはず。
それなのに、目覚めた時に見えていることに違和感はなかった。
どうして、視力を失ったのだろう。
どうして、視力が戻ったのだろう。
心に浮かんだのは、美しいあの人。
アルフレッド・ベスキュレー。シエラの夫。
「ねぇ、メリーナ。本当にあのオルゴールの鍵が何か、知らないの?」
大切にしていた、夫からの贈り物。
オルゴールは、どんな音色を奏でるのだろう。
その鍵は、シエラが持っているらしいのだが。
メリーナとともに持ち物の中から探してみたけれど、鍵らしきものは見つからなかったのだ。
「申し訳ございません。夫婦の秘密だから、と教えてくれなかったのです」
ずっと側にいたメリーナさえ、オルゴールの鳴らし方を知らない。
記憶を失っているシエラには、検討もつかない。
しかし今、宮廷楽団の演奏を聴いて、是が非でも聴きたいと思った。
あのオルゴールを鳴らすことができれば、少しでも失った記憶に、アルフレッドに近づける気がするのだ。
「そろそろ、見学は終わりにしましょう」
ちょうど曲が終わり、小休憩に入ったところで、シエラはモーリッツに手を振った。
「シエラ! 本当に、見学だけでいいのか? シエラならきっと歌いたいだろうと思って、シエラの好きな曲を用意したんだ」
いつもモーリッツはシエラの練習に付き合ってくれていた。
今回も、こんな状況になってしまったシエラを心配してここまで連れてきてくれた。
「……ありがとう、モーリッツ。でもね、わたしはもう歌えないの」
「歌えないってどういうことだ?」
そこで初めてモーリッツの顔から笑顔が消えた。
「何のために歌っていたのか、忘れているから」
「あの包帯公爵のことを忘れただけじゃなかったのか」
「アルフレッド様の記憶と、わたしの歌はきっと繋がっていたのよ」
それだけは、はっきりと分かる。
「……そんな、それじゃあ、俺は」
「でも、音楽は好きよ。歌も、きっとまた歌いたくなると思うの。今は、歌えないことよりも、アルフレッド様のことを忘れていることが辛いわ」
「本当に愛し合っていたかも分からないのにか?」
「大丈夫。わたしたちはちゃんと愛し合っていたわ」
目覚めた時には不安に思っていたことも、今なら杞憂だと分かる。
アルフレッドの言葉をシエラは信じている。信じられる。
「どうして分かる?」
「モーリッツも本当は気づいているのでしょう? わたし、生きがいだった歌が歌えなくても、大丈夫だって思えているの。でも、アルフレッド様のことを考えると、何故かとても苦しいの」
「それは! 脳が記憶を拒否しているからだ。医者にも言われただろう。無理に思い出してはいけないと!」
モーリッツの言葉に、シエラは大きく首を横に振る。
「いいえ。忘れてしまったことに、心が苦しんでいるのよ。早く思い出せって、もう一人のわたしがずっと叫んでいるから」
「っ! そうか……そういうことなら、俺が包帯公爵を連れて来てやる。シエラは部屋で待っていてくれ」
その申し出に、シエラは頷いていいのか迷う。
「でも、練習はいいの?」
「少しぐらい大丈夫だ。夫を迎えるためには、準備が必要だろう」
「……ごめんなさい、モーリッツ。あなたの気持ちにずっと気づかなくて。それでも、やっぱりわたしは、忘れてしまったけれどアルフレッド様の妻でいたいの」
考えて欲しいと言われていた告白の返事を、シエラははっきりと告げる。
モーリッツとはこれからも友人でいたい。
だからこそ、曖昧にしてはいけないと思った。
「ありがとう、シエラ。本当は分かっていたのに、お前を困らせた。だから、そのお詫びに、お前の夫を迎えにいくよ」
力なく微笑んだモーリッツに、シエラは頷いた。
部屋に戻って、あのオルゴールの鍵を今度こそ見つけるのだ。
もし見つけられなくても、アルフレッドに直接聞いてしまえばいい。
アルフレッドと何を話そうか。聞きたいことはたくさんある。
「俺は、シエラの幸せを願っている。俺がやろうとしていることはすべて、シエラのためだから……」
アルフレッドのことで心がいっぱいだったシエラは、いつもなら聞こえるはずの音を拾えなかった。
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