綺麗なものは空へ預けて

 彼女の中で、もうその心は決まってしまっているのだろう。なぎさは命を絶とうとしている。だが、無闇に近づけば今にも足を踏み外してしまいそうで、天臣には何も出来ない。


 しかし、友紀の親友である彼女を失うのは、彼女の今後の活動にも影響が出てしまうに違いない。そうなってしまっては、なぎさや友紀自身にとっての夢を遠ざけてしまうだけでなく、もしかしたらそこで止まってしまうかもしれない。


 決めるのは彼女達自身だが、近くで見守ってきた人間として、彼女達にとってゆき未来になるよう出来る事はしてやりたい。


 これは天臣の自己満足なのかもしれない。それでも、友紀がなぎさの生存を望んでいたのなら、彼女のマネージャーとしてその意思を尊重したかったのだ。


 ここまでの彼女との会話は、決して無駄ではない。彼女の内なる言葉、本当の心を聞くことが出来た今、彼女も本当は何処かで人生の再起を望んでいるのではないか。


 天臣が時間稼ぎをしたおかげで、気配を殺し移動していたシンが、なぎさのすぐ近くにまで近づくことが出来た。


 視線を僅かに動かし、シンの動きを確認した天臣は、彼女が行動に移す前に阻止しようと判断し、シンに合図を送る。


 天臣の視線を感じたシンは、彼の合図を受け取り頷くと、縁に立つなぎさを引き止めようと動き出す。


 だが、僅かに二人の判断は遅れてしまった。


 先に動き出したのは、なぎさの方だった。彼女は一歩前に足を踏み出し、そのまま何もない中へ重心を移動させていたのだ。


 「私も・・・私も、救いようのない人間だ・・・」


 「ッ・・・!!」


 生身の身体だったら間に合わなかった。シンは彼女が身を投げ出す瞬間を目にして、最速の足で駆け寄る。まだ彼女の身体に手が届く。


 屋上の縁から彼女の腕へと手を伸ばすシン。


 しかし・・・。


 「な・・・何ィッ!?」


 シンの伸ばした腕は、彼女の腕を透過しすり抜けてしまった。彼らの認識が、なぎさも覚醒者であるかのように麻痺していた。


 なぎさは彼らのようにWoFのユーザーではなく、覚醒者でもない。


 イルによってこちら側の世界を体験したり、堕ちた彼女が闇の世界という裏社会で身に付けた技術で生み出したデバイスにより、光景としてシン達の姿やイルのしてきた行いをその瞳に映していただけなのだ。


 要するに、シン達にとってなぎさはこの世界に生きる一般人である人々と同じ、身体自体は干渉しない存在でしかなかった。プレジャーフォレストや赤レンガ倉庫で擦れ違った人々と何ら変わらない生身の人間。


 それを忘れてしまっていた。


 「クソッ・・・間に合えぇぇッ!」


 「よせッ!君も死ぬぞ!?」


 シンはキャラクターデータの反映を解除し、なぎさの腕に再び腕を伸ばす。だがそんなことをすれば、彼の腕に彼女の体重と重力が一気に掛かることになる。


 特に鍛えていた訳でもない生身の身体で、落下する人の身体を腕一本で支えるのは不可能だった。だからこそ天臣も、彼の愚行を止めようとした。落ちる前になぎさを止めることでしか、彼女を救う手段はなかった。


 例え彼女の腕を掴んでいたのが天臣であっても、それは何も変わらない。出来ることはしようとした。だがその結果、誰かの命を犠牲にしてしまっては元も子もない。


 なぎさの腕を掴むことに成功したシン。肌に触れた感触に驚いたなぎさが、シンの方を振り返る。彼女の流す涙が宙を舞い、シンの頬に触れる。


 他人によって人生を狂わされた事に関しては、シンにも通じるところがあった。だがその相手への感情は、彼女ほど感情を大きく左右するものではなかったのだ。


 諦め、無関心、虚無。嫌なことから必死に目を背け、自分を保とうとしていたシンにはない感情。なぎさはまだ、人の為にこれほど綺麗な涙を流せる。


 悲劇に感情を失い、心を閉ざしていたシンとは違う。彼女は自分の内に湧き上がる感情と、必死に向き合い争っていた。


 どちらが人間らしいかと考えた時、シンの身体は自然と動いていた。自分よりも壮絶で感情的で、より上等なその魂に心を動かされていた。


 どういう結果になるかは分からない。だが、嫌なことや辛いことから目を背け、何も考えず忘れようとし、そこから逃げ出したのでは、それこそ全てが無駄になる。


 彼女のように怒りや憎しみ、絶望や失望でも何でもいい。その時の感情に従い行動に移していれば、今とは違った人生になっていたに違いない。


 自分の感情を押し殺すことが人間の生き方なのか。周りに合わせ、“普通“という常識に従うのが、本当に人間らしさなのだろうか。


 そう考えた時、シンの目にはなぎさの辿って来た人生がどんなに汚れていようと、少なくとも自分の過去よりは輝いて見えた。


 「死ぬことはない・・・!アンタは俺より・・・俺より立派に、“人間“をしてたよッ・・・!」


 アサシンのキャラクターデータが剥がれ、本来のシンの姿が現れる。かっこいい姿とは程遠かったが、それでも自分の為に差し伸べられた手に、なぎさは笑った。


 「・・・ありがとう。でも・・・」


 ついさっき会ったばかりの人間が、目の前で自分の為に涙を流していた。死へ向かうなぎさには、それだけで十分だった。


 彼女は懐からナイフを取り出すと、自分の腕を掴むシンの手を薄く切り付けた。


 キャラクターの姿であれば、痛みすら感じない擦り傷。だが、いきなり生身で受けたその痛みに、思わずシンの手は彼女の腕を離してしまう。


 「ッ・・・!?」


 「アンタを巻き込んだら、それこそ友紀に合わせる顔がないよ・・・」


 「シンッ!!」


 シンの身体は駆けつけた天臣によって掴まれ、ギリギリのところで一命を取り留める。しかし、その視界の先で途方もないほど遠い地上へ向けて、落下していくなぎさの姿だけがみるみる内に小さくなっていく。


 「・・・アンタも、私にとって十分“人間“だよ、シン・・・。ごめんね、友紀・・・。私・・・やっぱり明るいところじゃ、生きられないよ・・・」


 誰に届くこともない声が宙に消える。初めて会ったばかりの人間が、綺麗だと感じた涙の雫が、空へと帰っていく。


 なぎさに残された、穢れなき綺麗なモノだけが空へと帰り、そして汚れた魂の器だけが地へと落ちていく。


 イルは自分の欲を満たし消え、なぎさは最期に心に纏わりついた穢れを落として身を投げた。


 こうして、横浜を襲った脅威は去ったが、残された者達の心に痼りを残す終幕となった。

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