真は虚な像の中

 燃ゆる炎蠢く船内は文字通り火の海となり、肌に感じる熱や噎せ返るような煙と陽炎に翻弄され、形勢を逆転されるロロネー。だが、そんな船内の一室に起きている状況は、彼女らにとって何一つデメリットになっていないのだ。


 それもその筈。自らの船を失ってまで炎上させるのは、それこそ最期の手段というもの。この男にとって過酷な戦場であっても、チン・シーやその海賊団にとって身を守る森のようなものであり、攻勢をサポートする追い風にもなる。


 「それなら俺も、お前らの力を利用してやるまでだッ・・・!」


 「利用・・・?出来るものならな・・・」


 ロロネーの能力は既に破れているだけでも、大きく分けて二つある。


 一つは、この戦場・海域に立ち込める視界を塞ぎ、感覚を惑わせる濃い霧を発生、或いは操る能力。大規模な範囲に使用するのに限らず、濃霧の中での局所的な濃度の変更も行えるという器用さも持ち合わせている厄介な能力。


 それはこの男の不気味さを助長するものでもあり、もう一つの能力を更に有効に活かせる組み合わせである。それも、如何やら今この場で燃え盛るフーファンの妖術同様、自分自身や味方にそのデメリットを緩和し、彼女らの位置まで特定することが出来るようだった。


 二つ目は、先程からも二人の前で披露し翻弄されてきた能力である霊体化。亡霊が現れた時は使役しているだけだと思われたが、メデューズやクトゥルプスといった怪異まで利用し、極め付けは目の前で身体を両断された光景で、チン・シーの中では確定していた。


 フランソワ・ロロネー。この男は“人間“ではない。


 正確には人間ではなくなったというべきだろう。以前までレースに出場していたロロネーには、どちらの能力もなく、ただ残忍で冷酷な海賊団としてその名を馳せ、優勝候補の海賊団達とまではいかないが、それなりの船団を率いる大船団であったことも確か。


 それからのロロネーに一体何が起こったのかは誰も知る由もないが、彼の従えていた部下達の姿は、途端に見かけることがなくなり、街などに姿を現す時も大抵の場合が一人だけという、異様な様子を見せていたのだという。


 何より、そんな彼に協力する一部の海賊団がいるというのが不可解だった。たった一人の海賊に誰が力を貸そうというのだろうか。そんな話を持ちかければ良い笑い者となり馬鹿にされるのが落ちだ。そんなこと、この男のプライドが許さないだろう。


 彼らを使役できるだけの力や能力がロロネーにあるからこそ、この男を利用せんと悪巧みを企てる海賊達と協定を結び、自らの力と能力の開拓のため逆にその者達の能力を利用していた。ロッシュという男も、その内の一人に過ぎない。


 常識やクラスの垣根を超えた能力の成長。人の身を捨てたからこそ、ロロネーはモンスターとさえ手を組める多彩な技や術を身につけられたのかもしれない。


ロロネーは、チン・シーの陽炎を使った執拗な攻撃を振り抜けようと、霧を生み出そうとする。彼の腕からは僅かに薄い煙が出ているものの、濃く深い霧へと進展することなく燻っていた。


 「室内という空間に足を踏み入れたのが間違いだったな。我々と貴様では、この室内の感じる環境が違う。貴様の使う“霧“には水分が必要だろう?だがここに、貴様の身を隠すほどの水分があるか?」


 霧とは、空気に含まれる水蒸気という水分が、気温の変化により生み出すもの。空気中に含まれる水蒸気量というものは決まっており、暖かい空気は多くの水蒸気を含むことが出来るが、冷たい空気の中では僅かな水蒸気量しか含むことが出来ない。


 暖かい空気から冷たい空気へと変わった時に生じる、水蒸気量の差で余分に溢れた水蒸気が水の粒となって目に見えてくる。


 しかし、今この室内ではフーファンによる妖術で炎があちらこちらに散乱し、炎上している。つまり彼らのいるこの戦場は、高温で暑い空気となり、生半可な冷気の魔法では温度を下げることすら出来ない状況にある。


 「なら・・・、試してみるかぁッ!?」


 ロロネーは霧という能力を封じられているにも関わらず、陽炎で複数人に見えるチン・シーの一人目掛けて、燃え上がる炎を顧みず突き進んでいく。放たれる火矢を斬り落とし、死角から迫る火矢は避けることもなくその身に突き刺したまま、彼女の虚像を斬り伏せる。


 一見、無謀に突っ込んでいるだけのようだが、遠距離攻撃を行う者にとって、これほど鬱陶しい相手はいないだろう。怯むことなく強引に近距離戦へと持ち込まれると、圧倒的に不利になってしまう。


 陽炎はあくまで陽炎。本人のように、瞬時に武器を持ち替え臨機応変に対応できるほどの力はなく、掻き消されていく。ダメージこそ無いが、単純に的が絞られれば本体へ辿り着くまでの猶予がなくなることに繋がる。


 「危機を乗り越える為に、一時‬の窮地へ身を投じるか・・・。そんな愚策で乗り切れるほど、我らが炎の壁は薄くはないぞッ・・・!」


 息を飲むような攻防。様々な方向から放たれる火矢を斬り落とし、床に転がる剣を拾い上げ二本の刃で矢を止める。その中で一人のチン・シーに的を絞ると、腕を交差させ、正面から放たれる矢をその腕に受け止める。


 走り抜ける最中で、両脇に立つチン・シーへ、手にしていた二本の剣を投じる。素手になり身軽となったロロネーは、目標にしていたチン・シーの足元へ素早く滑り込むと、床を滑らせるような水面蹴りで彼女の足を払い、バランスを崩したところへ強烈な拳を叩き込む。


 だが、そのチン・シーは陽炎で出来た虚像。ゆらりと煙のように揺らめくと、その姿を消してしまった。絶えず放たれる火矢が次々に男の身体に突き刺さる。ロロネーは衣類に隠し持っていたナイフを、三方向にいるチン・シーへ投擲する。


 すると、一方向からだけナイフを弾く金属音がした。それを聞き逃さなかったロロネーは、目の前に転がってきたチャンスに目を大きく開き、身体から蒸気のようなものを一気に吹き出し始めた。


 「ヴァプール・エタンドル(消滅の水蒸気)ッ!」


 「何ッ!?あり得ないッ・・・!急激な温度の変化などなかった。霧は使えないはずッ・・・!」


 異様な行動を始めたロロネーに、空かさず一斉射撃を浴びせるチン・シーとその陽炎達。火矢同士がぶつかり合い、激しい炎を生み出すが手応えはなく、嫌な予感が彼女の中を駆け抜けた。


 「あり得ないなんて固定概念で物事を決めつける・・・。人の理に縛られるお前に、俺を捉えることなんざ出来ねぇよッ・・・!」


 ロロネーの放ったナイフを弾いた、本物のチン・シー。その背後に静かに集う水蒸気は人の形へと変わり、忌まわしき男の姿を映し出す。彼の身体に弓矢は刺さっていない。それどころか、今まで与えた傷も燃やした衣類も、全て綺麗に元通りになっていたのだ。


 「しまッ・・・!」


 男は既に剣を振り抜き、刃は今にも肩口へ触れようとしていた。


 その時、彼女の身体を何かが強く横へと突き飛ばす。突然、腹部辺りに大きな衝撃を受け飛ばされるチン・シーがその何かに視線を送ると、船員の男が二人、チン・シーへ体当たりをし、室内の側面の壁の方まで押し退けて行った。


 「ッ!!お前達ッ何を・・・!」


 飛ばされた勢いで顔が上がり、ロロネーに襲われそうになっていた場所を見ると、そこにはフーファンと二人の妖術師が、体勢を低くしこちらを向いて術を発動させていた。


 「フーファン・・・?何をしている、シュユーはどうした!?」


 ロロネーと対峙していたチン・シーとフーファンは、陽炎の影に隠れ、ある密談をしていた。それはフーファンに一時‬戦線離脱してもらい、ハオランを探し出したシュユーをここへ呼んで来るというものだった。


 フーファン一人にロロネーを抑えることは出来ない。ハオランにかけられた呪縛を解くにはチン・シーが直接出向くしかない。しかし、目の前のロロネーを何とかしない限り、ハオランへ辿り着くことは出来ない。


 ならば、一度ハオランの位置の特定を諦め、主戦力を集中させてロロネーを叩くのが良いと考えたチン・シーは、フーファンをこの部屋から逃し、シュユーを呼んで来るよう伝えた。


 だが、少女の帰還はあまりにも速かった。それもその筈。フーファンはシュユーを呼びに行くのではなく、近くにいた船員と妖術師を連れて来たのだから。如何にチン・シーとはいえ、一人でロロネーを相手にするのは負担が大きく、得意のリンクも行えない。仲間がいてこそ真価を発揮する能力。


 しかし、フーファンが連れて来た者達は、リンクをするための人員ではない。


 「ご無礼をお許し下さいッ!」


 何も言わずチン・シーを壁まで押す船員。そして壁にぶつかろうというところで、壁が柔らかくなり、外へと通じた。船員二人によって部屋から追い出されそうになるチン・シーが、フーファンに真意を問うと、少女は儚い微笑みで答えた。


 「申し訳ないです。ここは私達にお任せを・・・。どうかハオラン様のこと、宜しくお願いしますですよ・・・主人様・・・」


 ゆっくりと壁をすり抜けチン・シーが最後に見た光景は、ロロネーが振るった剣で、自身が斬られる筈だった場所にいた妖術師の一人が斬り捨てられ鮮血を浴びるフーファンともう一人の妖術師。そして主人を送り出した二人の船員が、非礼と願いを込めて頭を下げる姿だった。

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