夏の特攻特集②【人間魚雷 回天】
*注意*
これは第二次世界大戦で旧日本軍が運用した特攻兵器になります。
苦手な方もいると思いますので、忠告させていただきます。
回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である。
(特徴)
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)」という意味で「回天」という言葉を使っていた。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、㊅金物(マルロクかなもの)、的(てき)との別称もある。
1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された。終戦までに420基が生産された。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった。
回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。
回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった。
また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった。
潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊の球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦(竹等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された。
(操縦方法)
操作方法は、搭乗員の技量によるところが多かった。手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。
しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという。
(開発の歴史)
小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、太平洋戦争で実戦に投入した。真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた。したがって、体当たり攻撃への気運は潜水艦関係者間に当初から潜在していた。
人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した。だが、連合艦隊と軍令部は受け入れなかった。
陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。1944年2月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった。
1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する。山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された。
1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する[6]。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける。 2月26日、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された。
同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された。
1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した。 7月10日、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成(司令官長井満少将)。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉や黒木博司大尉も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した。
回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った。 7月25日、回天試作機の試験が大入島発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた。
同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた。同時に特攻への気運が高まっていった。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
(運用開始)
一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。
回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。
回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった。9月1日、山口県大津島に板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。
訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
9月12日、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった。
この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」と述べた。
(実戦投入)
【回天特別攻撃隊菊水隊】
先遣部隊(第六艦隊)は潜水艦5隻(伊36、伊38、伊41、伊44、伊46)および回天による敵艦隊拠点奇襲攻撃(玄作戦)を、11月上旬に実施する予定で計画を進めていた。だが1944年(昭和19年)10月上旬より米軍機動部隊の行動が活発化(十・十空襲、台湾沖航空戦)、日本軍は捷号作戦を発動する。
玄作戦準備中の第15潜水隊も台湾沖航空戦の残敵掃蕩(誤認)に駆り出された。 10月17日のレイテ島の戦い生起にともない連合艦隊は潜水艦のフィリピン方面集中を下令(レイテ沖海戦)、玄作戦投入予定の潜水艦もフィリピン方面に投入されたので、最初の玄作戦は変更を余儀なくされた。そこで回天搭載のため改造整備中の潜水艦3隻(伊36、伊37、伊47)をもって、新たに玄作戦を実施することになった。 周防灘で最後の総合訓練を実施。 10月下旬、第15潜水隊の3隻(伊36、伊37、伊47)の準備が完成し、回天特別攻撃隊菊水隊(指揮官は揚田清猪第15潜水隊司令)が編成された。
菊水隊の攻撃計画は、機密先遣部隊命令作第一号(玄作戦実施要領)及び機密玄作戦回天特別攻撃隊菊水隊命令作特第一号によって発令された。 11月5日、連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し、11月20日の回天作戦実施を命じた。
このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦「ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった。
玄作戦詳細は以下のとおり。
1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である。西カロリン諸島への潜水艦や彩雲航空偵察により、目標地点を決定。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指した。
回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」(第1次玄作戦)は、1944年(昭和19年)11月19日から11月20日にかけて決行された。 20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。そのため、プグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁に座礁して自爆することとなった。
伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着。3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した。
その後、伊47・伊36より発進した計5基の回天のうち、1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没、残る2基が泊地進入に成功し、1基が5時47分にミシシネワへ命中(混載していたガソリンに引火して爆発・炎上、1時間後に沈没、戦死50名)。
その後、最後の1基は軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) に向けて突入[46]。潜望鏡によって2 - 4ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ラール(英語版)(USS Rall, DE-304)の爆雷攻撃によって6時53分に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。
伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったが、11月19日にパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(英語版)(USS Winterberry, AN-56)が、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(英語版)(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノルズ(英語版)(USS McCoy Reynolds, DE-440)が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。
午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊48潜も撃沈している。
【回天特別攻撃隊金剛隊】
この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れなかった。当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している。第二次玄作戦は、回天特別攻撃隊金剛隊と命名された。
参加潜水艦は6隻(伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58)。12月19日、連合艦隊は電令作第448号をもって第二次玄作戦開始を命じる。
12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した。
伊56は警戒厳重のため攻撃機会がなく、伊47は1月12日に四基発進(判定:大型輸送船4隻轟沈)、伊53は同日三基発進(大型輸送船2隻轟沈)、伊58は四基発進(特設空母1、大型輸送船3隻轟沈)、伊36は四基発進(有力艦4隻轟沈)、伊48は未帰還(油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった。
総合戦果判定は特空母1、大型輸送船9、油槽船1、巡洋艦1、有力艦6、合計18隻轟撃沈というものだったが、戦後調査によれば該当する記録はない。金剛隊の回天作戦は、泊地攻撃の困難さを改めて浮き彫りにした。
(戦術の変更)
菊水隊の攻撃によりアメリカ軍泊地の防御が予想以上に強化されたことを知った日本軍は、黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更した。1945年2月19日には硫黄島にアメリカ軍が上陸して硫黄島の戦いが始まり、侵攻部隊を海上で叩く必要に迫られたことも戦術変更の大きな要因となった。また、潜水中の潜水艦より回天に乗艇できる技術的な改善も加えられた。
しかしアメリカ海軍も、侵攻部隊の輸送船団は厳重な泊地とは異なって日本軍潜水艦の格好の目標となることを懸念して、大西洋上でドイツ軍Uボート対策で絶大な効果を上げていた護衛空母と駆逐艦で編成されたハンター・キラーグループ(英語版)で護衛していたので、見るべき戦果もなく回天を搭載した母艦が次々と撃沈されていった。
アメリカ軍は硫黄島を攻略すると、4月1日には沖縄本島に上陸し沖縄戦が開始されて、その侵攻部隊に対しても回天部隊は出撃したが、より対策を強化したアメリカ軍艦隊相手には損害を重ねるだけとなった。
1945年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦(北上)や、松型駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。
(多聞隊の成功)
沖縄戦も終わり、敗色が濃くなった1945年7月に、第6艦隊は、日本海軍の作戦可能な全潜水艦兵力を回天作戦に投入することとし、伊47潜、伊53潜、伊58潜、伊363潜、伊366潜、伊367潜の6隻を出撃させた。多聞隊という部隊名は、日本本土への侵攻に対抗するべく武神多聞天から採ったものであった。
この多門隊は、海上において通商破壊を任務としており、各艦は沖縄と太平洋上のアメリカ軍各拠点を結ぶ補給線上でアメリカ軍船団を待ち構えていた。7月24日に伊53潜は戦車揚陸艦7隻、輸送艦1隻と護衛の護衛駆逐艦 アンダーヒル 他数隻で編成された船団を発見し、勝山淳中尉が搭乗する回天1基を射出した。
まもなく護衛艦隊が回天を発見し爆雷攻撃を加えたが、護衛艦もパニックに陥っており、射出された回天は1基だったのにも関わらず、何本も潜望鏡が見え、日本軍の特殊潜航艇数隻が攻撃してきたと誤認した。そのうち1つの潜水艇らしきものを発見したアンダーヒルは、衝突してその潜水艇を撃破しようと前進したが、勝山艇はアンダーヒルと衝突後に大爆発を起こして、アンダーヒルはあっという間に真っ二つになり、一瞬で10名の士官と102名の水兵が戦死した。アンダーヒルの艦体の前部はたちまち海没したが、残った後部はしばらく浮いていたため、他の艦の砲撃によって処分された。
アンダーヒルの沈没は、日本軍潜水艦がフィリピン沖という外洋で積極的に作戦行動しているという衝撃的な情報であったが、なぜかこの情報がアメリカ海軍内で共有されることはなかった。
伊53潜はそのまま回天作戦を続行していたが、8月4日、不意に大量の爆雷攻撃を受けた。新兵器の三式探信儀で探索したところ、伊53潜が気づかないうちに半径1,000mで5隻の敵艦に包囲されていることが判明した。艦長の大場佐一大佐は、30mから回天の耐圧深度80mを超える100mまで艦を激しく上下させたり、艦を激しく左右に急旋回させて爆雷を回避するよう命じた。しかし投下された爆雷は100個以上となり、大場も今まで経験したことのない窮地に追い込まれた。搭載していた回天4基のうち2基も損傷により使用不能となったが、残る2基の搭乗員関豊興少尉と荒川正弘一飛曹が、このままやられるよりは、乾坤一擲、死中に活を求めたいと出撃を直訴し、大場も最後の望みと考え出撃を許可、2基の回天は頭上で爆雷攻撃中の敵艦に突入するという困難な任務となったが、2基のうちの1基が アールV.ジョンソン(護衛駆逐艦)(英語版)の至近で爆発、同艦は主機関と舵取機が損傷し戦線離脱を余儀なくされ、伊53潜は窮地を脱することができた。
伊58潜は広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、1945年7月30日にレイテ島へ単独航行中であった重巡洋艦インディアナポリスを発見、橋本以行艦長は敵艦は真っすぐに向かってきたことから、発見されたものと考え(実際には発見されていなかった)、攻撃後に即潜航することが必要と考えて、回天搭乗員の出撃要求を抑えて通常魚雷6本を発射、うち2~3本が命中してこれを撃沈した。
伊58潜はその後もこの海域に留まり、回天作戦を継続して、4基の回天を射出していた。8月12日には、トマス・F・ニッケル(護衛駆逐艦)(英語版)とオークヒル(ドック型揚陸艦)(英語版)(橋本は15,000トン級の水上機母艦と誤認)の船団を発見、橋本は残った2基のうち1基の回天(林義明一飛曹搭乗)の射出を命じた。オークヒルは回天の潜望鏡を発見し、トマス・F・ニッケルが攻撃に向かったが、回天はそのトマス・F・ニッケルの側面に命中した。しかし、命中した角度が浅かったため信管が作動せず、林艇はトマス・F・ニッケルの側面をこすったのちに、同艦から25m離れたところで爆発した。林が信管の起動スイッチを押して自爆したものと思われる。
回天の慣性信管はしばしば同様に命中しても、角度が浅く起動しないことがあった。金剛隊の攻撃で損傷した輸送艦ポンタス・H・ロスも同様に回天が命中しながら、信管が起動せずに小破で止まっている。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。
九死に一生を得たトマス・F・ニッケルであったが、受けた衝撃は大きく、なおも数基の回天が同艦を攻撃していると誤認して、2時間に渡って幻の回天相手に転舵と回避を繰り返しながら、爆雷を投下し続けるという独り相撲を取り続けたが、船団に被害はなかった。残った1基の回天は故障していたためこれが回天最後の出撃となり、故障した回天の搭乗員の白木一郎一飛曹は生還した。
多聞隊は戦果を挙げながら、6隻全艦が無事帰投している。アメリカ軍は多聞隊の動静を出撃前から掴んでいたが、大戦末期で自信過剰となっていたのか、情報の共有や日常の哨戒活動が徹底されておらずに終戦直前に手痛い損害を被ることとなった。日本海軍からすれば多聞隊は1隻の潜水艦を失うことなく、回天の初陣となった「菊水隊」を超える戦果を挙げて、回天作戦の有終の美を飾ることができ、アメリカ軍からも、戦争終結前の日本海軍の大きな成功と評された。
(戦果)
回天作戦により、回天搭乗員80名~87名が作戦中に戦死、母艦の潜水艦も8隻を損失しており、その損害に対して戦果は期待外れであった。
しかし、アメリカ軍は回天を過大評価しており、菊水隊によるウルシー攻撃の際にウルシーに滞在していた第38.3空母群司令フレデリック・C・シャーマン少将は「我々は一日終日、そして次の日も、今にも爆発するかもしれない火薬庫の上に座っている様なものだった。」と、当時のアメリカ軍の回天への警戒ぶりを率直に述べており、また、8月12日に回天と最後の戦闘をした駆逐艦トマス・F・ニッケルの艦長C・S・ファーマー少佐は、回天による巧みな戦闘ぶりに、母艦が回天をソナーの捜索範囲外からコントロールしているものと信じて疑わなかった。沖縄戦時に第1戦艦戦隊司令官であったジェシー・B・オルデンドルフ中将は、回天との戦闘経過の報告を受けて「戦いを継続していく上で回天は最大の脅威となっていた」と考えた。
吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、アメリカ軍をこれだけ恐れさせた回天であるのに戦果が少ないので、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいると指摘している。アメリカ軍の全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明する可能性もある。
なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。
当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。
例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し、アイダホ型戦艦撃沈と報告している。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している。
(部隊)
終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い。搭乗員は志願によって選抜され、戦死者の平均年齢は21.1歳だった。
坂本雅俊(回天特攻要員)は「覚悟はしていたが見た時はぎょっとした」という。竹林博(回天特攻要員)は「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えないが、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」と戦後語っている。
終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面が強調され、ときには事実と異なる情報が流布されたこともあった。回天のハッチは中から手動で開けられ、外からも工具を必要とするものの開閉できた。これは脱出装置が装備されていないこととの混同が発生していると思われる。回天の搭乗員は全てが志願者であった。
ただし、当時の日本軍将兵にとって特攻隊への志願を拒否することは著しく困難であったことも考え合わせる必要がある。
(各型)
【一型】
艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に一型を簡素化して量産性を高めた一型改一および一型改二がある。
一型は130基程度生産し、その後は二型に切り替える予定だった。だが二型や改良型の生産遅延により、一型は各種約420基生産された。各型の性能要目は、戦史叢書「潜水艦史」に依る。
全没排水量:8.30 t
全長:14.75 m
直径:1.00 m
軸馬力:550 馬力
速力/射程距離:12kt / 78,000 m、20 kt / 43,000 m、30 kt / 23,000 m
最低航行速度:3 kt
乗員:1 名
炸薬:1.55 t
安全潜航深度:80 m
【二型】
遣独潜水艦作戦により伊号第八潜水艦がドイツより持ち込んだ新型機関を基礎に、過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とする機関(六号機械)を搭載して40ノットの高速を狙った大型タイプ。
六号機械の開発が難航し、量産されることなく終戦を迎えた。本来ならば、この二型が回天の主軸を担うはずであった。
全没排水量:18.38 t
全長:16.50 m
直径:1.350 m
軸馬力:
速力/射程距離:20kt / 83,000 m、30 kt / 50,000 m、40 kt / 25,000 m
最低航行速度:
乗員:1 名
炸薬:???
安全潜航深度:???
【四型】
機関に二型と同じ六号機械を使用し、燃料のみ一型と同じ酸素と灯油に変更したタイプ。二型と同じく六号機械の開発難航により量産されなかった。生産台数は6基という。
全没排水量:18.17 t
全長:16.50 m
全幅:1.35 m
速力/射程距離:20kt / 62,000 m、30 kt / 38,000 m、40 kt / 27,000 m、
炸薬:1.8 t
【十型】
九二式電池魚雷を中央部で切断し、操縦室を挿入した簡易型回天。航続距離、速力とも低く航行中の艦船を襲撃することは不可能だったが、酸素魚雷転用の一型では不可能な機関停止による待機や、逆転による後進が可能で運用の柔軟性が増すと期待されていた。
生産が間に合わず、実戦に参加することなく終戦を迎えた。
(現存する回天)(実艇)
【一型】
靖国神社の遊就館に一型改一が展示されている。後部の機関部分は復元であるが、外部に取り付けられた複雑な構造物やパーツなどが緻密に復元されている。
【二型】
平生町歴史民俗資料館(山口県)に中部胴体(操縦室と後部浮室)が残されている。
【四型】
靖国神社遊就館に中部胴体(操縦室と後部浮室)が展示されている。
【十型】
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に試作型の実艇が展示されている。同館の解説によれば「湯豆腐嵯峨野」から寄贈されたという。
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