42 不穏な副音声が聞こえたような?

『父さんは昔な、ヒュドラと戦ったんだ! ヒュドラは猛毒のブレスを吐く怖〜い大蛇だぞぅ。ヒュドラに足をやられて動けなくなったところをレグルスおじさんが助けてくれたんだ。レグルスが居なかったら、今頃ヒュドラのお腹の中だったかもしれないなぁ……』


 なかなか寝付けない私のために、父さんは騎士時代の冒険譚を楽しそうに話してくれた。

 ある時は火山で暴れる竜と戦い、ある時はイルカに乗ってクラーケンと戦い、またある時は密林に住むオバケ獅子を絞め技で倒した。


 勇者エリオットの十二の冒険の最後を飾るのが、一番ショボい砂漠のヒュドラ退治だったことに、私は長い間不満を募らせていた。


 夢と希望を詰め込んだ愉快なホラ話の最後には、厳しい現実が待っていたのだ。




 ***




「君のお父さんが君の記憶に封印をかけた。封印の鍵は『母さん』『狼男』『ヒュドラ』君が僕の前でその三つの言葉を口にすることだった」


 月女神ルーネの末裔に後遺症が残る程の大怪我を負わせたアルファルドは、月神セシェルの加護を失った。しかし、神話の森に残る月神の意思は、それだけでは満足せず、セシル家そのものを滅ぼそうとした。


 まるで神話の再現のように、オクシタニアの森は枯れ始め、草木一本育たなくなった。父さんは痛む足を引きずりながら、単身で神話の森の聖域に赴き、そこで月神の残滓に遭遇した。月神の代わりに自分が罰を下すと誓って荒ぶる月神を鎮めたという。


「先生は僕に猶予をくれた。期間は君が十八歳になるまで。君が十八歳になったら、先生は君に月女神の御印を委譲するつもりだった。それまでに月神の末裔と名乗らずに、ただの狼男としてもう一度、君の信頼を得ること。それが叶わなければ、僕は月神の加護だけではなく御印みしるしを剥奪され、群れを追放される。それが僕に下された罰だ」


 汗で背中に貼り付いた訓練着が容赦無く私の体温を奪っていく。淡々と話す彼の声はどこか機械的で、色も温もりも感じられない。低く響く彼の声が廊下の暗がりに呑まれる度に、私は言い知れぬ不安に身を震わせた。


「記憶の封印が解けるよりも早く、僕を信頼してセシェルと呼んで認めてくれたのは嬉しい誤算だった。――けれど、順番が逆になってしまったことで、君が記憶を取り戻した時に、また逃げられるんじゃないかと気が狂いそうだった」


「信頼を失うことじゃなくて、逃げられる方が怖いの?」


 我が耳を疑って彼の顔を見上げれば、見る者の心に訴えかける新緑色の瞳に囚われる。

 そういえば、彼は『わすれてほしい』と言っていたのだった。


「皆誤解している。僕がこうして君を必要としているのは赦されたいからじゃない。セシル家の繁栄なんてどうだっていい。御印なんてくれてやる。僕ははぐれ狼になったって構わない。もう二度と僕を信じてくれなくたっていい。――ただ、君に逃げられるのだけは耐えられない」


 顎を掬い上げ、落とされた口づけは少し荒々しくて、苦しさにもがいて彼の胸を押した。名残惜しそうに離れる唇が熱い吐息を零す。


「ねぇ、セラ。僕は君に謝らないよ。だってこれは全て、僕の偽らざる君への思いだ。恥じたり悔やんだりはしない」


 彼の唇が耳朶を這い、私の首筋に牙の代わりに熱い痕を残す。赤くついた痕を彼の指が恨めしそうになぞり、触れられた所から甘く痺れるような心地がして、私は慌てて彼の身体を引き剥がした。心臓が痛いぐらいに高鳴っている。


「月神の恩寵を失うならそれでいい。いっそ全部捨ててしまえば、この忌々しい首輪を引き千切れるのに。――番にするなら本当に好きになった人をだって? ……ああ、もう……」


 私を壁に押し付けて苦しげに呻く彼の声は熱を孕み、絡む指と視線の色香にぞくりと震える。

 疑うべくもなく、彼は彼自身の意思でここに居て、今この時月神の意思が介入する余地なんて無い。私が少しでも気を許せば、すかさず噛み付く気だろう。


 どうやら私が心配すべきは自分――主に貞操的な意味で――だったらしい……。


 父さん、父さんが甘やかすから、コイツ全然反省してないぞ? どうしてくれるんだ?

 私は深呼吸すると、意を決して彼の両頬に手を添えた。彼の瞳に淡い期待が浮かぶのを見て、少しの罪悪感を覚える。


「君の気持ちはよくわかった。…………目を瞑って歯を食いしばれ」


「……ん? えっ?」


「このダメ犬!!」


 私は両手を広げて勢いをつけると思いっきり両頬をぶっ叩いた。バチンと景気の良い音が廊下に響き渡る。


「いっ……!?? あの、セリアルカさん? 僕は今、一世一代の愛の告白を……」


「やかましい! 去勢されなかっただけマシだと思え!」


「きょ……去勢は、あの、やめてください……」


 きっと私が赦すのも、父さんの予想範囲内だったのだろう。元より、一番の被害者である父さんが赦して庇っている時点で、私が怒る道理は無い。

 最後の判断を私に丸投げだったのは、めちゃくちゃ気分が悪いけど。後で『父さんサイテー』って手紙を書いて送ってやる!


「君の中の悪いヒュドラは、勇者セリアルカが退治したんだ。だからもう二度と出てくるんじゃないぞ!」


 だからもう、怖がらなくていいんだよ。


 あの日、『森の声が聞こえない! 獣の声が聞こえない! 月女神は僕を見捨てた!』と絶望に泣き叫んでいた少年を、私はきつく抱きしめる。戸惑いながらも私の背中に回された腕は、しっかりと私を抱きとめた。


「……ねぇ、アル。私は騎士を目指すよ。もう二度と私みたいな獣人の子を出さないように。ラヴィアのように誰の助けも得られず孤立する子がいないように。みんなが自分の意思で正しくパートナーを選べるように。君が暴走したらぶん殴ってでも止められるように。私は勇者エリオット・リーネの子だから。嘘みたいな冒険をして誰かの希望になりたい」


 途方も無い夢を語る私に、アルは毒気を抜かれたような、泣きそうな顔で笑う。


「君はもう、僕の希望だよ。初めて会った時からずっと」


 胸の内に何か重大な決意を秘めて、私の額に口付けた。


「君にいくら嫌われても拒まれても、正直死にたいぐらい傷つくけど……離れる気は無いよ。君が騎士になるのなら、僕も騎士になる。君の冒険について行く。嫌だと言ってもついて行くから」


「そ、そんな後ろ向きなストーカー宣言されても……」


 親公認のストーカーってなんだそれ!?

 早くも彼の腕から逃げようとする私の腰をガッチリと捕まえて、アルは幸せそうに目を細める。


「嬉しいよ。嬉しいって感想は適切じゃないかもしれないけど、君が痛みを分けてくれたことが嬉しい。僕との未来を真剣に考えてくれたんだね?」


 これだけ根回ししておいて今更何を言ってるんだ?


「噛まなくたって結婚はできるよ? 拾ったんだから捨てないでね? 僕は絶対に希望きみを諦めないよ」


 額を合わせて至近距離から熱っぽく見つめる目は完全に猟師ハンターのそれである。


「……愛してるにがさないよ、セラ」


「わかったから、もう放せってば!」


 別の言葉が聞こえた気がするけど、たぶん気のせいじゃない。父さんといい伯爵といい、どうして狼男ってこうも愛が重いのか。月神からして腹黒いからなのか!?


「あー、ところで明日の話だけどさ」


『話の持って行きかたが急過ぎるのよー!』というエリーの悲鳴が聞こえそうだけれど、一刻も早くこの場を切り抜けたかった。


「ああ、忘れてるのかと思ってたよ」


 声色に若干の毒を滲ませながらアルはにこやかに頷く。


「……うっ。そ、そんなわけないだろー。明日は正門前に七時集合ね! 街に行くついでにドレスと靴も買うから、エリーに見立てて貰いたいと思ってるんだけど……」


「フィリアスに聞いてみるよ」


 二人きりじゃないのが不満なのか、アルは沈鬱な顔でため息をつく。

 エリーが一緒なら流石のアルも大人しく……するのだろうか? 不安になってきたな……。


「そういえば、さっきはなんで狼になってたの? どこか具合が悪いの?」


 ぎくりと一瞬身を震わせて、アルは目を泳がせた。

 月神は呪いで狼にされた月女神と違って、生まれた時から神獣なので、アルが満月の光に影響されないのは、なんとなく理解している。

 アルはぎこちなく咳払いして、消え入りそうな声で白状した。


「その方が赦してもらえそうな気がしたから…………怒った?」


「こっのバカ犬ーー!!」


 その後、喧嘩してアルが折れる時には必ず、狼姿で会いに来るようになる話はまた別の機会に。

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