学院の狼

1 早くも終了学院ライフ

 森の夢を見た。緑が眩しい夏の森を、誰かに手を引かれて歩く夢だ。


 夢の輪郭は朧げで、もう殆ど内容を思い出せない。眼の奥に、木洩れ日に揺れる鮮やかな緑だけを残して、浅い眠りの中に溶けていく。

 何か大事なものを置き忘れたような、小さな喪失感が澱となって胸に残った。まだ余韻に浸っていたくて、目を瞑ったまま夢の尻尾に縋りつく。


 ――いや、縋り付かれているのは私の方?

 パチパチと薪が弾ける音に呼び戻されて、重い瞼を押し上げる。丸一日雪の上で遊び尽くした日の夜のように、全身が鉛のように重い。


 ここはどこだろう?

 目を覚ましたら優しい木の香りがする見知らぬ部屋に居た。見上げれば、丸太が組まれた天井は高く、立派な梁が通っている。床には木目の綺麗な板が敷き詰められていて、分厚い絨毯の上に綿が入ってふかふかしたキルトが敷かれ、その上に毛布に包まった私が暖炉の前の特等席に寝かされていた。


 時折強い風が窓や壁に吹き付けて、建物がガタガタと揺れる。子供の頃に読んだ仔豚の絵本では、木でできた家は腹ペコ狼に壊されてしまうけれど……その怖い狼は今ここで毛布に包まりながら睡魔と戦っている。


 人気の無い場所で動けなくなってしまったから、誰にも見つからずに凍死するか、助かっても凍傷を覚悟していた。足をぐーぱーしながら、まだ指の感覚があることに心底ホッとした。

 誰か心優しい人が拾ってくれたのだろうか。こんなに大きな狼を拾うなんて、普通なら危険に思う筈。ここまで運ぶのも大変だっただろうに……。


 それにしても身体が重い。――特に腰のあたりが。

 ダルい身体を捩って、頭を持ち上げて腰のあたりを見ると腕が乗っていた。

 なんだ、腕か。人を肘置きにするなんて何てやつだろう。



 …………。



 ――腕!??



 恐る恐る振り返ると、私の背中の毛皮に顔を埋める男の姿があった。私が動いたことで、毛布の中に冷たい空気が入ったのだろう。うーんと唸って、さらにきつく抱き締められた。筋肉質な腕は明らかに女性のものではなく、抱き締める力も強い。


 ――いやいやいやいや……なんだこれ!?


 彼を起こさないように、静かに元の体勢に戻る。

 人間の姿に戻って腕を抜け出せばいいけれど、獣化した時の記憶が無い場合は、現場に服を置き去りにしている可能性もある。

 もし素っ裸になってしまった時に彼が目を覚ましたら、なんて言い訳すればいいのかわからない。痴女呼ばわりされるのは絶対に避けたい。


 いや、そもそも誰なんだこの人!? 若そうだから学院の生徒? 背中に顔を埋められていて顔がわからない。

 君、私が狼だってわかってる? 犬だと思われているなら、それはそれでショックなんだけど……。


 混乱する頭を働かせて、昨夜の出来事を順番に思い返した。




 ***




 自分の体質を忘れていたわけじゃない。

 ただ、転入早々に習熟度別クラスを分ける試験期間に突入して、前の学校より授業が進んでいたため試験範囲に追い付くのに必死で、徹夜気味だっただけ。


 初めての寮生活に慣れる間も無く、連日閉館間際まで図書館の自習室で勉強。寮にはお風呂と寝に帰るだけで、まだルームメイトと挨拶以外の会話ができていない。たぶん今頃、転入生は気難しいとか言われてるんじゃないかな?


 昼間は昼間で、授業に追いつくのに必死だし、念願のレベルの高い剣技の授業は想像以上に楽しいしで、放課後はヘロヘロになりながら机に向かっていた。

 疲れが溜まっていた。

 空なんて見上げる余裕がなかった。でも、そんなの言い訳にもならない。


 長い試験期間の最終日。自己採点して間違えた箇所を調べ終わった頃には、すっかり日が暮れていた。


 ――時刻は閉館間際の二十二時五十分。図書館は職員も利用するので遅くまで開いているのだが、学生寮の門限は二十一時なので、この時点でとっくに門限をぶっちぎっている。

 どうやって部屋に入ろうかと思案しながら図書館の扉を開いた瞬間、今夜が満月だってことに気がついた。


 分厚い雪雲の下でも、獣人は月の魔力を感じ取れる。月の魔力が最も強くなる満月の夜、獣人は強制的に獣化する。

 身体に力が入らなくなって、図書館の壁づたいにやっとの思いで裏まで移動して、私はそこでぶっ倒れた。


 頬に冷たい土と雪の感触。濁った灰色の空から容赦無く雪が降り、なけなしの気力と体力を奪っていく。

 たしか予報では今夜は大雪になるって聞いた気がする。何故その時に月齢を確認しなかったのか。今更悔やんだところで、もうどうにもならない。


 獣の身体能力と人間の頭脳を併せ持つ獣人は、人間にとっては恐怖の対象だ。誰かに助けを求めようにも、好き好んで獣人に関わろうという人間はいない。

 ましてや、私は獣人の中でも嫌われ者の狼女だ。恐れずに近寄ってくる者はつがいのいない凶暴な狼男か、特殊な嗜好をお持ちの某貴族様ぐらいなものだ。絶対に期待してはいけない。


 晩春の雪の底に埋もれていく身体は白に塗りつぶされて、冷たく静かな眠りに落ちていく。灰白に閉ざされていく世界。身体を白い光が包んで、ゆっくりと形を変える。


 瞼を閉じる寸前、視界の隅に黒い何かが蠢くのを見た。それは雪の上を滑るように音も無く忍び寄り、私の顔を覗き込むと、スンスンと鼻を鳴らしながら頬を突く。


 野犬? 猟犬? 狼男? この際なんでもいいけど、助けてください。凍え死にそうなんです。

 祈りが通じたのかはわからないけれど、新雪をサクサクと踏みしめて、人と思しき何かが近付いてきたところで、私は意識を手放したのだった。




 ***




 はい。自業自得ですね。

 獣人のくせに月の満ち欠けを把握していなかった私が悪い。


 奇跡的に凍傷も無いし、拾ってくれた人には感謝してもしきれない。後でお礼をしなくては。人間サイズの大きな狼を拾って、こんなに親切にお世話をしてくれる人が悪い人だとは思えないし、今のところ差し迫った危険は無さそうだ。下手に暴れず脱出の機会を狙おうか。


 寝そべったまま室内を見回し、脱出計画を練っていると、私の背中に顔を埋めていた彼が目を覚ましたようだ。

 私を抱き枕にしていた腕が緩んで、やっと解放されると思いきや、彼は毛布の中に腕を突っ込む。突然私の左の前足の付け根あたりを探る。思わずヒュッと喉が鳴ってしまった。


 脈拍を測っているのだと理解はしているけど、そこは胸なんだ! 今君は女性の胸を触っているんだ! 狼の姿だけど!

 こそばゆくて堪らず足をバタバタと暴れだすと、耳のすぐ後ろでくすくす笑い声が聞こえた。


「しーっ、すぐ終わるからいい子にして」


 ピタリと動きを止めた私の背中を、彼は満足そうに優しく撫でる。心なしかなんだか手つきがいやらしい。

 今にも爆発しそうにバクバクと鼓動する心臓で脈拍を測っても、何の参考にもならないんじゃないか? いや、そんなことより今の声……。


「……あったかい。良かった。君、雪に埋もれていたんだよ? 無事で良かった……」


 声に聞き覚えがあった。よりによって、コイツに拾われるなんて……。

 気が遠くなってグッタリしている私に、彼は嬉しそうに話しかけてくる。


「まだ外は酷い吹雪だ。昼頃まで止まないらしいから、ゆっくりしていって。ここは誰も来ないから安全だよ」


 私の背中に頬ずりしながら優しく囁く。された私は全身に鳥肌が立って腰が抜けている。

 この人は私が凍死しそうなところを助けてくれた命の恩人である。お礼はきちんと言うべきだ。頭ではわかっているけれど、心が拒否していた。


「ふわふわ……良い匂い……綺麗な毛並みだぁ……」


 そうでしょうとも。白や灰色はあれど、銀色は珍しいからね! 毛並みを褒められるのは嬉しい。でもだからといって触っていいとは言ってないから!!


 ジタバタ暴れて、なんとか寝返りを打つと、彼の顔を前足で力一杯押し退けた。

 白い頬にかかる柔らかそうな白金色の髪。知的な光を湛えるエメラルドグリーンの瞳は、全てを赦すような優しい眼差しを向ける。絵画の中から抜け出したかのような美青年のおでこと頬には、今しがた私が押したばかりの肉球の判子が付いていた。


「急に暴れ出してどうしたの? どこか痛い?」


 そう言って背中を撫でられると、ぞわりと毛が逆立った。私の隣に横たわって同じ毛布に入っているこの男の顔を忘れるはずがない。オクシタニア伯の息子、名前は……。


「狼の姿も綺麗だよ。セラ」


 ああ、私の楽しいスクールライフ終わったわ……。

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