第4話 まずは いっこう


 やはり、よくわからないまま、こんなところに来るのではなかった。

 扉を叩いた時の、高揚交じりの緊張感はもはやない。ただただ逃げ出してしまいたくて、敦司はなるべく目立たないよう、こっそり足を引いて蚊が泣くような声で言う。


「あの……ええと。すみません、お、おれ……なんか間違えたみたいで……」

「――いや。間違えていないよ」


 きびすを返そうとする敦司の片手を捉え、翁面が朗らかに言い放つ。


「お探しの演劇部は、間違いなくここです」

「う……」


 いろいろと含んだ言い方に、自分の先の失言を思い出す。自分の手首を握る翁の手が、けれど枯れ切った老人のものとは違う、柔らかで温かな女子のものであることにもひどく動揺してしまう。無理に振り払うこともできない。

 そんな敦司の内心を読み切っているように、翁面はなおも腕を引く。


「なにはともあれ、中へどうぞ。なにか用事があってきたんでしょう?」

「い、いやおれは……別に用とか、そういうわけじゃ……!」

「用もない人間が、こーんなとこ来るはずないですよ」


 抗う敦司に向かって、文系少女がバタフライマスクをひらひらと振ってみせる。

 確かにそれはそうだろう。そうだろうけれど、だからといって、この空間に足を踏み入れる勇気などあるわけがない。

 仮面の群れにも驚いたし引いたけれど、女子生徒の群れであっても、同じかそれ以上に、敦司にとっては触れるべくもない相手なのだから。


「と、ともかく、その……っで、出直してきます!」


 口から出任せとはこのことだろう。一旦ここから出てしまえば、戻ってくるつもりなど毛頭ない。それでも手酷く突き放してしまえないのが、丹原敦司という人間だった。

 反対の手も添えて、柔らかな縛めから抜け出そうとする。けれど相手も、そう簡単に諦める人種ではないらしかった。


「出直すくらいなら、今すぐだって変わらないんじゃないかな? むしろ今を逃すと、機会なんて永遠に巡ってこないかもしれないよ? ほら思い立ったが吉日、って、――っ!!」


 突如、言葉を切った翁面が、有無を言わさず敦司の手を引いた。


「え、っ……!?」


 想像以上の力に引かれて、たたらを踏むように従わざるを得なかった挙句、勢い余って翁面を押し倒す形になってしまう。その背後にあるものを見てとっさに体勢を入れ替えた直後、長机の角に強打した腰には鋭い痛みを、腕の中には、その衝撃だけで壊れてしまいそうな脆さの温もりを覚えて、無意識のうちに身体が強張る。


 誰一人、声を上げる間もなかった。敦司を引き込むと同時に引かれていたドアノブに従い、扉が乱暴な音を立てて閉じられる。


 その向こうで、〈なにか〉が落ちてきた。

 スチール製の扉を隔ててなお、それは、耳をつんざくように。



「……――ぅぁあぁああああああああああああああああああア、――」



 そして、重く湿った衝突音。

 無情か有情か。それに断ち切られたのは、間違いなく〈悲鳴〉だった。


「なっ……なんですか? 今の――」


 飛び上がった文系少女が、答えなど待たずに扉へ駆け寄る。それに敦司の腕に抱かれた翁面が身を起こして振り返り、切迫した声を張り上げた。


「――開けるな、ミナミ!!」

「へっ……?」


 その忠告は、結果として、無駄に終わった。

 ノブを回され枷が失われた扉は、突如として吹き込んだ風によって大きく開け放たれる。軋みながらも開き切ったそれは反対側の壁にぶつかり、鈍く派手な音を立てたものの、誰一人として、それに気を取られるものなどいなかった。


「…………あ……」


 ――そこに、一人の男子生徒が倒れていた。

 敦司たちの方に頭を向け、手足を投げ出し、真下を向いて倒れ伏していた。

 その下の、黒い砂利石を濡らすものがある。彼の砕けた頭蓋から溢れ出した鮮血だと、考えるより先にわかってしまう。異様な方向に曲がった腕から、濡れてなお白い棒状のものが飛び出している。最後の瞬間の抗いが、そうした無残な結果を残したのだと、わかってしまう。

 その、刹那。


「――――!」


 敦司は唐突な耳鳴りに襲われた。脳髄を真っ直ぐに貫く刺繍針のようなそれに、思わず強く耳を塞ぐ。よろめきそうになる脚をなんとか踏ん張り、一瞬、堪えるように狭めた目を再び開いて――

 そこに姿を捉え、鋭く息を呑んだ。


 白無垢姿の女性が、立っていた。


 伏した男子生徒の傍らに佇み、その惨状を見下ろしていた。

 裾を引くほどの無垢な着物。フードのように横顔を隠す被り物――そのような姿を、敦司は液晶画面の上で見たことがある。神前結婚式での、花嫁衣装だ。


 不意にその花嫁が、白い袂の両腕を差し伸べた。その時になって初めて、敦司は、彼女の手から生徒の首元へと繋がるものに気が付いた。血のように赤く、はらわたのように細い紐だ。花嫁は糸を紡ぐように手を動かし、その先にあるものを手繰り寄せる。


 ずるりと、生徒の身体から引きずり出されたのは、白く半透明な人形だ。


 それは、そこに伏したままの生徒によく似ていた。詰襟の制服に包まれた本体と同じように、ぐったりと微動だにせず、手繰る花嫁の手に引き寄せられる。

 足元まできたそれを無造作に見下ろし、動かない唇が、葉擦れのような囁きを落とした。


  ……――……まずは……いっこう……――……


 かろうじて敦司の耳にも届いたそれは、しかし、その意味するところまでは届けてくれなかった。凝視したまま、ただその音だけが、頭の中でこだまする。

 花嫁が、赤い紐で半透明の人形を引きずって振り返る。このままでは振り向いた彼女と目が合ってしまう――それは避けるべきことだとわかっているのに、そうだとわかっているのに、なぜか敦司は、目を逸らすどころか身動ぎひとつできなかった。


 白い振袖の袂が揺れる。

 赤い紐が荷を引きずる。

 被り物の下の顔が、冷たく硬質なその双眸が、敦司を捉え――


 ――バタン、と乱暴な音で、我に返った。

 瞬いた目の先で、部室の扉は閉まっていた。その前に、こちらに背を向け立っているのは、いつの間にか敦司の腕を抜け出していた翁面の女子生徒だ。スチールドアに隔てられたためか、それともそれ以外の理由でか、場違いな白無垢はもはや存在すら感じられず、その声も、耳鳴りさえもが消え去っていた。

 振り向いた女子生徒が、その面を押し上げて頭から外す。そして言う。


「救急車を呼んで」


 それは素顔の表情と同じ、硬く平坦な声音だった。

 少し長めの短髪。険しい色をした目と強張った口元には、翁がまとっていた温和さなど微塵もない。取り付く島もない――という言葉が脳裏を過ぎる。

 呆然と見返すばかりの面々を見渡して、その人は事務的な口調で続ける。


「他に見ていた人がいたとしても、少なくとも職員室の人間はまだ知らない。知らせには私が行くけど、先に――トモちゃん。119、よろしく」

「わ、わかった!」


 慌てて頷き、スマホを取り出す道化師面の少女。そこにホッケーマスクの美少女が、言葉を濁すような、それでいて案外、冷静な口振りでの問いを挟んだ。


「119でいいのかな――110番じゃなくて?」


 暗に含まれた意味合いに、部室内が一瞬、凍りつく。

 しかし短髪の少女は、肩を竦めてそれを流した。


「それは専門家の判断に任せよう。ユウちゃんは――悪いけど、誰か来た時の説明役に、外にいてもらってもいいかな。オリーとミナミは、この彼と一緒にいてあげて」


 口々に了承を返す女子生徒たちを確かめて、ユウと呼ばれた美少女と連れ立ち、翁面を置いた彼女は部室を出ていった。

 終始静かなその様子は、まるで普段と変わらない、部活動中のただの一幕のようにさえ見えた。――決して外の惨状が見えないよう、配慮されながらの出入りだったのには、さすがの敦司でも気付いたけれど。


「……大丈夫? 顔、真っ青よ」


 いつまでも閉め切られた扉を見ている敦司を心配してだろう、横合いから、キツネ面をしていた実直そうな女子生徒が覗き込んできた。呟く声が震える。


「…………い、今の……」

「……あんまり考えない方がいいわ。ほら、ここ座って」


 促されるまま、長机を取り囲むパイプ椅子のひとつに腰を下ろす。

 足が萎えてしまったようで、それなのに熱を持ったような関節のうずきが治まらない。走って逃げ出したいような、それでいてそうすることがひどく恐ろしいような、奇妙な気分だった。

 同じ室内では、道化師の仮面をしていた短い三つ編みの女子生徒が、救急車の要請を終えようとしている。その声を片隅に、敦司はなおも問いを重ねた。


「今の……見ました、か?」

「死体のこと? ……まあ、ミオちゃんがすぐに閉めたから、あんまり見なくてすんだけど」


 震えながら蒸し返す敦司を不審そうに見返しながらも、長髪の彼女はすんなり答える。そうじゃないと訂正しようとする敦司を遮って、メガネの文系少女が、その向こうから身を乗り出した。


「やっぱりあれ……死んじゃってましたかね?」

「さあ、それはわかんないけど。……3階建だと、微妙よね」

「ですよねー……」


 忌むように声を潜めながらも、そこに恐怖の類いはない。下世話な好奇心さえ覗かせないのは、目と鼻の先で起こった衝撃ゆえだろう。扉を挟んでなお感じられる、残滓の生々しさゆえだろう。――しかし、だとしても。


 あれだけ場違いで異様なものを目にしながら、それを話題にしないなどということはないはずだ。

 まるでなかったことのように、無視することなど、ないはずだ。

 それは、つまり。


「…………」


 彼女たちには、見えてはいなかったのだ。

 あれは、だったのだ。


 白無垢の花嫁。赤い紐。それに繋がれた、半透明の〈人形〉――


 それが、見えた。

 敦司には、見えたのだ。


 それの意味するところがなんなのか、そんなことを考えられるほど、敦司は自分が強い人間ではないことを、よく知っていた。




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