第2話 馬面の誘い


 1年3組の皐月さつきの教室は1階で、7組である敦司あつしの教室は2階にあった。階段を上ってしまえば、そうそう顔を合わせることもない。


 普段はもどかしいようなその距離が、今の自分にはこの上なく有り難いもののように思えながら、敦司は、校舎内の西階段に足をかけた。それさえ上がってしまえば、教室自体はすぐそこだ。

 昼休みらしい喧騒をかいくぐり自分の席に辿り着いた敦司は、そこでようやく、自分の失敗に気がついた。


「ああ……パン……!」


 テスト結果の掲示を見て、そのまま購買へ行こうと言って出たのを、すっかり忘れていた。そのために財布を握り締めていたというのに、情けない話だ。

 一瞬だけ悩んで、結局すぐに席を立つ。

 これから放課後まで絶食という事態だけは、なんとしても避けたかった。体育会系ではないとはいえ、成長期には違いないのだから。

 せめて皐月たち集団との鉢合わせを回避しようと、敦司は教室を出たその足を、東階段へと向けた。


 東側の階段は、外気に晒されたコンクリート製の外階段だ。自教室から遠いその階段はなじみがないうえ、教室配置上、必然的に上級生が多い。敦司の中では〈校内で避けたい場所〉ワースト3にも入るところだが、今回ばかりは、背に腹は代えられないというやつだった。

 人目を避けるように、一方で衝突事故など起こさないように。上げきらず下げきらない視線のままで、敦司は挙動不審に他クラスの前を通り抜ける。

 吹きさらしの階段にも、楽しげに談笑する生徒たちの姿があった。首を竦めながらその中を駆け下り、1階、かつて自販機が据えられていたタイル床の広場に足を下ろした敦司は、ほっと安堵の息をついた。


 直後だった。


「――やあ! きみ、1年生?」

「っ!?」


 突如、ずいっと目の前に割り込んだ馬面うまづらに、息を呑んで思わず足を止めた。


 馬面だ――いや、〈馬〉だ。

 人間ではありえない長さの鼻面と横向きについた双眸、頭上についたふたつの耳がそうであることを、そして、敦司の鼻まで届く安っぽいゴムのにおいが、それが本物の〈馬〉ではないことを証明していた。


 つまり、馬の覆面をかぶった、ただの男子生徒だ。

 敦司と同じ黒の詰襟学生服。胸ポケットにつけられた名札の色は青。裏返されて名前はわからないが、それは3年生の色だった。


「おおっと。びっくりさせてしまったかな? というか、びっくりするよね普通。うん、それはわかってるんだ。でもさ、これならインパクトあるだろ? 絶対に。忘れたりしないと思わない? 他の野球部や吹奏楽部なんかにインパクト負けしたまんまじゃ、僕らの部は廃部まっしぐらだって、ようやく気付いたからね。いちもにもなくインパクト! 活動内容なんて正直、入部してからで充分だと思うんだ。いや、説明はちゃんとするけどね。きみが興味を持ってくれたなら!」


 敦司が観察する間にも浴びせかけられていた馬の話に、部活動の勧誘だ、とようやく思い至る。何部かまではわからないが、つまり敦司は、そのために呼び止められたらしい。


「いや、あの……おれ、まだ部活とか……」

「決めてない? 好きなのがない? ――だったらどうぞうちの部へ!」


 この馬、強い――。

 恭しさを滲ませ腰を折る身体に反して、どこを見るともしれないままのゴム製の目玉がアンバランスで、笑いよりも気味の悪さが先に立つ。

 そして悟った。このままでは、この馬に流されてしまうと。


 敦司は、多少強引にでもこの場を逃れることにした。なにせ昼食と、午後からの胃袋の健康がかかっている。

 じりじりと後退りしながら、虚ろな馬の目から視線を逸らした。


「す、すいません、おれ、ちょっと急いでるんで――」

「あ、そう? ならこれだけでも! どうぞ!」


 ゴムの歯で噛みつかれるような気さえしていた敦司に、しかし馬は弾むような声音のまま、1枚の紙切れを差し出した。


「なんならお友達用に、もう2、30枚!」

「いやいやいや! 1枚でいいです! 結構です! それじゃ!」


 まだ枚数の増えていない紙切れを奪い取るようにして、追撃を逃れるため背を向ける。途端に襲いかかってくる馬頭うまあたま――というのは敦司の被害妄想で、体育館側の中庭の反対端まで駆け抜けたところで振り返ったその目には、馬の〈う〉の字も映らなかった。

 溜め息をついて、足を止める。


「……はあ。なんだったんだ、あれ……」


 答えはわかっているが、ぼやきたくもなる。

 馬覆面の部活動勧誘だなんて。


 半ば無理やり手渡された紙切れの存在を思い出し、目を落とす。そして同時に、もう片方の手に握っていたものの存在も思い出した。


「ああっ! パン……!」


 馬頭の方が随分マシだ。

 自分のこの〈鳥頭とりあたま〉に比べたら。


 昼休みが始まって、もう20分はたっていた。

 食堂もある西高の購買はよそよりも競争率が低いという話だが、それだけでは到底、確かな収穫の根拠とはできない。けれど。

 せめて急いで駆け出そうと、顔を上げる――このまま諦めるという選択肢は、今のところ敦司にはなかった。売り切れてしまっていたならば、その時は、そうせざるを得ないけれども。


 そして、はたと気付いた。

 ここから購買に辿り着くための最短ルートは、あの野次馬たちに溢れた掲示板前を通り抜けるもの。それを避けるには校舎を反対に回り込む道をとるしかないのだが、そうなると、あの〈馬〉の前を再び通らなければならなくなる。

 背に腹は代えられない。けれどこの場合、そのどちらがどちらなのか、自分でも判然としなかった。

 敦司は思わず、顔を覆って呻きを零す。


「あああ……」


 まったく――まったく本当に、要領が悪い。

 どうして自分はこうなのだろうと、常々ながら思う。腹立たしいし、呪わしい。虚しいし、情けない。入学して一週間はたったというのに、こんなにも単純な失敗を犯してしまうとは。

 皐月ならば、あの賢い幼なじみなら、決して犯さない愚行だろう。

 そもそもあれほど惨めな逃亡自体、彼女はしないのだろうけれど。


 結局、幼なじみ含む女子集団が自分たちの教室に帰っていることを祈りつつ、掲示板の横を通ることにした。

 神か仏か、誰に届いたかはわからなくとも、ともかくそれは叶えられ、ついでにもうひとつの願いも叶えられることとなった。はぐれたはずの友人が、敦司の昼食を含めた戦利品を手に、そこで待ち構えていたのだ。


「おっせーなー、丹原たんばら。昼休み終わっちまうじゃーん」


 間延びした調子で責めるのは、出席番号が近いため話すようになった同じクラスの田所良一たどころりょういち。敦司より頭ひとつ分は高いひょろりとした長身と、いつでも眠たそうな覇気に欠けた顔が特徴的な男子生徒だ。


 田所は投げるようにして菓子パンふたつを敦司に渡し、敦司はその代金をその場で支払った。築きかけの友人関係であるからこそ、金銭に関してはルーズになってはならないと思う。

 その際、財布といっしょくたに握られていた紙切れに、田所の目が止まった。


「んー? なんだ、それー?」

「え? ……ああ、部活の勧誘チラシ……みたいなの。だと思う」

「うっへ、曖昧だなぁ。どれどれー?」


 伸ばされた手を拒むことなく、紙切れを渡す。

 自教室へと向かう足を止めないまま、田所はそれを目の前に掲げて読み上げた。


「へえ――『おいでませ! 舟西ふなにし演劇部!』だってさー」

「演劇部?」


 ちらりと横目で覗いた紙切れには、確かにそんな文字が躍っていた。

 続いてなにやら長々と、どうやらその表題に続く細かい文章を追っているらしい友人の声を横に、敦司は少しだけ、腑に落ちるような気持ちで顎を引く。


 だからか。だからあの、〈馬〉。


 おそらくなにかの劇で使う、衣装だか小道具だかなのだろう。確かにインパクト充分だし、演劇部らしいと言えばらしいのかもしれない。敦司としては、気味が悪いとしか思えない代物ではあったけれども。


「『――あなたも、自分ではない、違う誰かの仮面をかぶってみませんか?』」


 締め台詞らしいものを読み上げる、田所の声が耳に残る。

 仮面というよりは覆面だったなぁなどと思いながら、それを何度か、脳裏に繰り返す。


 誰か。違う誰か。

 こんなどうしようもない自分ではない、違う〈誰か〉の――


「〈仮面〉、ねー。オレはパスだなー、こういうキザな感じのは性に合わん」

「……そもそも田所、部活入る気、あんの?」

「おー、ないねー」


 進学校たる舟崎西高校では、部活動への所属は決して強制ではない。

 かくいう敦司も、これからの成績いかんを思えば、余計なことをしている暇はないと思っている。――いや。


 思っていた。つい、1分前までは。


「こんなグシャグシャじゃ、メモにもなんねーしなー。よし、ポイしーましょー」

「えっ! いや、ちょ――まずはおれに返せよ! おれのなんだから!」


 ちょうど自教室を入ったところにあるゴミ箱へ、チラシを紙くずとしてダイレクトシュートしようとした田所の腕を掴んで止める。

 止められた方は驚いたように眉を上げながらも、面白がるような目で敦司を見返した。


「お? なになに丹原ー、興味あんの?」

「き、興味っていうか関心っていうか……そういうわけじゃないけど、自分がもらったものはそれなりにきちんと読んでおきたいんだよ。……入部するかどうかは、ともかくとして!」


 東階段の〈馬〉を思い出して、付け足す用心に力がこもる。

 彼も常にあの覆面をかぶっているわけではないだろうと、そのことは理解しているのだが、どうにも警戒心が働いてしまう初対面だったのだから仕方がない。


 とにもかくにも、「ふうん?」などと小首を傾げる田所から、すっかりシワだらけになった紙切れを奪い返す。掲示ができるほどのきれいさはもう望めないけれど、しっかり伸ばせば、文字を読むくらいならできるだろう。


「まー、そんなことよりメシだメシー。……ってうおっ! 予鈴まで10分ねーぞ、丹原!」

「げえっ! マジだ急げ!」


 慌ててついた自席で、痛いほどの空きっ腹に甘ったるい菓子パンを超特急で詰め込む。水筒を持参していてよかったと、これほど思ったことはない。

 鳴り響く予鈴の中、未だ呑み込みきれないらしいパンで頬をもそもそさせている田所の背を前に、先んじてひと息ついた敦司は、机の隅で丸まったままの紙くずを無造作に広げた。


『おいでませ! 舟西演劇部!』


 B5ほどの小さなコピー用紙の半分を使って、意外に達筆な文字がそう躍る。その後に続く文章はそう長いものではなく、田所が読み上げたあの締め台詞で終わったその下には、簡単な地図がひとつ。部室の場所らしきものが、短い説明文と共に書かれてあった。


「…………」


 先程は、適当にあしらいはしたものの。

 興味があるかないかという問いに、正直に答えれば、ある。


『――あなたも、自分ではない、違う誰かの仮面をかぶってみませんか?』


 その一文が持つ、なにかよくわからない引力に、なにかよくわからないまま惹かれてしまった。そんな気分だったが、後者についてはそうとも言えないことを、敦司は理解していた。


 なぜならそれは、敦司がずっと求めていた、その答えなのだから。




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