第4話 幽霊になっても夢を見る
――須山。ちょっと話、あんだけど。
話しかける自分の声が緊張しているのがわかって、亮は焦った。
掃除当番で、ふたりでゴミ捨てに行った帰りだった。ひとけのとぎれた小学校の校舎裏。
真夏のことだ。校舎をとりまく雑木林には、呆れるほど蝉がいて、大音量でわんわんと合唱していた。
緊張してしゃちほこばっているチビの自分を、斜め上から見下ろすようにしていた。
これは夢だ。
わかっているのに焦る。馬鹿、やめとけ。叫ぼうとしても、声は出ない。
呼びとめられた須山は、お下げ髪を揺らして、不思議そうに首をかしげている。
夢の中の亮は、何度か口を開きかけて、ためらった。それでも顔を上げたのは、須山がじきに、転校してしまうという話を聞いたからだ。
自分の喋る声が、蝉時雨にかき消されて、耳に入ってこない。
そのとき自分が何と言ったのか、亮は覚えていなかった。きっといま聞けば気恥ずかしくて仕方ないような、小学生なりに背伸びした言葉だっただろう。
手の中で、汗がべたつく。須山が驚いたように、目を丸くしている。その唇が開きかけて、少し迷うのを、目で追っていた。
自分の声は聞こえなかったのに、大声でもない須山の返事は、なぜだかはっきりと耳に飛び込んできた。
――やだよ。だって山邊、乱暴だもん。
起きるなり低く呻いて、亮は顔をしかめた。まだカーテンを買えずにいる窓から、容赦なく朝日が射し込んでいる。
いやに昔の夢を見た。
亮はがりがりと頭を掻いた。初恋の相手にフラれたときのことなんて、自分がまだ覚えているとも思っていなかった。それでもいざ思い出そうとしてみれば、あんがい忘れていないことに気づく。
さすがに顔はもうおぼろげにしか覚えていないが、飛びぬけて可愛い子ということでも、目立つ子というわけでもなかったと思う。口を開くと気が強くて、からかったらすぐムキになるのが可愛かった。ときどき青あざを作っていて、人に聞かれたら、転んだとか階段から落ちたとか答えていたけれど、あとになって大人たちの噂で、父親の酒癖が悪いと小耳に挟んだ。告白以来、気まずくなって、あれからは一度も口をきかなかった。
――だって山邊、乱暴だもん。
夢の中の須山の声が、耳にこびりついている。実際に言われたのも、同じようなことだったはずだ。
喧嘩っぱやいのは、あの頃から変わらない。握った自分の拳を見つめて、亮は苦い息を吐いた。
思い出してしまえば、恥ずかしさと苦い思いばかりが胸に残る。不機嫌に低く唸ると、つられて起きたのか、文香が隅で体を起こした。
余分な布団があるはずもなく、文香は畳の上で寝ている。亮が入居する前から、ずっとそうしていたらしい。幽霊に布団を譲って自分が畳で寝るほど亮は酔狂ではないが、相手が一応は女なだけに、つい気が咎めるような気がする。
「おはよ。なに、朝からご機嫌斜めね」
欠伸まじりに言われて、亮は眉を吊り上げた。
だいたいお前が昨夜、余計なことを言うから。そう言いかけて、寸前で飲み込む。どう考えても藪蛇の予感しかしない。
朝飯用に買ってあったパンの袋を開けながら、ふと見ると、文香の髪にはっきりと寝癖がついている。なんでだよとツッコみかけて、途中で面倒くさくなった。
そもそも幽霊が寝る意味がわからない。そういえば亮が最初に見たときにも、文香は呑気に眠りこけていたし、ついでに寝言まで口にしていた。
「そういや、幽霊でも夢とか見んだな」
何気なく言うと、文香は頷いた。
「見るよ。不思議だよね、どうなってるんだろ。生きてたときの感覚、そのまんま引きずってるのかな?」
「そんなもんか」
ほかにどう言いようもなく、亮は曖昧に頷いた。その目の前に、ひょいと透ける腕が伸びてきて、パンをかっさらっていく。ものには触れないとばかり思っていただけに意表をつかれた。
「おい、こら」
それきりしかない食べ物を横取りされて、思わず亮は本気で怒りかけたが、文香はしれっと千切ったパンを口に入れてしまう。
「まあまあ、けち臭いこといわない。どうせ食べても減らないもん」
たしかに自分の手を見おろしてみれば、食べられたように見えたパンは、そのままの形でそこにあった。
「腹、ふくれんのか。それ」
「ふくれないねえ」
答えて、文香は腹をさすった。
「でもなんとなく味がするような気がするし、食べたような気がする」
その表情が少しばかり寂しげで、亮は気まずく黙り込んだ。
幽霊というものは、何か強く思い残すことがあってこの世に留まるのではないだろうか。そのことに初めて思い当たって、亮は唇の端を下げた。
成仏、という考え方であっているのかわからないが、死んだ人間という人間が皆、わけもなくいつまでも幽霊としてこの世に残っていれば、それこそ地球上はみっしり死者だらけになってしまう。
文香がいくら能天気にしているように見えても、何かそれなりの理由があるから、こうして留まっているのだろう。いままで考えてもみなかった自分が少しばかり薄情なような気がして、亮は思わずじっと文香の顔を見た。
「なに? なんか顔についてる?」
「いや……なんか、未練っつうのか。そういうの、あんじゃないのか。お前」
歯切れ悪く亮が訊くと、文香は小さく吹きだした。
「未練ねえ。フラれた相手のことをいつまでも忘れられないとか? あんたじゃないんだからさ」
むっとして、亮はパンの袋を丸めた。変に同情した自分が馬鹿だった。
仏頂面になった亮を見て、文香はけらけらと笑い声を立てた。
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