灰の上の舟

江山菰

「最悪だ…この世の終わりだ…」

 ごま塩の髭をもじゃもじゃと生やした男がレネの右斜め前で小さく呟いた。

 彼の上っ張りには、つい先ほどまで生業に精を出していた証の削り出した金属屑が付着し、金気臭い汗の匂いを漂わせている。

 犇めきながらも静かな群衆の中で、レネは、抱えた重い荷物を揺すり上げ、抱え直した。


 9歳になったあの日、レネは彼女の家に代々伝わる奇妙なものを初めて目にした。

「お前に『あれ』を預ける日が来たな」

 そう言って、彼女の父親は書棚から分厚い百科事典をすべて引き抜き、床に置いた。空いたスペースの奥にはこの家に住み続けてきた彼らの先達のうち誰かが作ったのであろう、いかにも素人のお手製だということが見て取れる小さな扉付きのニッチがあり、その扉には厳重に鍵が取り付けられている。とはいっても粗末な作りの木切れの扉は鍵など開けなくても、叩き壊そうと思えばいつでも壊せそうだった。

 幼い頃から、父親の書斎には近寄るだけできつく叱られてきた。鬼気迫る剣幕でこの部屋に近づいてはならないと頑是ない時期からずっと言われ続け、ではなぜ入ってはならないのかと尋ねると父も母も「いずれ教えてやる」の一点張りだった。

 その「いずれ」が今日このときであり、やっとその理由を教えてくれるというのだから、子供らしい緊張を浮かべてレネは扉の向こうにある空間を見つめた。そこには漆喰を削り取った鏨の跡が壁に荒々しく残され、まるで猛獣の爪痕のようだ。

 その壁をくりぬいた窪みに、一抱えほどある黒い箱のようなものが見えた。

「これ、なあに?」

 父親は答えなかった。

「重いぞ、気をつけろ」

 そこから黒い箱を取り出すと、彼はまだまだ虫や鳥や野の花に喜び、ちょっとした菓子や人形に夢中になる幼い娘にそっと渡した。

 ずしりとした重みに、レネは一瞬それを取り落しそうになり、慌ててしっかりと抱えた。

 箱の表面は滑らかで冷たかったがその材質はガラスでも、陶磁器でも、プラスチックでも、金属でもない。初めて見、触れる素材だった。

 角は全て滑らかに丸く整えられ、開口部も継ぎ目もないつるんとした立方体だ。

 目を凝らして見ると時折この真っ黒い箱の奥の方で芥子粒ほどの光が水澄ましのように動き回りながら様々な色に明滅する。ということは、この黒くて中が全く見えない箱の素材は透明なのだろう。

 レネはもう一度、父親に問うた。

「これ、何なの?」

 父親はやはり答えなかった。

「お前は教えたことはきちんとやれる子だ。今日からこれはお前が世話をしろ」

「世話?」

「そうだ」

「世話って、これ生き物? 何なのこれ」

「そうだな……おもちゃみたいなものだ。機嫌がいいと喋るし、中を見せて……」

 父親はふと言葉を切って顔を顰めた。それを怪訝な顔をした娘が大きな青い瞳で見上げる。

 彼女は父親の言うことが全く理解できなかった。

「喋る? この箱が? 中が見えるの? どうやって?」

「世話をしていればわかる」

 そして父親は、気を取り直すようにその箱の取り扱いについてレネに細々と指示した。


 悪さはしないので、怖がることはない。

 一日に一度、箱に素手で触れること。

 決して粗暴に扱ったり、壊して中を見ようとしないこと。その前に、壊せないのだが。

 たまに日光に当てること。ただし温度が上がると機嫌が悪くなるのでほどほどで。

 喋った時は会話をしていいが、何か望みを聞かれたときには絶対に答えてはならないこと。

 逆に、望みを伝えてきた時にはできる限り叶えてやること。

 この箱のことを誰にも話さないこと。


 そして、自分の命よりもこの箱の保全を優先させ、自分の子孫に必ず継承させること。


「なあんだ」

 自身の命の重みをまだ知らぬ子どもはほっとした顔で言った。


 実際のところ、この箱が何なのか。

 何故変哲もない我が家にこんなものが深く秘匿されているのか。

 こんなものが自分や家族の命よりも尊ばれなけれなければならないのか。

 それは父親にもわからなかった。

 ただ、昔からそう言い伝えられ、このつるつると光沢のある箱が手渡されてきたのだ。

 それを、この一族は大人しく、何の疑問も持たずに守ってきた。

 おそらくもっと昔にはこの箱の持つ意味も使い方も伝わっていたのだろうが、それはパルカ家の人間が受け継いでいく中、どこかで途切れてしまった。

 しかし父親はぼんやり思っていた。


……きっとこれは本当はろくでもないものだ。でないと中にあんなものが入っているわけがない……


 こんな代物を、無邪気な娘に預けるのはもちろん気が引けた。しかしそうせざるを得ない理由がある。

 三日後、父親は出征して行った。天文学的に0がいくつも並んだ額の兵役免除金など、払えるわけがなかった。


 この年頃の子どもたちには、幼稚なハラスメントを残酷に流行らせる。

そうして、昨日まで仲良く遊んでいた子どもが突然レネを無視したり、ひどい言葉で腐したり、果ては父親や母親の血統について根も葉もないことを言い触らす。

 レネの母方の祖父は有色人種で、特にこういう有事の世相で混血を激しく嫌う潔癖な近所の連中が自分の子に言い含めるのだ。


――あの家の子は不潔な血が流れている


 レネはクラスメイト達に言い返せず、家に逃げ帰って泣いた。

「わたし、もう学校に行きたくない」

 母親は悲しい顔をした。

 羊のように従順で自発的に事を起こしたことなどない母親は、夫が不在の今、勇を鼓して学校へ直談判に行った。

 しかしそれはあまり有効とは言えなかったどころか、事態を悪化させた。


 毎朝娘を抱きしめ日々激励し宥めすかして学校へ通わせる日々。 

 そうして、全てが寝静まった後、小さな祭壇にある十字架と夫の写真に娘のことを相談し、小さな顔が扉の隙間からそっと覗いているのも気づかず涙ぐむ。


 レネはいい子だった。

 つらくても学校へは真面目に通った。家でもよく手伝いをし、泣き言も言わずよく働く。しかし、少女の顔からは日々表情が消えていった。

 それでも、任された「箱」の世話は順調だった。


「よう」

 頭の中に声が響く。

 空気の振動を介さずに語りかける声。

 どこからどのように差してくるのかわからない、木漏れ日が葉を透かしてしみ出るような緑色の光が箱を黒々と浮かび上がらせる。

 父親の言ったことは本当だった。

 この箱は、喋る。

 その声は少し低い、若い女…というよりも少女の声だった。

 初めて話しかけられたときは、レネは驚愕と恐怖のあまり声も出ず、後ずさって尻餅をついたものだった。その姿を箱は笑った。

 どうして鼓膜の震えを経ずに音として認識されるのか未だにわからない。

 こちらからの語りかけは、最初は口で喋っていたが今ではもう慣れたもので、話したい内容を言語として思い浮かべるだけで「箱」にはちゃんと聞こえるらしく会話が成立する。

 これはこういうものなのだ、と思うことにしたら、この「箱」との会話がまるで秘密の友達との会話のように思え何だか楽しくなってきた。日ごろの鬱屈した思いを語るうち心の安らぎさえ覚えるようになっている。

 世擦れした、どこか投げやりな口調にもかかわらず、「箱」は彼女には優しかった。

「今日もしけた面してんな」

「だっていつもにこにこしてるのは幸せ者か馬鹿なんだよ」

「じゃあお前は幸せ者でも馬鹿でもないんだな。平和だ、あー平和だ」

 箱は面白そうに言う。全く機械的なところがなく、本当に生きている人間と話しているのと同じだ。

「平和じゃないよ。お父さんは戦争に行ってるし帰ってこられるかどうかわからないし、お母さんはわたしに隠れて泣いてるし、学校の子たちは何かあるとすぐわたしに『汚い』って言うし」

「くだらねえな」

 箱はさらっと感想を述べた。

「血に汚ねえもきれいもあるもんか」

「……」

「どうでもいいことだろ?」

「だって、この間までみんな優しくて一緒に遊んでたんだもん」

「……きついのはわかるがそんなのも、もうすぐ消えてなくなる」

「ほんと?」

「……何十億という人間が一瞬で、今お前の父親のいるところへ行くことになる」

「わたしも行ける? お父さんに会えるんだね?」

 箱はしばらく黙った後、不気味なほど優しく言った。

「お前は、私がいる限り守ってやろう」

 いつも箱はこう言う。

 今日は温かみのある口調。

 時には尊大な、そして時にはひどく悲しげな声で。

 そのたびに彼女はこう尋ね、箱はきまってこう返すのだった。

「あなたに何ができるの?」

「私が何ができるか知ったら、お前小便ちびるぞ」

 そう言われても、箱は箱だ。

 いくら不思議な現象を起こせるとはいえ、ただの玩具の延長上にあるものとしかレネには思えなかった。

 彼女はそっと水仕事で荒れた小さな掌を箱にのせる。

 いつもは箱の奥で小さく光り、話すときにはぼんやりとマンドルラのようなものを纏う箱の表面に、この時だけ明るく光が点る。その光に、掌の血の色が透ける。

「頼んだやつは持ってきたか」

「うん」

 何のためだかわからなかったが、箱はできるだけ多くの人間の毛髪を持ってくるようレネに頼んだ。

「一本でも構わねえ。頼むわ」

 箱のいう通り、レネは学校や街で片っ端から毛髪を拾い集め、顔見知りの理髪店で掃除を手伝った。そうやって、毎日もやもやと不可解な気分で、様々な太さ、硬さ、色の毛髪を箱の上にのせた。

 一瞬カメラのフラッシュのように強く発光すると、箱は言う。

「ありがとな。もう片付けてくれ」

 この行為に何の意味があるのか、箱は全く説明しなかった。

 レネは毛髪を捨て、箱を拭きあげる。


 そして、箱をもとの戸棚に戻すとき、箱は必ずこう言った。

「おい、何かすげえもん見たくねえか? 一つだけ、何でも叶えてやるから言ってみろ」

 これだ。

 恐らく父が言っていた、自分の望みを決して言ってはならない、という戒めはこのことなのだ。

「ないよ」

 レネも心得たもので、ひとこと答えて扉を閉める。

「おやすみ」



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