第6話 君の笑顔は100万ボルト
朝起きると、目覚まし時計が瀕死だった。
フローリングの床の上には、時を刻む営みを止めた目覚まし時計と、乾電池が二本、転がっている。けたたましく鳴り響いた目覚ましの音へ無意識のうちに反応して、私がさっき床に叩きつけた所為だ。
まあ、壊れちゃいないだろう。
目覚ましのベルではなく、目覚ましが内蔵(電池)をぶちまけた音で目を覚まし、私は上半身を起こした。今日の講義は午後からだけど、二度寝したらそれすら遅刻しかねない。
どうにか起きたはいいものの、目は半分しか開かなかった。腫れぼったいまぶたが、活動開始を全力で拒否している。鏡で見たら、きっとひどい顔をしていることだろう。
原因は分かっている。明け方近くまで、ネットしたり動画を観ていた所為だ。
そして多分、動画のせいで、最高に夢見が悪かったからだ。
よく覚えてないけど、とりあえず私は夢の中で血をぶちまけて派手に死んだ気がする。
ぼんやり寝不足の原因を思い出してから。
途端にはっきり覚醒して、私は右の二の腕を見た。
傷が、ふさがっている。
一昨日、壁にぶつかって出来た傷は、最初から何事もなかったかのように、綺麗さっぱり消えていた。
傷があったはずの部分に触れる。つるりとした肌の表面は滑らかで、かさぶたも、ひきつれもなかった。
けれども昨日の夜までは、間違いなくそこには傷があったはずなのだ。
夢じゃ、ない。
確かに私は昨日、傷を癒やす吸血鬼の末裔に、血を吸われた。
******
大学に来てから、まっすぐ図書館に向かう。いつもは素通りする棚を吟味していると、不意に若林紅太とエンカウントした。
やってきた彼に気付き、動揺してビクンと肩を跳ねさせたあとで、私はぎこちなく挨拶をする。
「お、おはよう……」
「そろそろ昼だけど」
「あっそうでした……」
彼の顔を直視できずに目を逸らす。逸らしてもなお、若林くんの視線が、本を抱えた私の手元に向けられているのは分かった。
私が手にしている本は、吸血鬼に関する文献だった。
吸血鬼辞典、吸血鬼伝説などと銘打った専門書の類に、吸血鬼を題材に扱った小説まで。
いずれにしても、タイトルからして一発でそれと分かるものばかりである。
会いたくなかったぁー!
本当、今この場で会いたくなかったぁー!!!
昨夜、私が睡眠時間を犠牲にして、ネットを調べて回っていたのは。
吸血鬼、のことだった。
それでも飽き足らず、いそいそと文献を求めて図書館に来たのだった。
本当は、気の済むまで調べて、覚悟を決めてから話をするつもりだった。
だけど見られてしまった以上、先延ばしはできない。こうやって私が吸血鬼について調べている姿を見ては、若林くんもいい気分はしないだろう。
こうなったら、腹をくくるしかない。
「若林くん。この後、講義ある?」
「午後からだよ。今は空いてる」
「ちょっと、……お話ししても、よろしいでしょうか」
日の光が射し込むガラス張りの校舎は、サークル部屋やコンビニが存在することもあり、学生の出入りが激しい。しかし階を上がるにつれて、段々と人の姿は少なくなっていく。
そんな、ひと気の少ない上層階の、片隅に置かれたテーブル席に私たちは陣取った。
全面がガラス張りになった壁からは、五月のさんさんとした太陽の光が容赦なく降り注ぐが、若林くんは至って平気そうな顔をしている。彼の言うように、なるほど日光は平気みたいだ。
「昨日ね。あれから、考えてみたんだけど」
何気ないふりをして、私は口火を切った。
ここに来るまでの間、どう話したものかと考えてはみたが、いい案は浮かばなかった。
回りくどいことを言っても仕方ない。率直に言おう。
「味の善し悪しもあるだろうし、若林くんが嫌じゃなければ、なんだけど。
よければ。定期的に、私の血を飲んだらどうかと思って」
「は?」
私の提案は、彼にとってあまりに意外だったようで。
呆けた声でそう言って、若林くんは大きく目を見開く。
「何言ってんの? どうしてそんな馬鹿なこと」
「だって。若林くんには、血が要るでしょう」
それが。
私が考えた末の、結論だった。
けれども多分、彼はそう簡単には認めてくれない。
だからまず率直に言ってしまおうと、私は一つ、深呼吸をした。
「あのね。私、若林くんが昨日みたいなことを誰彼構わずやらかして、捕まったりしないかがめっちゃ心配なの」
「人を通り魔みたいに言わないでくれ……!」
心外だとばかりに、若林くんは語調を乱す。
ごめん、ちょっと言い方が悪かった。
「言っただろ。普段はちゃんと、対策してるって。もうこんなことは起こらないから大丈夫だよ」
「またイレギュラーが起こる可能性はゼロじゃないでしょ?」
「次から気をつければ」
「一度やらかした人が言っても信憑性ないですー!」
牽制も込めて、私は若林くんを軽く睨む。
「それに。一つ、聞きたいんだけど。
本当に、吸血鬼の末裔にとって、血は嗜好品止まりなの?」
その問いに。
少しだけ、彼は視線を泳がせた。
「そうだよ。だから、そんな頻繁に飲まなくたって」
「嘘でしょう?」
言い訳じみた彼の言葉を遮って、ずばり本題に切り込む。
「本当は。末裔にとっても、血ってもっと欠かせないものなんじゃ、ないの?」
吸血鬼といえば、人間の生き血を吸う生き物。
それが彼らのアイデンティティのようなものだ。
世界各国に伝わる伝承や、映画や小説などフィクションの類に至るまで色々調べた。
地域によって、物語によって、それこそいろいろな設定の吸血鬼がいた。一般的なイメージ通りの吸血鬼から、それこそ彼の言う末裔みたいに、彼らが苦手とするものの大体が平気な吸血鬼まで。
けれども。
彼らが『血を吸う』という点についてだけは、ほとんどの話で共通していた。
名前にも冠している特徴である。そうそう外せない要素なのだろう。
だから、少し若林くんの話を疑問に思ったのだ。
いくら末裔とはいえ。
本当に、血は嗜好品止まりでよいものなのだろうか、と。
それは、血を吸う若林くんと対峙した時にも思ったことだった。
だって、ただの嗜好品なんだとしたら。
獲物を見つけたときのような、あの熱に浮かされたような眼差しまでは、しないんじゃないかと思ったから。
とはいえこれは、ただの勘。だから、もう少し調べて考えを深めてから話を切り出そうと思っていたのだ。
若林くんは、妙な嘘をつくタイプではないと思う。
けれど。
彼はきっと、人を守るための嘘なら、きちんと吐くタイプだ。
そして今日、彼の姿を見て。
私の中で、その推測はほとんど確信に変わっていた。
私はおもむろに彼の顔に手を伸ばし、むに、と両頬を軽くつねる。
抵抗することはなかったが、しかし若林くんは怪訝に顔をしかめた。
「いきなり何すんの」
「明らかに血色がいい」
「…………」
「明らかに! 血色が! いい!」
「二度言わなくていいよ!」
そう。今の彼は、昨日と明らかに肌艶が違う。いつも病弱そうに見えた青白い頬には、薔薇色の赤みが差し、それこそギムナジウムで健やかに過ごす少年のようだ。
おかげさまで、より尊みが増している。素晴らしい。
とか考えている場合ではない。
「もう一度言います。
本日の君は、私の血を飲んだ後の君は、血色が大変よろしく思えます」
「う」
「本当は、健康を保つためにはもっと血が必要なんじゃないの。白状しなさい」
「……その、とおり、なんだけどさ」
私に頬を掴まれたまま、若林くんは観念して言う。
「昨日も言ったように、吸血鬼の末裔は、ほとんど人と変わらない。
ただ、ちょっと違うところは。
俺に傷を治す力があるみたいに、人によって特殊な能力を持っていることがあること。
それから血を定期的に摂取していれば、寿命だけは、人より少し長いんだ。不老不死とまではいかなくても、昔ながらの吸血鬼のように大量に血を飲んでいれば、百五十年は生きるって言われてる」
百五十年。人間の、一.五倍くらいか。
いや、平均で考えれば、人は百歳も生きない。ほとんど二倍近いのか。
「血液を摂取しなくても、すぐに死にはしない。
けれども緩やかな死に向かっていく。
一切、血を飲まずにいた場合の俺たちの平均寿命は、三十から四十程度だ」
私は、彼の頬から手を離した。
血を飲めば、彼らは人より遥かに長生きする。
だけどそれを怠った場合。彼らの命は人間のそれより、遥かに短い。
何が、人とほとんど変わらない、だ。
生きていく上で、結構なハンデだ。
「だから俺たちは、長生きしすぎず、早死にしすぎない、程良いラインで血を摂取する。
普通は、相手に影響が及ばない程度の少量の血を、だいたい月に一度も飲めば大丈夫なんだ。
だけど俺の場合。この体質のせいか、それだと少し足りない。できれば、月に数回は欲しい」
「それで。若林くんは、どのくらいの頻度で飲んでたの」
「……満月の日にだけ」
全然。
全然、足りないじゃないか。
満月の夜は、月に一度程度。
だけどそれだけじゃ、若林くんの身体には足りない。
やっぱり、私の直感は間違ってなかった。
彼は、人を守るための嘘なら、きちんと吐くタイプだ。
静かになった私に、若林くんは言い含めるように告げる。
「確かに今回は、少なかった。けど身近なところに、
気持ちはありがたいけど、望月さんの手を煩わすほどじゃ」
「まだ、なにか隠してるでしょう」
「どうしてさ」
「今、僕って言った」
若林くんは分かりやすく口ごもる。
「なんでそう、簡単に見抜くんだよ。マジか。マジかよ。嘘だろ、なんで分かるんだよ」
「
前のめりになって詰め寄ると、彼は上体を反らして逃げるようにしながら。
目をそらしつつ、ぼそりと答える。
「身内の血よりは。純粋な人間の血の方が、いい」
そんなことだろうと思った。
だって、吸血鬼は吸血鬼を襲わない。実際の吸血鬼がどうだったかは分からないけど、伝えられてる感じでは、血を吸う対象は普通、人間だ。
いよいよ、私の中では決意が固まる。
けれどもこの様子じゃ、彼を説得するには骨が折れそうだった。
だめだ。
建前じゃ、だめだ。
「分かった。若林くんもカミングアウトしてくれたから、私も本音で話をしましょう」
椅子に座り直し、腕組みして。
私は若林くんを、正面から真っ直ぐ見据える。
「私は。貴重な性癖である若林くんを保護したい」
「なんて?」
裏返りそうな声をあげた若林くんをよそに。
私は至って真顔で頷いてみせる。
「私にとって、若林くんは大変に尊みの深い、性癖の権化なんです」
「えっちょっとマジで何言ってるか分かんないんだけど」
「え、語る? いかに若林紅太という存在が、私の性癖へ見事なまでにクリーンヒットしているか、その性癖の素晴らしさと共に事細かに語る?」
「ごめんやっぱ聞きたくねぇわ」
彼のドン引きしている気配がひしひしと漂う。
でも私は止めないぞ。最終的に断られたとしても、ここまで来たら引き下がらずにぶちかましたるぞ。
だって君、あまりに自分に無頓着が過ぎる。
「けどこのままだと、私の尊みの権化は脅かされ続ける状況にあるわけですよ。
よく考えてみてほしいんだけど。入学して、まだ一ヶ月だよ? それで私みたいな変態にかぎつかれる有様だよ?
なのに血が足りない状態で生活し続けて、ボロが出ないって思う方がおかしいでしょ。万一のことがあったらどうするんですか。健康的にも社会的にも、危なっかしくてしょうがないんだけど。
きっと、いずれまた誰かにバレる。そいつが私みたいに適当な奴だとは限らないでしょ」
若林くんに話す隙を与えぬまま、私はテーブルに拳をぶつけた。
「だけど! ここに! 事情を知ってて血を提供してもいいって奴が要るのに!
何故、君は利用しないのか!!!
別にね、やましい気持ちがあるわけじゃないんですよ。いやそもそも性癖云々言ってるのがやましいと言われたらなんも言えないんだけど、ただただ純粋に貴重で尊い存在を、迫り来る魔の手から保護したいという、単純で、シンプルな欲望なんです。
そりゃね、病弱で弱々しい様もそれはそれで尊いけど、どうせなら頬には薔薇色の赤みを湛えてもらって、健康に過ごして欲しいと思うじゃないですか!
つまり私は、推しである若林くんの社会的立場と健やかな未来を守りたいの。分かる?」
「言ってることは分かるけど、何言ってるのか全然分かんねぇ……」
ドン引きを通り越し、むしろ圧倒されたようすで呆然と若林くんは答えた。
大丈夫、その反応は想定の範囲内だ!
むしろ塩をぶつけて逃げられなくてよかったと思っている!!!
呼吸を整え、私は話を戻す。
「と、いうわけで。個人的な事情含め、私は協力したいなと、おこがましくも思ってるんですよ。
私は、推しの健康と社会的平穏が守れて嬉しい。
若林くんは、定期的に血を摂取できて安泰。
実にwin-winでしょ。
さすがに毎日って言われると困るけど。週に一回くらいなら、やぶさかではない」
「寛容すぎるよ。自分が何言ってるか分かってるの?」
若林くんは指で下の口を広げて、自分の歯を見せた。
中から尖った犬歯がのぞく。けれどもその歯は、私と比べて、とりたてて鋭いわけではない。
「言っておくけど。僕は……俺は、テンプレな吸血鬼みたいに牙がある訳じゃない。血をもらうときは、普通に皮膚を切って血を出してもらうんだ。だからカッターを持ち歩いてる。
傷は治せるけど、傷を作るときには、やっぱり痛いと思う」
「だよね。分かってるよ」
痛いのは、そりゃあ、全力ウェルカムというわけじゃないですけど。
「平気平気。痛めつけられるのは嫌だけど、そこまでじゃないだろうし。むしろ注射とか興奮するし」
「何言ってるの?」
「何を言ってるんでしょう!」
危うくまた変態度が上がってしまうところだった。
遅いか。
「じゃあ、もう率直に、シンプルに答えて。
若林くんは、身内以外からの血が欲しい?」
少しの間、若林くんは迷うように目を細め、口を閉ざして。
けれどもやがて、伏せていたその長い睫毛をゆるゆると上げた。
「欲しい」
「なら、決まりだね」
「本当に、いいの」
「いいよ。あ、でも体調によっては、延期をお願いする日とかはあるかもしれないけど」
「それは分かってる。そういうことじゃないんだ。
僕は、こんなんでも、腐っても吸血鬼の末裔だ」
私の手首を掴んで、彼は私の顔を覗き込んだ。
「一度、味をしめてしまったら。
そう簡単に手放したりなんか、できないよ?」
味をしめることなんか、あるんだろうか。
めっちゃ、うるさい血ですけど。
むしろ辟易するかもしれないですけど。
「こんなんでよければ、どうぞ」
味に多少の不満はあるかもしれないけど、まあ。
腐っても、人間の血ではあるのだし。
私は、君という性癖に、どうか健やかに過ごしてもらいたいんだ。
「ありがとう」
私の答えを聞くと、そう言って。
彼は、ふわりと笑った。
何度か。
彼が笑う姿は、見たことがあるはずだった。
けれどもそれは、まだ本当に全開な笑顔じゃなかったんだと思い知る。
この世のあらゆる祝福を一身に受けたかのような、彼の笑顔は。
花がほころぶ、というより。強制的に周りの花を全て咲かせてしまうんじゃないかと思うような、そんな破壊力のある笑顔だった。
窓から差し込む太陽の光よりも。
ずっと、眩い。
同じサークル内で、笑顔の貴公子なんて呼ばれている人物のものより。
ずっとずっと、私を魅了してやまなかった。
その笑みに。
私は囚われたように釘付けになり、目が離せない。
君は!
月っぽいキャラだと思ってたけど!!
笑うと今度は太陽になるというのか!!!
なんだそれ!
ずるいぞ!!
属性過多だぞ!!!
「これからよろしくね。僕の被血者さん」
まだ笑顔の衝撃が引かぬままでいる私のところへ、若林くんは身を乗り出し。
耳元で、そう囁いた。
近い。
近い近い近い近い近い!!!
近いついでに昨日の出来事を思いだし、ぞくりと鳥肌を立てた。だめだ詳細を思い出してはいけない悶絶してしまう。
精神崩壊を防ぐため、私は本で顔をガードしながら尋ねる。
「お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「いつも、こんな距離感なの?」
その質問に、彼は私の手にした本を掴み。
隠れようとしていた私を彼の眼前に引きずり出してから、悪戯っぽく言う。
「心配しなくても。急に噛みついたり、血を吸ったりはしないから、大丈夫だよ」
そして彼はまた、満面の笑みを浮かべてみせた。
この男は。
血よりも先に、精魂を搾り取って、私を殺す気なのかもしれない。
こうして、私は。
吸血鬼の末裔、若林紅太の
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