第二章:日向と日影が交わるとき 5
「……電源切っちゃったよ。まったく、どうするかなあ」
刑事課のオフィスで、端末から弓鶴に連絡を掛けていたブリジットがぼやいた。ASUにおいて、命令違反は即死罪だ。高位魔導師は見方を変えれば大量破壊兵器である。裏切れば何が起きるか分からないから、命令違反は厳格に対処されるのだ。
つまりこの場合、弓鶴を即刻殺す必要がある。
だが、当の命令主であるブリジットは暢気に首を回してストレッチをしていた。その様子を見ていたラファエルが呆れたように言った。
「ブリジット、わざと焚きつけましたね?」
んー、とブリジットがラファエルへ首だけ向けると、にやりと笑った。
「そりゃもう、当然」
「普通に行かせれば良かったのに……」
「一応上司の面目は保たないとね。ま、裏から手を回すさ。あの二人は死なすには惜しいからね」
それに、とブリジットが続ける。
「我は部下を死なせないのさ」
いまやオフィスには彼らしか残っていない。既に、オフィスにいた警護課の他班は迎撃に動いているのだ。本来なら、こんな風に暢気に会話をしている暇などない。だが、彼らは魔法使いだ。そして、彼らの任務は安全な場所で匿われている円珠庵の救出だから、こんなにも適当だ。
くつくつとオットーが笑った。
「恰好いいですね。いまの科白を録音して弓鶴さんとアイシアさんに聞かせたいものです」
オットーの科白に、ブリジットがそれは名案だとばかりに飛びついた。
「む、是非そうしてくれ! 我は我の威厳を取り戻したい!」
「そう言っている内は無理です……。ブリジットの威厳は地の底です。大暴落です」ラファエルが蔑んだ視線をブリジットへ注いだ。
「そこまで言う⁉」
頭を抱えたブリジットが嘆く。最近の我の威厳が、とかなんとか呟く彼を置いて、ラファエルとオットーがオフィスを出てエレベータへ向かう。慌てて彼は二人を追いかける。
「伯母上のときに我を見捨てたこともそうだけど、二人とも最近の我の扱い酷くない?」
「いつものブリジットです。扱いに特に変更はありません」
ラファエルの答えにブリジットはなるほど、とひとり納得する。だがすぐに、いやいやいや、と首を振る。
「我、いま代理だけど班長だよ? もうちょっとほら、なんかあるでしょ?」
「ブリジットはブリジットです。残念な男であることに変わりはありません。ついでに言えば女の敵、クソ野郎です」
「我ってクソ野郎なんだ……」
落ち込むブリジットの肩をオットーが優しく手を置いた。
「頑張ってくださいブリジットさん! 私は応援しています!」
ブリジットがオットーに元気づけられたように口元を緩める。残念な男同士の熱い友情だった。必然、ラファエルがそれを砕く。
「オットーはもっとクソ野郎です。一度死んでから出直してください」
ラファエルの発言にオットーも沈んだ。大事な仕事の直前だというのに、男二名が使い物にならなくなった。
ため息をついたラファエルが、ローブの内から端末を取り出し操作、画面上にある画像を表示させる。
「ここにお風呂上りのアイシアの写真があります。頑張ったらこれあげます」
それは、バスタオルで火照った肢体を隠したアイシアの写真だった。いつもは完全に隠している肩や太ももを惜しげもなく晒している。
これは飴だ。並みの男ならば元気になるだろう。いまや数多く存在するアイシアファンならば垂涎ものだ。だが、生憎とブリジットもオットーもアイシアの本性を知っている。
「いらない」
「いりません」
ふたりが同時に吐き捨てた。
ラファエルはそっと端末を仕舞う。この場にいもしないアイシアが少しだけ可哀そうになった。
のろのろと身体を起こしたブリジットが端末でASU本部へ連絡を入れる。オットーはなんだかんだいっても、アイシアの写真が気になるようだ。ラファエルに「もう一度見せてもらえませんか?」と未練がましく迫っている。
さて、とブリジットが場の雰囲気を切り替える。
「そろそろ仕事の時間だ。行くぞ」
彼らは一度仕事モードに切り替えると行動が早い。即座に歩みを走りに変えた三人はエレベータへ搭乗、飛行場まで上がり、AWSで天王洲へ向かった。
◇◆◇
赤坂にあるISIA日本事務局関東支部ビル前は、完全に一般人が捌けていた。ASUの秘跡魔導師が、神の畏れをこの世に降ろす《秩序体系》によって人払いをしたのだ。通常、都市部での《秩序体系》の使用は重罪だ。なぜなら、その間の経済活動の一切が止まるからだ。だが、今回は特例として日本政府からの使用許可が認められた。つまり、説話魔導師の行動は、国レベルで脅威と捉えられているのだ。これは昨年のアーキ事件で首都壊滅危機寸前に陥ったことによる恐怖が根源にある。
一般人は、そして国家は、もう既に犯罪魔導師に言いしれない恐怖を感じているというなによりの証拠であった。
人通りはおろか、車通りすら完全に失せた静寂が支配する空間には、深紅のローブが目立つASU警備部魔導師らと、黒いローブに身を包んだ説話魔導師の集団が対峙していた。警備部魔導師側の先頭には、あのランベール・ディディエが代表として立っていた。アーキ事件では失敗をした彼だが、それでも第八階梯の数少ない高位魔導師だ。関東支部に在籍する魔導師の中では一番の実力者だったため、現場責任者として表に立たされているのだ。
「さて、説話の諸君。こたびは何しに来たのかね? 魔法転移は禁止されているはずなのだが、説明を求めようか」
ランベールの問いに答えたのは、いまや説話魔導師側に立つ元ASU魔法開発部のニコラ・ロワイエだった。彼もまた、ランベールと同じ第八階梯の高位魔導師だ。歳の頃は四十代半ばで線の細い体つき。右目にはモノクルを付け、説話体系が好んで着る黒いローブを羽織っていた。いかにも古い魔法使いだった。
「我ら説話はASUに弓を引く。こたびはその先駆け」
「相変わらず説話は愚かだな。勝てぬと分かっていてなお戦いを挑むか。過去の経験を忘れたのかね?」
ランベールらは笑った。ニコラを舐めているのだ。前線に来た魔法使いが、最も警戒していたフェリクスやそれに次ぐエルヴィンやカスパールではなく、一番弱いと睨んでいたニコラだったからだ。元を含め前者三人は警備部だ。対してニコラは魔法開発部だから、戦闘に不慣れだと踏んでいるのだ。
「生きて屈辱を重ねる限り、我々は何度でも繰り返すだろう。フェリクス殿が示す希望の先陣を担えるのならばこの命、いくらでも差し出そう」
「ならば早速差し出してもらおう」ランベールが右腕を上げる。「ASUへの裏切りの代償は決まっている。死で償うがいい」
ランベールが腕を振り下ろす。瞬間、彼の背後から幾重もの魔法が説話魔導師の集団へ斉射された。片道二車線の道路を二十メートルに渡って軽々と抉った。黒煙とコンクリート片が宙を舞う。
説話魔導師らを包んでいた黒煙が一気に晴れる。彼らは無傷だった。ローブに煤ひとつすら付いていない。ランベールの瞳に怪訝が宿る。よく見れば、説話魔導師ら一人一人の姿が揺らめいて見えた。そして、いつの間に現れたのか、目に映るほどの濃密な大気を従えた中性的な妖精が宙に浮いていた。
「フェリクス殿のエアリアルだ!」
ASU魔導師の一人が叫んだ。
エアリアルとは、中世ヨーロッパの伝承上に存在する大気の精霊だ。有名どころであれば、シェークスピアの《テンペスト》に登場する。つまり、説話体系の魔導書位階に照らせばA級魔導書から出現した幻想だ。
説話魔導師ニコラが無表情に告げる。
「我らにはエアリアル様の加護がある。なまなかな魔法では殺せぬと知れ」
ニコラの傍に浮きだした書物から燐光が溢れ出す。説話魔法が発動する前兆だ。ASU魔導師は即座に第二射へ移っていた。しかし、すべてが妖精エアリアルの風の結界に阻まれる。ただひとつの幻想が、ASU警備部の魔法斉射を防いでいるのだ。ASU魔導師にとっては悪夢だった。
「浮遊都市への扉。我らが貰い受ける。悔い改めよ」
ニコラの魔導書が産声を上げた。現れたのは危険の匂いしかしない黒い濃霧だ。霧の中に一際濃い影が浮かび上がる。影がどんどん濃密になっていき、腕と足らしきものが生えていく。頭部と思わしき部分には二本の角が伸びていた。閉じられたまぶたが開き、血色の眼光が鈍い輝きを湛えた。
悪魔だ。
全長二メートルを超す悪魔が右手を伸ばす。その手には黒い霧でできたマスケット銃が握られていた。
その間、ASU警備部は何もやっていなかったわけではない。魔法を斉射し続けていた。だが、エアリアルが展開した結界を突破できないのだ。超高位魔導師の幻想の力はそれほどに強い。
「森と岩がどよめき我々を包み込むとき、杯は自由と喜びに鳴り響くのだ!」
ニコラが歌うように叫ぶ。
「魔法防御展開! 引け!」
ランベールが焦燥の孕む号令をかける。各人がそれぞれ魔法防御、もしくはAWSを使用しての撤退を試みた。ランベール自身もAWSでの離脱を実施。
悪魔が撃鉄を鳴らし、引き金を絞った。発射された弾丸は一発。
最初に犠牲になったのは、前方に魔法防御を展開していたASU魔導師だ。弾丸は、まるで意思を持っているかのように魔法防御壁を迂回すると、魔法使いの側頭部に突き刺さった。銃弾の直撃を受けた魔法使いは目を剥いて倒れる。頭蓋からは血の一滴も漏れていない。物理的衝撃を伴わない魔法的衝撃で、強制的に気絶状態にさせられたのだ。
そして、倒れた魔法使いを撃ち抜いた弾丸は止まることを知らなかった。次に狙われた魔法使いも魔法防御を展開していた。意思を持った弾丸が防御壁を避けて魔法使いを撃ち抜く。二人目の気絶。
三人目、四人目、五人目と次々に魔弾に撃ち抜かれていく。
そこで、ようやくASU魔導師達は単純な魔法防壁では意味がないことに気づいた。
弾丸の正体は、まさしく魔弾だ。ニコラが呼び出したのは、かの有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲したオペラ、《魔弾の射手》に登場する悪魔ザミエルだ。
A級魔導書から呼び出された幻想は、極大魔法に勝るとも劣らぬ力を持つ。説話魔導師がASU警備部で重宝される理由がこれだ。高位の魔導書を扱うものほど、単純な火力や物量はもちろん、現実の魔法ですら再現が難しい、物語に登場する摩訶不思議な現象を扱うことができるからだ。
そして、他の魔導書と組み合わせることで、本来ひとつの書物だけでは引き起こせない現象すら具現する。殺さず強制的に気絶させるこの魔弾がいい例だ。
つまり、ニコラはわざわざ一手間踏んでまで殺傷武器を非殺傷武器へ変化させたのだ。でなければ、いまの魔弾だけで既に五人は死んでいる。
すぐさま理解したランベールの目に憤怒が宿る。敵対者に手加減されることは、魔法使いにとってプライドをひどく傷つけられているも同然だ。当然頭に血が上る。
「我らASUを舐めるか説話!」
ランベールが頭上に光を球形状に展開させる。それは、精霊魔法が《電磁結合》によって生み出された、荷電粒子を亜光速にまで加速した奇跡の光。あらゆる物質をことごとく破壊する荷電粒子砲が、いま放たれる。
その一撃は、幻想すら砕くと思われた。
だが、どんな魔法も発動しなければ意味などない。
突然、笛が鳴った。なんの変哲もないただの笛の音だ。それだけでランベールの魔法が突如消失した。あり得ない、と彼が目を剥く。
ニコラの周囲に浮かぶ書は、遂に三冊目となっていた。
説話魔導師において、一冊の本だけを運用するのが常識だ。二冊で高位魔導師。三冊以上ともなれば超高位魔導師に匹敵する。第八階梯の身でありながら三冊も開いているのは、魔法開発部に在籍し、高度魔法を研究し続けた精緻な魔法運用技術の結晶だった。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの傑作、《魔笛》から呼び出された魔法の笛は、夜の女王がタミーノへ渡した“都合よく物事を進める”魔法の道具だ。
そんな馬鹿なと思うなかれ。荒唐無稽な現象を引き出すことこそが説話魔法の神髄である。そして、読み手の解釈次第でどんな内容にでも変化する。説話魔法は、その不可思議さゆえに民間では扱いきれず、それでも戦闘では圧倒的な力を持つ魔法体系だ。
それを今、ランベールらASU魔導師は体験しているのだ。
ニコラの手には銀の鈴。《魔笛》においてパパゲーノに渡された鈴だ。彼が鈴をふる。ちりんちりん、と銀の響き。
その音がASU魔導師全員の聴覚を刺激したとき、彼らは動きを止めて突然踊り出した。いきなりASU魔導師によるショーが始まったのだ。AWSを駆使して回転するものまで出る始末だ。しかも、踊り方が陳腐すぎて見るに堪えない有様だった。
はたからみればまったく意味が分からないだろう。当人たちですらなぜ踊っているのかすら理解していないはずだ。
《魔笛》は荒唐無稽なオペラである。起こる事象に理などない。そして、説話魔導師は、そんな無茶苦茶な事象すら現実に具現する。世の理など笑って蹴とばし、物語の世界へと観客を誘うのだ。
理不尽の体現者。物語の主。敵に回すにこれほど厄介な相手などおるまい。
説話魔導師の一人が書を開こうとする。その動きをニコラが制した。
「我らは無用な殺生はせぬ。血を流すのはもう十分だ」
「ですが……!」
「ならん! 我らは律さなければならぬ。我らが耐え忍んだ怒り、向ける矛先は《二十四法院》でいいだろう。これ以上、この極東の地を不安定にしてはならぬ」
ニコラは魔法開発部、つまりは技術畑出身だ。なによりも魔法での争いを嫌う。今回の件とて、フェリクスが先導しなければ彼は傍観に徹しただろう。
ASU時代、犯罪魔導師と対峙し、その中にいる同胞らすら斬って棄てねばならなかったフェリクスが立ち上がったのだ。同じ同胞であるニコラも立ち上がらないわけにはいかなかった。それでも、やはり無用な殺生を嫌う。残忍な物語は書の中だけで十分だった。だからこそ敢えて危険な前線に立ったのだ。
命を賭して革命を成し、命を賭して敵の命すら守る。これがいまのニコラの信条だった。魔法使いの常識に照らせば、あまりにも甘く現実味を欠いた選択だ。常識を持つ一般人ですら同じ思いを浮かべるであろう。
当然反発する者も出てくると思われた。だが、予想に反して説話魔導師らは何も言わなかった。ニコラも尊敬を集める魔法使いだからだ。
ニコラはひとつ頷いて前を向いた。
ASU魔導師は当然、いまも踊り続ける魔法使い達だけではない。世界中の支部に散っているのだ。ここを突破されればASU本部へ直接乗り込めると分かっている以上、日本事務局関東支部に世界中から続々と集まってくるだろう。
ここは、世界中の魔法使いが集う戦場となる。日本の首都である東京がだ。
「許せよ日本人。しかしてこれも我らが悲願。説話の世界にて再び……」
重い言葉を紡ぎながら、説話魔導師らを引き連れニコラが歩む。
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