或るトン走、対して先取特権。
民法第三百三条 (先取特権の内容)
先取特権者は、この法律その他の法律の規定に従い、その債務者の財産について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利を有する。
民法第三百六条 (一般の先取特権)
次に掲げる原因によって生じた債権を有する者は、債務者の総財産について先取特権を有する。
一 共益の費用
二 雇用関係
三 葬式の費用
四 日用品の供給
短曾我部傑夫が勤める町工場が潰れた。先月の給料は、三日遅れた。短曾我部は、もしかしてまずいのかと思っていた。だが、気にしてはいなかった。実質十二時間の勤務を週に六日続ける短曾我部に、余計なことを気にする暇はなかったからだ。短曾我部が倒産らしき事態を知ったのは、月曜の朝に出勤したからだ。貼紙にはこうあった。
「弊社は破産を申し立てました。以後のご連絡は、弁護士宛にお願いします。次枝鉄工所」
と。弁護士の番号に電話しても、話中だ。無理もない。数知れぬ債権者たちも連絡しているからだ。短曾我部は、電話を諦め、座り込んだ。そのうち、先に着いて様子を見ていた西大寺谷と八百旗頭がやってきた。西大寺谷は短曾我部の先輩で、八百旗頭は更に先輩である。
「おい短曾我部、やばいな。」
語彙が少ない西大寺谷の挨拶は、そんなものだった。八百旗頭は、挨拶もせず工場を見ている。
「西大寺谷さん八百旗頭さん、どうなってるんですか!」
「そんなこと俺が知るか。なあ西大寺谷。」
「八百旗頭はんも俺も知らねーよ。」
確かに、工場全体のことは、社長しか知らない。仕入れの具合も納品先も、従業員には知らされていなかったのだ。社長は、仕入れの注文と納品を、自身と息子でやっていた。どちらかが工場になるべく居るようにして、雇った従業員には何も知らせずに済ませていたのだ。従業員たちも、面倒なことを考えず、ただ作業に没頭できた。だから、誰も不満に思わなかった。
「先輩、でも、これじゃメシ食えませんよ。本当はそろそろ給料日なのに。」
「おう、そうやな。」
「でも、どないする?」
三人に、合理的な思考など身に着いていない。だから、素っ頓狂な発想が出てくる。
「よし八百旗頭、短曾我部、社長を見つけて締めたろ!」
「それがええ、行くぞ。俺の車や。」
「え…はい…」
八百旗頭は自家用車で出勤してきていた。バイクの西大寺谷と自転車の短曾我部を乗せるという寸法である。社長の自宅は、従業員なら知っていた。新年会に毎年呼ばれるからだ。工場から歩いても十分ほどのところに、一戸建ての自宅がある。そこには、悪趣味なオブジェ各種を飾った客間がある。その隣の、半ば柔道場のようにも見える和室が、新年会の会場だった。短曾我部たちは、社長の言うがままに飲まされ、潰れるのが常であった。社長によると、きっちり潰れたら寝るしかない、寝てから起きれば飲酒運転にならないということであった。素直な短曾我部は、それを信じていた。もっとも、短曾我部が新年会に車で行ったことはないのだが。
「ここもすごいな。」
車を停める前に、人だかりが見えて、西大寺谷がつぶやいた。
「停めらんねーよ!」
八百旗頭は切れた。結局、近隣に適当な場所がなく、社長宅からは遠いそのへんの路上に車を置くことになった。
三人が社長宅に歩いて来ると、人だかりが減っていた。そこに今頃初めて着いた取引先らしき人は、自然に声を出した。
「こりゃあかんわ…夜逃げしとるな。」
なるほど、既に管理物件の札が貼られている。もしかすると、登記も第三者に渡っているかも知れない、それならそれで手を打たないと…と考えるのは玄人である。ど素人に過ぎない短曾我部たちは、口を開いた間抜け面で社長宅を眺めるばかりであった。
その数十分後、やることもない短曾我部ら三人は、工場に戻った。意味はない。もしかしていつも通り仕事ができたらという根拠のない希望くらいしか、そこに戻った理由はない。
三人が見たのは、想像もできなかった風景だった。シャッターは、こじ開けられていた。人だかりが一つできていた。そこには金融屋がいた。金融屋は、制服に気付き、笑顔で話しかけてきた。
「社員の方ですね。5%でなら債権を買い取りますよ。」
「はあ?!サイケンてなんや!」
西大寺谷が吼える。八百旗頭も続く。
「俺らにわけわからんこと言うなや!」
金融屋は、笑顔を崩さない。
「申し訳ございません。この会社に請求できるお金を、私がいますぐ買い取って現金にします、ということです。如何ですか?」
「ええで。ありがたいわ。」
八百旗頭は言う。
「でしたらまず、こちらに署名とご捺印をお願いします。」
金融屋は、慌てて作ったにしては細かい字が沢山入った紙切れを出した。
「待てや。」
そこに西大寺谷が口を挟む。
「さっき5%て言うたな?」
「はい。これでも精一杯です。」
「ワシらの給料18万くらいか、5%て、いくらや?」
西大寺谷にはそんな暗算もできない。対して金融屋は冷静である。
「9千円になります。」
「アホンダラ!」
そこに八百旗頭も加勢する。
「奥歯から手ぇ突っ込んでケツの穴ガタガタ言わすぞ!なめとるんか?」
「いえ、一円も取れないよりよほどよろしいかと。」
西大寺谷と八百旗頭の前に、工場内を見てきた短曾我部が戻ってきた。
「先輩、何もありませんよ!」
二人の先輩も、工場に入った。なるほど、何もない。強いて言えば、蛇口や水道管にガス管のような、簡単に取り外せないものは残っている。あと、ごみや汚れはある。その程度である。機械も、事務室の家具も、ない。目ぼしいものに限れば、おそらく夜のうちに、手回しよく運び出されたのだろう。三人が社長宅の前で呆けていた僅かの間に、残っていたものも荒らされていたのだ。
三人が外に出ると、もう金融屋はいなかった。
「西大寺谷ぃ、どないする?」
「八百旗頭はん、ここは組に頼んで…」
「先輩、その、社長の居場所がわからないとシメるも何も…」
自分の主張を否定された西大寺谷は短曾我部を睨んだが、八百旗頭は意味を理解した。
「おう短曾我部、ええことに気付いたな。その通りや。社長、探そ。」
「八百旗頭はん、長旅になりまっせ。準備せな。」
「よし。じゃ、今からお前らを送ってく。1時間あればええな。迎えに行くで。」
妙なところで勘のいい西大寺谷のおかげで、三人は、社長を探す旅に出ることになった。予定はない。先輩格の八百旗頭も、はっきりした指示などしない。短曾我部は、どうしたものかと悩んだ。結局、三日くらいもちそうな着替えと有り金すべてを持って出ることにした。
「でもなあ、社長どこにおるんやろ。」
「西大寺谷ぃ、その甘さがお前のあかんところや。そこにあるもん、見い。」
助手席の西大寺谷が開けた箱の中には、大きさもまちまちな紙に書かれた社長一家と会社に関する多量のメモがあった。
「さすが八百旗頭はん、ようこんだけ…」
「先週はおった社長や、隠れるとしたら、その奈良の親戚ちゃうか。」
八百旗頭のメモは、ほぼ、意味不明な図形と何なのか誰にもわからない文字風味の線、そして文字として読まれ得るが不要な情報から成っていた。だが、奈良の親戚の名前と住所らしきものを読み取るくらいなら、西大寺谷にもできた。
この読みは、さほど間違ったものではない。財産を喪った社長が妻子を連れて逃げるなら、最初の選択肢は土地に余裕のある親戚のところになるだろう。世間の相場も、だいたいそんなものだ。しかし、もし社長が妻子と別に逃げていたら。あるいは、何らかの交渉に向かっていたら。もしくは、隠した財産で何とかしていたら。三人は、そんなことも考えず、八百旗頭の憶測に乗った。もっとも短曾我部は、後部座席で震えているだけだったのだが。
「俺はな、独立するつもりなんや。やから、ヒマなとき、いろいろメモしとったんや。」
八百旗頭は、誰も訊いていないことを得々と語り始めた。
「やからな、いろんな住所とかもわかるわけや。」
短曾我部は驚いていた。言われた仕事を真面目にこなすこともおぼつかない自分と比べて、八百旗頭のなんと優れたことか、と。
「組の人も言うとったで、ゆするとき、そういうモンが役に立つて。なあ、西大寺谷ぃ。」
そんなこんなで、車は、メモにある住所の稲可郡辺吉町の近くに来つつあった。
「どっちやねん!」
「なんも出てませんわ。」
「しゃあない。ちょっと調べるぞ。」
辺吉と書かれた標識は、なかった。なぜか。二度の合併よりも前の古い住所だったからだ。車が着いたのは、辺吉町抜きで合併した稲可市のあたりだった。これではどうにもならない。しかも、八百旗頭の車にはナヴィゲイターも地図も備わっていなかった。知った道を走るだけの八百旗頭にとって、無駄だったからだ。車は、国道沿いのコンビニに入った。
先陣を切った西大寺谷は、地図を手に取った。そして、メモの住所を探した。ない。当たり前である。そして西大寺谷は、地図をレジに持って行き、訊ねた。
「おうおう、この地図不良品や、コレがどこか載っとらんぞ!」
バイトの店員は驚き、非常ボタンを押すかどうか迷った。しかし、身動きをとることができなかった。だが、声か叫びか物音かも伝わらないような店員の声帯の震え具合は、裏で見られていた。十秒ほどの間をおいて、店長らしき人物が表に出てきた。どうやら、他の店員に、いざというときの通報を頼んでいたようだ。
「お客様、如何なさいましたでしょうか?」
「地図が使えんのじゃ!」
店長は、住所を一瞥した。
「これは古いご住所ですね。今は合併して辺峡市になっていますよ。」
「お、おう、そうか。」
西大寺谷の声は小さくなっていった。そして西大寺谷は、今度も先陣を切って外に出た。
「あっ、お客様…」
何も買わずに出て行く三人を、店員たちは追わなかった。短曾我部は、軽く頭を下げて先輩たちを追った。
「やはりそういうことか…」
西大寺谷は、さもすべてを知っていたかのように口走った。これはさすがに無視された。
今度こそ現地である。車は、ろくに地図を覚えていない西大寺谷のお陰で迷いまくりながら、辺吉町改め辺峡市の佐祇地区に入った。ここで三人は気付いた。番地がわかっても、現地に手がかりがないのだ。どこにも住居表示の掲示がない。表札すらもあったりなかったりする。
「こりゃ困ったな。」
八百旗頭のつぶやきを聞いた西大寺谷は窓を開け、通りすがりの中学生をつかまえた。
「おう少年、このへんに次枝ゆう家てないか?」
少年は、やけに冷静だった。
「うちも次枝です。」
「なんやて!」
「このへん、みんな次枝なんですが…」
三人は顔を見合わせた。
「あっ、それなら、これ…」
短曾我部は、荷物に入っていた集合写真を取り出した。狙って持って来た訳ではない。社長と話を合わせるために仕事道具に入れていただけである。社長は、新年会のゲストの話を時々した。覚えが悪い短曾我部は、その度に写真を見るようにしていたのだ。少年はその写真を見た。そして言い放った。
「知らない人です。」
万事休す。そこに、車と少年の接触をいぶかしんだ村人が数人やって来た。すわ誘拐かとでも思ったのだろう。身構えた村人たちは、少しずつ距離を詰めてきた。野良仕事帰りなのか、鍬や鋤を持つ者もいた。そういう者は、柄を握っていた。だが、曲りなりにも用事があることが伝われば、誤解は解けた。西大寺谷は、短曾我部の写真を見せて訊ねた。村人の一人が気付いた。
「ああ、あっちの奥のタっちゃんか、これ。」
このとき八百旗頭が一つ仕事をした。西大寺谷と短曾我部に、二人とも道順を覚えろと言い含めたのだ。なるほど、出鱈目なナヴィに従うのは大変である。だが、それならもっと早く調べておけばよいことには、誰も気付いていなかった。
社長の実家は、程なく見つかった。三人が戸を叩くと、老婆が出てきた。先頭に立ったのはまたもや西大寺谷だったが、さすがにあの調子だと出るものも出てこないと思ってか、八百旗頭が制止して前へ出た。
「次枝鉄工所の者なんやけど…」
「ああ、タツの会社の…」
「ええ。困っているんですよ。急にいなくなって。こちらにいないかと思ってですね。」
「おりません。」
老婆は何度も軽く頭を下げる。玄人が見れば、むしろ怪しいと思うだろう。だが、三人は素人である。できるのは、押し問答だけであった。
「本当におらんの?」
何度目かのそんな言葉が響く頃に、別の老人が紙切れを持って出てきた。
「あいつはおらん。ここにおる。すまんな。」
この老人は深く頭を下げた。そして、顔を上げて付け加えた。
「わしゃあいつをスジだけは通すように育てたつもりや。通させたってくれ。」
実直そうな老人の言葉である。平均的一般人なら、何となく信用するだろう。だが八百旗頭と西大寺谷は違った。脅されて負けた者が媚びているように見ているのだ。もっとも、結論は変わらないのだが。
手持ち無沙汰な短曾我部は、紙を覗き込んでその住所を検索した。そして地図を出した。
「ここですね?」
老人は答えた。
「行ったこともないのに、知らん。コンピューターがそう言うんやったらそこやろ。嫁の実家や。」
八百旗頭がわかったと言うのを合図に、短曾我部だけが頭を下げて、三人は車に戻った。
「どこやそこ。」
「青森県ってなってます。」
「遠いな。」
既に夕刻である。全力で走っても、着くのは翌朝である。しかも、地図が示す場所は、高速道路から遠い。仮にすぐさま現地へ向かうことがすべてに優先されるとしても、一般的には悩むところだろう。利用可能な手段を含めて。ところが、八百旗頭の判断は単純だった。
「よしゃ、行けるとこまで行く。車ん中で寝る。出すで。」
八百旗頭は、自家用車以外の移動手段を知らない。そこで車は、迷わず名阪国道を目指した。近くを通っていて、高速料金をケチれそうだからだ。
しばらく経って、次枝邸から老い始めた雰囲気の男が出てきた。社長である。
「まったく、大変なことになったもんだな。」
老人二人が横に立った。
「まあ、しゃあない。」
「あんなことになってはねえ。」
「ああ…」
「しかしタツ、あいつら、あれでいいのか?」
「どうせあいつらにゃ何もできないんだ、夢でも見させてやるしかありまへんわ。」
会社の資金を、社長の妻が使い込んでいた。現金を流用するだけならまだしも、担保に差し出す等のやりたい放題をやっていた。あまつさえ、浮気相手に貢いでもいた。離婚には合意できたが、条件が折り合わなかった。妻にできる賠償など知れているからである。その他諸々の事情もあって、社長は事業の継続を諦めていた。しかし、握れる現金はきっちり残していた。騒ぎが収まれば、それなりのことをするつもりだった。それなのに、不可解な手口でゆすりに来られては、たまらない。社長は、離婚見込みの妻のところに不良従業員を届けたのであった。
なお、社長は、会社の倒産についても法的手続を進めている。いずれ破産が確定し、社長も続くことだろう。それでも、隠しておいた現金がまだある。たかが町工場といえど社長である。下準備に手抜かりはなかった。ただ、金融業者の描いた絵の裏を見抜いていないことを除いて。もっとも、それは、別のお話である。
対して三人は、法など知らない。だから、先取特権を行使すればなんとかなりそうだなどとは考えられなかった。もし考えていたなら、最初に向かうべきは法務局だった。取れる財産が残っているかどうかを知るには、そうすべきだったのだ。そして今、三人が追わされている社長の妻は、会社とは無関係である。それ故、法的には何の責任も追及できない。
翌日の夜、三人は青森に着いた。そして社長の妻を捜した。不用意にも自ら顔を出した妻は、驚いた。しかし、夫は実際にいないし、金は出せないと言い切った。何も知らない三人と、それなりに裏道を歩いてきた社長の妻では、役者が違った。ふざけるな等と罵声混じりで問い詰め迫る西大寺谷と八百旗頭は、ついに警察を呼ばれ、短曾我部共々恐喝の嫌疑で連行された。警察官は、関西弁から彼らが暴力団員だと疑い、詰り続けた。だが、事情が明らかになるにつれ、同情的にはなった。結局、周囲の働きかけで社長の妻が被害届を取り下げる形で片が付くまでには、およそ三日を要した。
車は新潟県の海岸に着いた。高い高速料金を忌避して一般道を走って。成果のない大旅行の支出は、給料が出ない三人に重くのしかかる。まず西大寺谷が、次いで八百旗頭が、手持ちの現金を喪った。たかられた短曾我部も、そろそろ危ない。ガソリンが足りるのかどうかは、まだわからない。
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