第227話 謝罪

 白く、清潔感のある病院の廊下で一人佇む影。

 一室の扉の前で、姫乃は黙ったまま突っ立っていた。

 意を決したかのように扉のドアノブに手を伸ばすが、すぐに何かを思い、その手を引っ込める。

 そんなことを、さっきから何度も繰り返していた。

 端から見ればただの不審者である。

 自分でもそんなことは理解しているが、どうにも踏ん切りがつかない。

 それでも行かない訳にはいかないと、本日九回目となる決意を固め、ドアノブに手を伸ばした。


「あれ? 姫乃ちゃん?」


「ひゃあっ!?」


 意を決したところに、背後から声を掛けられ姫乃は大きな声を出す。

 静かな病院の廊下にそぐわぬ大声に、周りの人の視線が姫乃に集まる。

 予期せぬ居心地の悪さに、姫乃は顔を赤くし縮こまった。


「あー……驚かせちゃってごめん。部屋の前に知った顔があったからさ」


「い……いえ……」


 手すりを伝いながら、新妻は申し訳なさそうにヒョコヒョコ歩み寄ってくる。

 おぼつかない足取りに、まだ完全に傷が癒えていないことがわかる。

 そんな新妻の姿に、姫乃は唇を噛んで目を逸らした。


「何か俺に用かい?」


「えっと……」


「あ、ここじゃなんだしとりあえず中に入りなよ。」


 姫乃は促されるまま、新妻の病室に通される。

 病室は個室で、ベッドが一台に十分な広さの談話スペースがある特別用の部屋だった。


「ま、ソファーにでも座ってよ。コーヒーでも入れるから」


「あ……私がします。新妻さんは休んでてください」


「いやいや、折角来てくれたお客さんにそんなことさせる訳にはいかないよ。いいから座ってて」


「私だって怪我人にお茶を入れさせるほど馬鹿じゃありません。お願いだから体を休めてください」


「しかし……」


「お願いですから……私にさせてください」


 コーヒーを入れようとしていた新妻の腕を掴み、姫乃はジッと新妻を見つめる。

 その有無を言わんさぬ視線に、新妻は溜息をつくと手にしていたコーヒー粉末の袋を姫乃に渡した。


「わかった。道具やカップは戸棚の中に入ってるから」


「はい。わかりました」


 新妻からコーヒー粉末の袋を受け取ると、姫乃は慣れた手つきでコーヒーの準備を始める。

 新妻はそれをしばらく見守ってから、先にソファーに腰かけた。


「よかった……顔が見れてちょっとだけ安心したよ」


「え……?」


 電気ケトルからドリッパーにお湯を注いでいた姫乃の手が止まる。

 視線を新妻の方に向けると、新妻は嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「いや、あれから紅神家はかなりゴタゴタが続いているって聞いてたからさ。まあ、現当主が寝たきりになったんじゃ無理もないけど。姫乃ちゃんもその事後処理や対応に忙しいって聞いたからね。今は当主代行をしてるんだっけ?」


「はい……他に出来る者がいませんから……」


「忙しいみたいだね代行の仕事……学校にも行けてないらしいじゃないか」


「今日、休学届を出してきました。しばらくは代行の仕事に専念できます」


「そっか……まあ無理はしないようにね。体を壊しちゃ、元も子もないから」


「わかってます。今は私にしかできませんから、倒れるわけにはいきません」


「…………」


「お待たせしました」


 姫乃はお盆にコーヒーを乗せてテーブルに歩み寄る。

 お盆からテーブルにコーヒーを置こうと、ふとテーブルの上を見ると、そこには出しっぱなしになったク

 レヨンといくつもの絵が描かれた画用紙が散乱していた。


「ああ、ごめん。さっきまで女房と娘が来ててさ。すぐ片付けるから、ちょっと待って」


 新妻は慌ててテーブルの上を片付け始める。

 片付けるその手の中からこぼれた一枚の画用紙を、姫乃は手に取った。

 幼い手で一生懸命描いたのだろう。

 所々はみ出し、意図せずついた汚れで何を描いたのか判然としないが、それでも怪我をした父を思い、心を込めて描いたことは十分伝わる。

 その絵を見ているうちに、姫乃の目から自然と涙がこぼれ落ちていた。

 危うく、自分はとんでもないことをしでかそうとしていたのだと、改めて思い知らされる。

 この絵を描いた幼い子に、一生消えない悲しみを背負わせることになってしまうところだった。

 そう思えば思うほど、姫乃は涙が止まらなかった。


「姫乃ちゃん……」


「ごめっ……な……さいっ…………私……私っ…………!」


「いいんだよ。今日は本当によく来てくれたね。ありがとう。それだけで俺は嬉しいよ」


 新妻は姫乃の頭をずっと撫でていた。

 姫乃が泣き止むまで、ずっと。

 新妻は、姫乃の頭を撫で続けていた。



 ※



「そういえば、姫乃ちゃんにはお礼を言わなきゃなって思ってたんだ」


「へ?」


 ようやく落ち着いた姫乃は、新妻からの思いもしなかった言葉にキョトンとした顔をする。

 赤くなった目を丸くした姿が余程滑稽に映ったのか、新妻は抑え切れずに噴き出した。


「いや、ごめんごめん。でも、お礼を言いたかったのは本当さ。姫乃ちゃんが俺を刺した時……あの時君は俺の急所を外して刺してくれてたんだ」


「私が……急所を?」


「うん。しかも、出来るだけ出血を抑えられるように、大事な血管や臓器を避けてね。だから、俺はこうして助かってるってわけさ」


「そんな……私何も……」


「主治医が驚いてたよ。『貴方は剣の達人にでも刺されたのかい?』ってね。あははははははって痛ててててっ………」


「にっ……新妻さん!?」


「いや…大丈夫大丈夫。ちょっと笑い過ぎただけ。だから、姫乃ちゃんは俺の命の恩人なのさ。操られながらも、俺の命は救ってくれた。本当にありがとう」


「…………」


「姫乃ちゃんは何も悪くないよ。だから、今回のことで姫乃ちゃんが責任を感じる必要はない」


「しかし……」


「刺された本人が言ってるんだ。ね?」


 今度は新妻の方が有無を言わさぬ表情を姫乃に向ける。

 それに対し、姫乃も素直に頷くしかなかった。


「それでよろしい。それに今姫乃ちゃんはこんなおっさんのことばかり気にしてる余裕はないでしょ。お父さんの具合……どうなの?」


 新妻の口から父の事が出て来た途端、姫乃の表情が曇る。

 その表情から、亞咬の容体が芳しくないことが容易に察せられた。


「呼吸はしています。でも、意識はなくベッドで寝たきりの状態です。戦っていたムクロさんから話を聞いても、戦っている最中に急に意識を失って倒れたらしくて。源内先生に聞いても、今後意識が戻るかどうかはわからないらしいです……」


「ふむ……確かに人心を操る術っていうのは、術者を失った場合二つに一つの結果しか起こらない。術が解けて操られている者が正気を取り戻すか、あるいは操られていた者の『心』が壊れて二度と目を覚まさないか……聞いた話によるとかなり強力な術を施されていたらしいじゃないか。そういう術の場合は後者のパターンが多いね」


「はい……それも聞かされました」


「酷な話かもしれないけれど、一生意識が戻らないことだってあり得る。それでも君は……」


「大丈夫です。私は待ち続けます。だって……私は……あの人の娘ですから……」


「そっか……なら、俺は何も言わないよ。何かあったら……いや、なくてもいつでも相談してくれ。必ず力を貸すからさ」


「ありがとうございます。あ……もうこんな時間……ごめんなさい、つい長居をしてしまって……」


「いいよいいよ。入院生活はすこぶる暇だからさ。ま、そんな暇な時間もあと数日したら恋しくなるんだろうけどさ」


「新妻さんこそ無理をなさらないでくださいね。まだ傷は癒えてないんですから」


「わかってるわかってる。それじゃあ、また……ね」


「……はい、失礼します」


 そう言って姫乃がソファーから立ち上がると、突然病室の扉が開く。

 ノックもなく、返事も待たず不躾に開いた扉に、姫乃と新妻二人の視線が向けられた。

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