第194話 父娘の攻防

「はぁっ!!」


 姫乃の繰り出した血糸が、複雑な幾何学模様を描きながら、巨大な網となって仁王立ちする亞咬を包み込もうとする。

 しかし、血糸の網は亞咬の体に引っ掛かりもせず、するりと通り抜けてしまった。

 大の男が通り抜けるどころか、小さな礫でも捉えることができるほどに、網目は細かいはずである。

 なのに、まるで幽霊を相手しているかのような感覚に姫乃は混乱するしかなかった。


(お父様はあれからほとんど動いていない! なのに何故だ!? 何故私の糸が通用しない!?)


「『何故自分の糸で捉えることができない?』といった顔だな」


「くっ…………!」


 心の中を見透かすような亞咬の言葉に、姫乃は悔しげに眉を寄せる。

 姫乃の反応を見て、亞咬は研ぎ澄ました刃のような視線で睨みつけた。


「冷静に相手と状況を観察しろ。それでも『分からない』で済ませるならば、お前は所詮その程度ということだ」


「はっ…………はい!」


 幼い頃の父との訓練を思い出させるような一言に、姫乃の心も体も萎縮しそうになる。

 しかし、それを何とか振り払い、姫乃は繰り出した糸を手元に引き寄せ戻す。

 そして、引き寄せた糸を編み込み束ねると、新たな『形』を紡ぎ始めた。


(お父様ののタネは、まだ分からない。ならば、多様な手段で、攻撃を仕掛けるのみ!)


 姫乃が作り出したのは、一本の巨大な杭だった。

 幾重にも織り込まれ、元が細い糸であることを感じさせないほどの強度を持った杭を、姫乃は力の限り勢いをつけて、亞咬に向かって放つ。

 先ほどまでの、『面』による攻撃ではなく、『点』による一点集中の攻撃。

 巨大な杭の影が、亞咬の全身にかかる。

 しかし、目の前に鋭い杭の切っ先が迫っているにもかかわらず、亞咬は狼狽えることもなく、ポケットに両手を入れたまま平然と対峙する。

 亞咬からすれば、いくら鋭利な刃物を突きつけられようとも、全く脅威ではなかった。

 むしろ、質量と勢いに任せたかのような短絡的な攻撃に、強い落胆と怒りを感じていた。


「助言を受けた上で出した答えがか…………つくづく失望させてくれる」


 亞咬は、迫る杭の切っ先に向かって、人差し指を構える。

 『この程度、人差し指一本だけで十分』と明らかに姫乃を侮った態度である。

 ここまで露骨に表すのも、姫乃に対する失望の顕れだった。

 姫乃もそれには気づいていたが、それでも攻撃を止めない。

 そのまま亞咬に対して、巨大な杭を振り落とした。


「ん…………!?」


 先ほどまで、姫乃を侮っていた亞咬の表情が一変する。

 杭の切っ先が亞咬の指先に触れようとした瞬間、その切っ先が編み物をほどくように解かれ、元の細い血糸に変わる。

 ほどけた血糸は目にも止まらぬ速さで再び巨大な網を作り、亞咬を包もうとする。

 目の前を大量の糸で覆われ、一瞬眉を寄せるが、亞咬は不動のままその網に覆われる。

 網は確かに亞咬を捉えたはずだが、やはり引っ掛かることはなく、亞咬を通り抜け、地面にそのまま広がった。


「………………」


 地面に広がる血糸の網を、亞咬は黙って見つめる。

 その顔は、無表情ながらもあることに気づき、釈然としていないように見えた。


「『わざと隙を作り、相手を誘い出す』…………確かに効果的ですね…………お父様相手でも。おかげでが分かりました」


「ほぅ?」


 微かに笑み浮かべる姫乃に、亞咬が眉を動かす。

 亞咬の反応から、自分の考えが正しいことを姫乃は確信した。


「お父様は私の血糸に触れる際、全身に薄い魔力の膜を張っていた。私がまったく気づかないほどに薄い膜を。その膜が私の血糸の魔力を中和し、お父様に触れるその瞬間だけただの血に戻していた…………それが私の網が通り抜けてしまうです」


「…………よく気づいたな」


「お父様が私を侮り、血の杭だけの単純な攻撃をしてきたと判断してくれたおかげです。そのおかげで私の奇襲に一瞬反応が遅れて、膜を張る時に僅かな魔力の淀みが見られました」


 勿論、亞咬だからこそできる繊細で巧みな魔力操作である。

 その僅かな淀みがなければ、姫乃は気づくことができなかっただろう。

 自分が亞咬より遥かに劣るからこそ、気づくチャンスを得ることができたのは皮肉であった。


「一杯喰わされたわけだな…………確かにヒントは与えたが、こうも早く気づくとは…………私も少しお前を甘く見過ぎていたようだ」


 少し感心したように、亞咬は軽く自分の顎髭を擦る。

 血糸を手元に手繰り寄せた姫乃は、改めて構えをとって亞咬に向き直った。


「タネが分かれば、もう同じ手は喰わない。まだまだこれからです、お父様」


「………………」


 尚も食い下がる娘を前に、亞咬は何も返さない。

 構えを取る娘を、ただ黙って見つめていた。

 その胸中に何を思うのかは、亞咬以外誰にも分からない。

 しかし、亞咬の目には、今の姫乃の姿に、幼い頃の姫乃の姿がダブって見えていた。

 正確には、五年前の姫乃の姿だ。

 『暁の臣下になりたい』と初めて自らの意志を示したあの時の…………。

 亞咬はそんな懐古を振り払うように、再び鋭い視線を姫乃に向ける。

 その視線に対し、姫乃はさらに構えを深くした。


「とりあえず、私の仕掛けた謎を解いたことは誉めてやろう。その褒美に、もう一つ教えてやる」


「?」


「私は今初めて、お前に攻撃を加えた」


「えっ…………!?」


「そしてそれは、


 亞咬の言葉に、姫乃は驚きで声を出そうとする。

 しかし、声が出ない。

 出そうとしても、出すことができない。

 姫乃は、その時ようやく父の攻撃の正体に気がついた。

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