第87話 凶獣
暦は客間に敷かせた布団に暁を寝かせると、毛布を体にかけた。
普段は変に大人びたところがある暁も、こうやってあどけない寝顔を見ていると普通の子どもに見えてくる。
しかし、そんな子どもに我が娘は助けられているのだ。
そう考えると、暦は母として申し訳ないような気持ちになるのだった。
そんなことを考えながら、暦はふと、壁にかけられた振り子時計を見る。
時刻は既に午後七時を過ぎていた。
暁の母は外せない用事があるから遅くなると言っていた。
もしかしたら、今晩は迎えに来れないかもしれない。
そんなことを考えながら、暦は客間の電気を消して、部屋を後にする。
暁もお腹が空けば、目覚めてくるかもしれない。
いつ暁が起きても大丈夫なように、何か用意させておこうと、暦が台所に向かおうとした時だった。
「?」
板張りの廊下も、鏡のように磨かれた窓ガラスも僅かに揺れている。
最初は気のせいかと思った。
しかし、すぐに感じた魔力の気配に、暦はそれが気のせいではないことを理解した。
そして同時に、その魔力がとてつもなく禍々しいものであることにも気づく。
「これは…………まさか…………!?」
暦が嫌な気配を感じていると、慌ただしく廊下を駆ける足音が近づいてくる。
暦がその足音の方を見ると、下働きの男が息を切らしながらやってきた。
「御当主様…………!」
「何があったの!? まさか…………」
「はい…………! 神無様がっ…………!!」
「っ…………!」
暦は男の横を通り過ぎると、急いで離れに向かう。
心中は手遅れにならないことを祈るばかりだった。
※
「まずい! もっと応援を呼んで来い!! このままじゃ屋敷を出てしまうぞ!!」
「里の男衆にも応援を…………!」
「まだダメだ! 里の者たちを余計に混乱させるだけだ! 当主様の判断を待つんだ!!」
「しかし…………我々だけでこれ以上は…………!」
日の落ちた狼森の庭園に、屋敷の男たちの大声が飛び交う。
広く、美しかった屋敷自慢の日本庭園はこの数分の間に、見る影もなくなっていた。
石灯籠は倒され砕かれ、剪定された
しかし、それ以上に辺りに散らばる赤々しい鮮血と、倒れ伏す男たちが奥ゆかしい風景を凄惨なものへと変えていた。
そして、男たちを次々血の海に沈めているのが、離れ屋の壁を壊し現れた、三つ首の魔物だった。
黒々とした体毛が血管のように脈動し、その一本一本がまるで生きているかのように見える。
優に五メートル以上はある巨大な体と、狼の頭部を殊更に大きくしたかのような三つの頭が、男たちの恐怖心を否応なく煽った。
恐怖に駆られた男の一人が、その魔物の姿を端的に表す言葉を震えながら口にする。
「化け物」と。
その「化け物」こそが、狼森 神無の真の姿である『禍津大神』だ。
男たちは腕や脚を獣毛を纏った鋭い爪に変化させ、にじり寄ってくる『禍津大神』を囲む。
この魔物を、屋敷の外に出してはいけない。
出してしまったが最後、この庭園のような光景が外でも広がることを意味している。
それだけは、なんとしても阻止しなければならない。
男たちは、一斉に『禍津大神』に飛びかかる。
鋭い爪で切り裂く者。
獰猛な牙で噛みつく者。
それぞれが必死の形相で『禍津大神』の体に取りつく。
体を傷つけられた痛みからか、『禍津大神』の三つの首が喉を晒して天に吠えた。
その隙を逃さんとばかりに、完全な狼へと姿を変えた他の男たちが、大きく晒された喉元に喰らいつく。
「アオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ!!!!」
数十人の人狼に食いつかれた『禍津大神』の、地鳴りのような咆哮が空気を伝って男たちの体を揺さぶる。
思わず『禍津大神』の体から離れそうになるが、それを必死に堪え、男たちは更に爪や牙を黒い魔物の体に突き立て続けた。
何とかこのまま動きを止め、抑えつけようとしていた。
しかし、『禍津大神』を抑えていた男たちから次々と悲鳴が上がる。
「あ…………ああっ! 腕が! 俺の腕がぁぁ!!」
男の一人が『禍津大神』から離れ、大量の血を撒き散らしながら、地面でのたうちまわる。
見ると、男の右肩から先がなく、僅かな体皮と肉片をぶら下げた状態になっていた。
その男だけではない。
他の男たちも、腕や足、酷い者は体の半分が獣の牙で食い千切られたようになくなっていた。
「あぁ…………あぁぁ…………」
その光景を見ていた下働きの男の一人が、腰を抜かす。
男が腰を抜かしたのは、その凄惨な光景を目の当たりにしたからだけではない。
『禍津大神』の体中にいくつもの口が現れ、狂暴な牙を覗かせていることに気づいたからだ。
そして、その牙こそが男たちを無惨に食い散らかしたのだ。
痛みに呻く者。
体の大部分を失い、事切れた者。
『禍津大神』は王者のようにそれらを踏みつけ蹴散らした。
最早狼森の庭園は、人が古来より思い描いた地獄を現出したかのような状態であった。
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