第3話 涙を流す資格
兄の実力や意気込みは「つかさ将棋クラブ」の大人たちが口を揃えた。
関西奨励会への推薦状は茂さんの知り合いであるプロ棋士の人にしたためてもらい、実際に入会テストの狭き門をくぐり抜けたときには、父も母も兄が歩むべき道を認めてくれていた。
車の免許を持っていない母では送り迎えをしてあげることができない。
やむなく兄は毎日、一人で電車に乗って奨励会まで通った。
ときに学校を早退し、ときに深夜まで棋譜を並べていたせいで学校を休んだ。
将棋を中心に据えた生活は兄だけでなく、ぼくや両親にもたしかな充足感を与えてくれていた。
奨励会デビューを果たした兄の出だしは順調だった。
物言わぬ少年が各地で最強を自負する将棋指したちを倒していく姿はどんなヒーローアニメより格好よかった。
年上相手に偉ぶらず、謙虚さを忘れない態度もぼくには鼻が高かった。
母と一緒に奨励会の様子を覗きにいくと、兄の感想戦にはいつも多くの観戦者が集まっていた。
プロをめざす将棋指しの輪の中心に座る兄。
余計なことを口にしない兄の一手は、誰の、どんな言葉よりも多くのことを語っていたのだと思う。
兄のいなくなったクラブにぼくは意気揚々と通い続けた。
ぼくも強くなれるように。兄に続いて奨励会に入れるように。
父や母から聞かされる兄のめざましい活躍をクラブのみんなに伝えるために。
兄がプロ棋士への道を歩み始めてもう一つ明らかになったことがある。
学校に、兄の友達はいなかった。たった一人もだ。
プロになるために奨励会に入った話は朝の全校集会で大々的に報じられ、全校生徒、先生たちからどよめきが起こった。
その反面、兄の同級生たちはぼくに「変わり者の弟」と口々に文句を浴びせてきた。
もしかすると自分たちの知らない輝かしい世界に飛び立っていった兄への嫉妬だったのかもしれない。
殿上人になってしまった本人への嫌がらせは
奴らは兄がクラスでいかに気持ち悪がられているかを罵ってきた。
兄が触れたものは全部ごみ箱に捨てるだの、女子から「ばい菌」という陰口を叩かれているだの。
耳を疑うような酷い言いぶりにぼくは泣くのを必死にこらえ、無視を決め込んだ。
兄はいずれプロになる将棋指しだ。お前らなんかにわかるはずがない。茂さんと対戦してみろ。序盤に角を取られてあっという間に詰みだ。
そんな人を兄はもう簡単にあしらうことができる。お前らなんて兄の二枚の「銀」でひと捻りだ。
馬鹿にされるたびに将棋盤を思い浮かべては兄の圧倒的な強さを心の中で唱えた。
そうしなければ、心ない嘲笑にぼく自身が圧し潰されそうだった。
大好きな兄の悪口はぼくの胸の内をひっかき、つねり、踏みつけるような暴力を伴っていた。
でも、もし兄本人に「ばい菌」なんて言ってみろ。その時は黙っていずにやり返してやる。
兄が負け将棋を耐え、牙を懸命に研いでいたように、ぼくも
中学にあがると、兄は学校に行かなくなった。
いじめがあったのかどうかはわからない。学校の勉強など将棋に割く時間を考えれば無駄だと判断したのかもしれない。
父も母も将棋にふける兄の意志を尊重し、嫌ごとひとつ言わなかった。
自室にこもり、歴戦の棋譜を並べ、奨励会で将棋を指し続ける。
兄がいったいどんな将棋を指すのかぼくにはもうわからなかった。
その頃にはぼくが兄に話しかけることはほとんどなくなっていたからだ。
薄々わかっていたけれど、ぼくには兄ほどの才能はなかった。
クラブで茂さんを唸らせる将棋を指すことはできなかったし、一人じゃマスターのたばこを無駄にしてやることも叶わなかった。
兄が奨励会への入会を果たした年齢をあっさり越えると、ゆるやかな坂道を下るようにぼくの将棋への熱は冷めていった。
中学校に将棋部はなかった。でも、それはそれでありがたかった。
初心者でも大丈夫という触れこみを信じて卓球部に入り、運動の楽しさを知ることができたからだ。
仲のいい部活で、男子も女子も先輩も後輩も気の合うメンバーばかりだった。
いつからか将棋ばかりで友達のいない兄を軽んじるようになっていた。
他のすべてを犠牲にしなきゃ将棋も指せない人間。
将棋を取り上げられたら空っぽの男。
どれだけ将棋が強いか知らないが、人としての価値は低いと勝手に決めつけた。
一度だけ、本当に一度だけ兄と喧嘩したことがある。
卓球部の三年最後の大会で惜敗を喫したあと、兄がリビングで母に話しかけるのをたまたま耳にしたときのことだ。
「将来を背負わずに戦って負けても泣けるんだな」
悔いの残る試合にぼくは一晩泣き暮れていた。涙腺がはちきれたみたいに自室の机には水だまりができた。
勝負に負けて涙を流したのは初めてだった。
自分なりに二年半、打ち込んできた。勝つために、みんなと一緒に。
ぼくの次にキャプテンの大将戦が控えていたんだ。
サービスミスを二本つづけた後、相手のドライブが信じられないくらいサイドに決まり、ぼくのリターンはむなしく宙を舞った。
県大会で団体ベスト8に入ること。
大会前に掲げたちっぽけな夢は二回戦であっけなく潰えた。だけど、それを「ちっぽけ」だなんてあのメンバーは誰も思っちゃいない。
そんなのあんまりじゃないか――
将棋を指す自分は特別で、部活動に青春を捧げたぼくは劣っているとでも言いたいのか。
リビングに飛びだしたぼくのことを兄は平然とした様子で見つめてきた。相手の王将を追い詰める、慈悲に欠けたあの「銀」のように冷たい眼差しだった。
息を整えて兄を見下す。まともに運動もしていない、ひ弱な身体つきだ。
将棋指しとして最速でプロになった人が中学二年生だと知っていたから、家の中でそれこそ王将のように自分のやりたいことだけに没頭する兄に悪意をぶつけた。
「じゃあ、あんたはいつになったらプロになるんだよ」
十七歳の兄。高校に通っていれば二年生にあたる年齢だ。将棋指しとしてはまだ早い。慌てるような歳じゃない。
昔みたいに首を振るだけだと思っていたのに、兄は途端にものすごい剣幕になり「将棋をやめたお前なんかにわかるわけないだろ!」と怒鳴りつけてきた。
昨夜の粘っこいぼくの涙とは違い、玉砂利のようにキレイな
なんだ、それ。なんだよ。
ぼくはやめたくて将棋をやめたわけじゃない。兄ほど才能がなかっただけだ。
茂さんは、ぼくには奨励会に入れと言ってくれなかった。
マスターはもうぼくの対局を観戦すらしてくれなかった。
夢を諦めて、新しいステージに進むのは情けないことなのか。
卓球に出会って、仲間と一緒に笑ったり泣いたりすることは馬鹿にされることなのか。
プロになるために頑張ってる奴だけが「涙を流す資格」があるのか。
あまりの理不尽さに打ちひしがれ、ぼくはいつかの兄のように押し黙ったままリビングを後にした。
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