三枚目の銀

真乃宮

第1話 たまらなく好きだった


 兄の指す将棋には、あるべき「色」や「音」がまるでなかった。

 コンピューターと対峙するような無駄のない、無機質な駒の動き。

 目尻の火照ほてりや呼吸の乱れを「寡黙」という鎧の内にひそませ、投了の合図をじっと待ち続ける。


 勝負どころで大胆に飛車を切り捨てる度胸。

 息継ぎを欠いた相手の攻めを分断する妙手。

 王将を追い詰めていく閃光のごとき指し筋。


 どのような表現を用いても物足りなさばかりが先立つ。

 兄の指す将棋の根強さを語ることは、駒が盤を叩く「パチリ」という簡素な響きにだけ許されていた。


 駒は兄の指示に従い、進むべきマス目に移動する。

 決して犠牲をいとわず、後につづく者はその屍を踏み越えて目的の場所をめざした。


 長い戦いの中でおよそ活躍を期待しえない駒が伏兵となって手強い敵を討つこともあれば、睨みを利かすだけで盤面を停滞させてしまうこともあった。

 戦況は刻一刻と変化し、新たに加えた手駒を容赦なく相手陣地に打ち込むことで内地から戦力を削いでいく向きも珍しくない。


「歩兵」「香車」「桂馬」「銀将」「金将」「角行」「飛車」、それから「王将」。

 自らの命を顧みない十九名の戦士と、一人の王。

 八十一マスの戦場。


 相手の「王将」を倒す――


 たったそれだけのゲームに宇宙を構成する要素より広い選択肢と、人類が解き明かせない無限のパズルが秘められている。


 兄の将棋は「銀」が躍動する棋譜にその強さの絶頂を見せた。

 飛車をサポートするために身をていして玉砕する「攻めの銀」。

 王将のかたわらで鉄壁の堅さをほこる金将に寄り添って生涯を全うする「守りの銀」。


 兄は相手から奪った「三枚目の銀」にも非情さを授け、避けては通れぬ役目を課した。

 指令を受けた「銀」が、つい先ほどまで仲間であった駒たちを次々に葬っていく様には背筋が凍る思いだった。

 元より温かみの感じられない兄の将棋の中にあっても「三枚目の銀」が放つ、ひんやりととがる冷たさは盤上でことさらに際立っていた。


 無口で将棋の強い兄。

 序盤の定石も終盤の詰め筋も、道中の状況判断だって誰にも負けちゃいない。


 無類の強さを見せる兄の将棋と、その強さを鼻にかけない謙虚さが、あの頃のぼくはたまらなく好きだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る