希望の薬
歌劇場の外である。
裏口から外に出たシャノンとエルトンは、表に回り込んだ途端、走っていた足を止めた。
あちこちで悲鳴が上がり、ケタケタと笑う気味の悪い声がする。視界が悪いのは何も日が落ちてしまったからだけではないだろう。
むせ返るような嫌なにおいが、鼻を衝く。
血と、人の体と、魔物と、さまざまなものが混ざりあって焼ける匂いは町中に広がり、それを嗅いで子供が泣き、新たな魔物がふらりとこの町に引き寄せられてくる。
一体、どれだけの魔物がひしめいているのか。
シャノンはエルトンと顔を見合わせた。歌劇場の地下から追ってきた魔物たちが、町に放たれてしまった。するすると窓や二階から出て行ってしまった魔物たちを、歌劇場の中だけに留まらせておくことはできなかった。それはシャノンの失態だ。
幽鬼と魔物は似ていて異なるものだと、聞いた。
幽鬼は理性ある生き物だ。人と似た考え方をする者もおり、中には人から幽鬼へ転変した者もいるという。
一方で魔物は、理性よりも本能に従う生き物である。理性が全くないわけではないが、そもそも理性の概念が異なるのだろう、道徳観などまるでなく、強い者は弱い者をただ従え、蹂躙し、悪行を好み手を染める。食の糧として人間や他の生き物を見ているだけではなく、糧以上にただ殺戮するために殺生をする。
シャノンにわかることは、魔物の方が幽鬼よりもはるかに恐ろしく、話の通じない相手だということだけだ。
歯を食いしばりながら、シャノンは近くで息絶えていた人から武器を借りるため手を伸ばした。
その人の武器は包丁だった。咄嗟に掴んで家を出てきたのだろう。だが、残念なことに生を奪われてしまった。
どういう状況で絶命したのか、シャノンにはわからない。わからないが、彼のためにも一矢報いると誓いながら、その胸から包丁を引き抜く。
するりと、思っていたよりも簡単に引き抜けてしまった。
ぽたぽたと垂れる血を、刃先を下にして見送る。申し訳ないと思うが、悠長に黙祷を捧げ、冥福を祈る時間はない。
エルトンが同じように近くの者から剣を借り受けた。その兵は鎧も着込んでいたが、魔物相手には鎧も役立たずとなるらしい。
逃げ惑う人々を襲う魔物にそれぞれ切り付けながら、歌劇場の地下から上がってくる間に交わした打ち合わせ通り、エルトンの別邸へと向かう。
そこには、ある薬があると言う。
放たれてしまった魔物たち全てに対して使える薬ではないが、魔物たちを従えている者に使うことができれば、結果的に全ての魔物を退けることができるかもしれない。
その薬は、
火蜜は、エルトンが幽鬼からとある事情で手に入れたものだった。幽鬼に有効なので魔物にも同じような効果が期待できると思われるが、試したことはないので断言はできない、とエルトンは言う。薄めて暈を増やせば大半の魔物を負傷させることができるだろう、と。
それでも、やってみなければわからないのだから、やるしかない。
剣や銃弾は人間相手には絶大な効力を発揮するが、魔物には、特に霞のように実態が危うい魔物相手には無力だ。
シャノンは壁をすり抜けてにたりと笑う霞の魔物に向かって包丁を振り回した。切り付けることはできないが、抵抗する意思はあるのだと知らせるだけでも無駄
ではないだろう。
「シャノン殿!」
エルトンがシャノンの腕をぐいと引き、霞の魔物から引き離す。
そのまま通りを逃げていると、大きく傾いて停まっている馬車を見つけた。車輪が外れ、手綱を握ったまま絶命している御者が、半ばずり落ちそうになりながら御者席に座っていた。
馬車を引いていたはずの馬はすでに逃げたか、誰かが乗って行ってしまったのだろう。
シャノンとエルトンは顔を見合わせ、御者に簡単に目礼すると通り過ぎた。馬車は魅力的だが、車輪が外れ馬もいないのでは話にならない。
走っていくとなると、エルトンの別邸までは遠い道のりだ。
この状況では、道すがら馬車か乗合自動車を見つけることは難しいだろう。万が一見つけられたとして、乗せてもらえるかわからない。そんな偶然に頼るより、自分の足で確実に距離を詰めたほうがいいことはわかっている。
けれど、とシャノンは隣を行くエルトンを見た。
長い間ろくに食事も与えられず、囚われの身となっていたエルトンには辛い道行だ。たとえ別邸まで辿り着けたとしても、そこから火蜜を持って町まで、歌劇場の地下まで戻ることは難しいだろう。
適わないとは、思いたくないが。
失速したシャノンに気付いたエルトンが声をかけてくる。
「シャノン殿、無理に私についてこなくとも良いのですよ。お辛いならどこかに身を潜めていても」
シャノンはぴたりと足を止めた。エルトンに気遣われているのはわかるが、辛いのはそうさせてしまう自分の情けなさだ。
ついてこなくていい、という言葉に含まれる優しさ以上に、突き放されたように感じてしまう自分が、嫌だった。
シャノンはエルトンを真っ直ぐに見た。
「いいえ。お辛いのは私よりもあなたでしょう。私が行きます。火蜜がどこにあるのかを教えて頂ければ、私が取ってきます」
「何を言っているんです、あなたにそんなことは頼めない」
エルトンは頑なだった。シャノンをただの大人しい姫と見ているのだろう。
できないと思われているなんて、情けない。
今まで猫を被ってきたツケだろうか。本来の自分を隠し、エルトンの前でおしとやかに、それこそ絵に描いたような、物語に出てくるようなか弱い姫を演じていた。
おしとやかで、にこやかに笑い、愚痴も言わず、心優しく、花を愛で、気品に溢れ、優雅に、しなやかに動き、窓辺で小鳥と歌いながら刺繍をしているような。
「エルトン様。こんなときですが、白状致します。私は、嘘を吐いていました。本当はおしとやかでもなければ、常ににこにこと笑っていられるような性格でもなく、綺麗な花を愛しているわけでもありませんし、刺繍は大嫌いです。針よりも槍のほうが好みですし、私はあなたが思っているようなお姫様ではないんです」
「はい。……え?」
シャノンの告白に、エルトンはしまった、という顔をした。
なぜ彼がそこで自分が失敗したような顔をするのかわからず、シャノンも口を閉ざす。
場違いなまでの沈鬱な空気が二人の間に漂った。
二人を見つけ、奇声を上げて飛びかかって来たコウモリの魔物をエルトンが剣で薙ぎ払う。確かな実体を持ったコウモリの魔物は翼を負傷し、向かいの建物の壁に激突した。地にずり落ち、這いながら寄ってくるコウモリの魔物をエルトンは両断した。
「あの」
こんな状況ではあるが切り出したのは自分だ。自分が薬を取りに行くことを認めてもらわなければと思ってのことであるが、無言でいられると参ってしまう。
困ったように、エルトンがシャノンを見て、深々と頭を下げた。
「大変申し訳ない! 私はあなたは花が好きなのだと思って、何度も押し付けてしまっていた。鉢植えまでも……大変迷惑だっただろう? 本当に申し訳ないことをしました」
エルトンの肩までかかる長めの髪が、はらりと落ちる。
両手をぴたりと体の脇に付け、ほぼ直角に頭を下げる姿はさすが真面目なエルトンだ。
今度はシャノンが困ってしまった。
ただ大人しいだけの姫ではないので任せて欲しい、と言ったつもりだった。
伝わらないもどかしさに苦悩する間も、エルトンは頭を下げ続けている。
どうしよう。
もたもたしている時間もない。
シャノンはエルトンの髪に手を伸ばした。何事かと顔を上げようとする彼をやんわりと制し、手漉きでひとまとめにすると、ポケットから取り出した鮮やかな水色のリボンを結ぶ。
「あら、しくじってしまいました」
エルトンが頭を上げると、リボンの結び目が髪の下に隠れてしまった。
エルトン本人からは当然見えず、きょろきょろと頭の後ろを覗こうとして首を左右に動かす姿に、思わず気持ちが解れた。
「謝らないでください。花は特別好きというわけではないんですが、エルトン様からのお花は迷惑ではありません。心配なさらずとも大丈夫ですよ」
鮮やかな水色のリボンは、贈られてきた花についていたものだ。
最初はただ綺麗な季節の花に一筆添えられていただけだった。しかも業者かと思うほど素っ気なく、単なるサインもいいところだったのが、いつからか決まって水色のリボンが巻かれるようになっていた。
そのリボンを大切に持ち歩いてしまうくらいには、嬉しい贈り物なのだ。
ちょっと悔しいので、エルトンには教えてやらないが。
「私たちはあくまで協力者です。サヴィアンだけを改心させれば収束するという事態はとうに過ぎてしまいました。達成できる可能性の高い者が実行する、そういうお約束でしたね」
シャノンがエルトンの横にいるのは、サヴィアンを止めるためだ。町中に魔物が溢れてしまった今、サヴィアンを止めるだけで落ち着くような事態でもなく、二人の協力関係もほとんど徒労に終わっただけに過ぎないが、エルトンと対等の立場に自分を昇華させるには、まだ有効な条件だ。
シャノンの言葉に、エルトンは表情を引き締めた。
「ならばなおのこと、私が行きます」
「いいえ。私のほうが元気ですので」
「置いてある場所は私しか知りません」
「ですから教えてくださいと言っているのです! 別にあなたじゃなくてもいいでしょう!」
「分からず屋! あなたを一人で行かせるのは嫌だと言ってるんだ!」
エルトンがシャノンに向かって剣を振り上げる。
ぎゅっと目を瞑り蹲ってしまいたかったが、シャノンは瞬きもせずエルトンを見つめていた。
ひゅっと風を切る音が聞こえた瞬間、それは耳障りなうめき声に取って代わられた。
シャノンの肩に触れる寸でのところで止まった剣を、エルトンが引き抜く。堰き止められた大量の液体が破裂するようにどぷりと溢れ出て、シャノンの背をべったりと濡らした。
その液体には色がついていると、確認せずとも確信があった。
「背後に迫っている脅威にも気付かない姫には、行かせられない」
脅すように言うエルトンに、シャノンは包丁の先を向けた。
「そちらこそ」
手首のしなりを利用して、エルトンの背後に包丁を投げる。背後から獲物を狙っていた魔物は巨大なかぎづめの持ち主だった。そのかぎづめがエルトンに届く前に包丁が額に突き刺さる。慌てて振り向いたエルトンが包丁が突き刺さったまま飛びかかって来た魔物のかぎづめを避け、止めを刺した。
「お見事です、エルトン様。けれどあなたの視野も背後までは届かないようですね。不足分はいかがするおつもりですか」
「……参りました。二人で行きましょう」
「はい」
エルトンを少しでも休ませてやりたかったが、彼はどうあっても自分だけ身を潜めて休むようなことはしないだろう。
無理に置いて行っても追いかけてくるか、別のことをして体力を使い果たしてしまいそうだ。
それに同じく倒れるのなら別邸のほうがいいかもしれない。彼の別邸であれば、それこそ気心も知れていて休まるだろう。
そう考えなおしたシャノンは、エルトンと連れ立って再び走り出した。
歌劇場からマコーレーの別邸までは、町を横断するとまではいかないが、町の半分は走らないとならない。
裏道や細い道は近道になる場合もあるが、あまりに細いと途中で魔物や人の死体が詰まっていて引き返さなければならないことがあった。その山を乗り越えていくのは困難である上に気分のいいものではないため、必然的に引き返して迂回することになるのだが、そうすると余計に体力も時間も使ってしまう。
シャノンとエルトンは、少し遠回りになろうとも、大通りを選んで進んだ。
この町の大通りは、歌劇場からは放射状に、中央からは波紋のようにいくつか規則正しく郊外へと延びている。その内の南へと抜ける道を進んでいくらも行かないうちに、どしん、と地響きのような音が響いた。
周りを見ても、建物は揺れていない。
地震ではないと二人で顔を見合わせると、先ほど通って来たばかりの道を、巨大な鬼が闊歩していた。
歌劇場の入り口を塞いでいた鬼である。
長らくじっと座り込んでいたので、あの鬼は無闇に殺戮を好む魔物ではないのだろうが、突然動き出したのはどういうわけか。
あの巨体で暴れられたら、ひとたまりもない。
シャノンが睨むように鬼の動きを見つめていると、エルトンに声をかけられた。
「急ぎましょう。一度止まってしまったら、走り出せなくなりそうです」
「……そうですね」
のんびり呼吸を整えている場合ではない。
シャノンはエルトンの背を追って、夢中で駆けた。
「エルトン様!」
マコーレーの別邸に辿り着くと、領地を囲む柵を一歩踏み越えた途端、転がるようにエルトンは膝から崩れ落ちた。
荒い呼吸を繰り返し、なんとか自力で仰向けになる。
「私の部屋の……花瓶の……中に」
シャノンはこくりと頷いた。奥からシャノンたちに気付いた屋敷の者が駆けてくる。
シャノンはエルトンをその者に任せ、入れ違いに屋敷へと駆け出した。
マコーレーの別邸は、町の様子が嘘のように静かだった。
悲鳴は遠く、町のほうから風に乗って聞こえてくるだけだ。魔物の気配はまるでなく、屋敷の外に出てきた人々は不思議そうに町のほうを見つめていた。
走るのに夢中だったが、思えば、郊外に行くにつれ魔物の数も少なくなっていたような気がする。
シャノンは人々の間を潜り抜け、屋敷に入り込んだ。メイドの服を着ていて良かったと思う。ところどころ裂けたり汚れたりしているが、派手なドレスよりは余程目立たない。
背中をなるべく見せないようにして、シャノンは屋敷の中にいるメイドの一人を捕まえ、エルトンの部屋の場所を聞き出した。
なぜ部屋の場所を聞きたいのかと詮索されるのかと思ったが、彼女はシャノンの制服に目をとめると、頼んだ、というようにすんなりと案内までしてくれた。
エルトンの部屋は、主不在の間もきちんと掃除の手が入り、愛でる人もいないのに花が生けられていた。いつ主人が戻ってもいいようにとの配慮だろう。
花瓶に近寄ると、シャノンはその思いに羨ましくなりながらも花を引き抜いた。そっと脇に置き、花瓶の中を覗き込む。
花のための水が入れられているだけで、中には何もない。ただの水だろうことは、花が生き生きとしているので間違いないだろう。
シャノンは花瓶を持ち上げ、底を覗き込んでみた。
何もない。
「……でも、花瓶と」
そう言ったのだ。
シャノンは窓を開け、花瓶の水を全て外に捨て去った。
ぽたぽたと水滴を垂らしながら引っくり返し、あちこち触ってみる。
ピと、爪が引っかかった。
底のほうだ。引っかかった場所をもう一度探り当て、いじってみる。
きゅ、と底が回った。
「二重底!」
ぱかりと開いた底には、だが何もない。
シャノンは皿となった底の部分から本体へと視線を移した。二重底だった花瓶は、今では上半身だけ服を着たようになっていた。花を生けたまま底を外せるように考えられたのだろう、陶器の服の下からガラスでできた底が覗いている。
ふと思いつき、ガラスの部分を引っ張ってみた。
すぽんと抜けたガラス部分は、それだけでも見事な花瓶だった。ぷくりと膨らんだ下部から上方へ向かって細くくびれていく辺りに一か所凹みがあり、その凹み部分には鍵が納められていた。
「これね」
シャノンは手早く花瓶を元の形に戻すと、花を差し込んだ。水までは戻せないが、明日になればまた誰かが水を取り替えに来てくれるだろう。
鍵はエルトンの机の下に隠すように置かれていた箱のものだった。
ちょうど両手に収まるかどうかの大きさの箱だ。かちりと音を立てて開錠する。
中を見てシャノンは唖然とし、顔を赤らめた。
「まあ……エルトン様ったら」
そこにあったのは、シャノンが何度かエルトンとやりとりした手紙と、一緒に立ち寄ったことのある店の袋や商品の包装紙だった。丁寧に折りたたまれた包装紙を持ち上げ、自分が出した可愛げのかけらもない手紙という名の報告書や密談書を退かし、奥底から、ようやく目当ての物を見つけ出す。
小さな缶だ。飴玉を数個入れておくようなぺたんこの円形の缶は手のひらサイズで、どこか懐かしさすら感じさせるデザインだ。シャノンはそれを握りしめ、しっかりと自分の過去の痕跡を封じ込めると、エルトンの待つ場所へと急いで引き返した。
「これは、なんです?」
水を飲み、呼吸もすっかり落ち着いてシャノンを待っていたエルトンが、開口一番、そう言った。
「なんですも何も、これしかありませんでした」
「貸してください」
エルトンはシャノンから受け取った缶の蓋を開ける。いくらか錆びたような音がして開かれた缶の中には、折り畳まれた紙切れと、飴玉が数個入っていた。
「……やられた」
エルトンがため息を吐き、シャノンに紙切れを見せる。周囲にメイドや奉公人がいるのにいいのかと思ったが、どうやらエルトンは気にしないらしい。
シャノンは紙を受け取り、そこに書かれた文を読んだ。
――『バケモン調教剤はもらっとく。S.R代理人』
そして、ユリの花の判。
「……盗人『鬼百合』、ですか」
数年前突如として姿を現し、近郊の町々を荒らしまわる有名人だ。
鬼のように容赦なく貴族から金品を奪い去り、鬼のように慈悲もなく庶民からも奪い取る、ユリの花を己の印と残していく盗人。
鬼百合というのは、何を思って己の印としているのか今一つわからないながらも、彼が好むユリとその言動からつけられた異名である。
その手がここまで来ていたのかと思うとエルトンでなくとも頭を抱えたくなるが、問題はその盗人が代理として働いたということだ。
S.R――シャノンが思い当たるのは、一人しかいない。
エルトンも同じだったようで、自然と目が合う。どちらからともなくその名を口にすれば、やはり、と互いにため息が漏れた。
――サヴィアン・リダウト。
どこまで悪徳業と繋がっているのか、一度すべてを明るみに引きずり出して見てみたいものだ。
シャノンは深々とエルトンに頭を下げた。愚兄が、と言いそうになるのをエルトンが先回りをして押し留める。
二人は、今はマコーレー家の奉公人たちに囲まれている状況だ。迂闊に口を滑らせれば、いらぬ騒ぎを引き起こしかねない。ここの奉公人たちは口は堅いほうだと信じたいが、どこから噂の花が咲くともわからない。
「一度町に戻り、彼を探したほうがいいでしょうね。もしも見つからなくても、どうにかしてこれ以上の惨状が起こらないようにしないと」
エルトンが近くにいたメイドに缶を渡す。慣性でころころと転がる飴玉が、缶の中でぶつかり合って音を立てた。
溶けて飴同士がくっつくようなことにはなっていないので、比較的最近盗まれたのだろう。代わりに置いて行かれた飴は嫌味だろうか。
幸い、マコーレーの別邸には馬車があった。
二頭立ての馬車がエルトンとシャノンのほうへと進んでくる。シャノンを待っている間にエルトンが用意をするよう指示していたのだろう。
「馬車ですか」
走るよりははるかに早く町まで戻れるだろうが、小回りはきかない。さらに、未だ魔の手が届かぬ場所にいられるというのに、わざわざ御者を地獄のような場所まで引きずり出すのは気が引ける。
躊躇っていると、エルトンが馬車と共に用意されたライフルを自身に装着し、御者席に飛び乗った。
「乗ってください」
「……あなたが?」
「信用なりませんか? 安全運転で飛ばしますよ」
「いえ、そういうことでは」
不安げに馬が嘶く。エルトンが声をかけると、馬は静かになったが、そわそわと落ち着かない様子だ。
馬もわかっている。
シャノンは馬をそっと撫でた。温かく、どくどくと力強く脈打っている。
「エルトン様。馬車ではなく、馬で参りましょう。馬なら小回りも効きますし、馬車を引くよりも早いでしょう? それに、いざというとき、馬だけでも逃げられます」
「シャノン殿は、馬車の中にいたほうがよいのでは」
「私だけ箱の中で目を閉じて震えていろと仰るのですか」
それがエルトンの配慮であることはわかっている。エルトンだけで戻ることをシャノンが承知しないだろうと考えたからだということも。
だが、エルトンだけを危険な目に遭わせるわけにもいかない。馬車の中にいては、彼に危険が及んだとき、すぐに気づけない。
シャノンは、エルトンの不足分の視野なのだから。
「シャノン殿、乗馬の経験は?」
「いいえ。でもこの子は、二人を一度に乗せてくれるくらい、器量よしではありませんか?」
「二人で一頭に?」
「だめでしょうか。やはり馬に負担がかかり過ぎてしまいますか?」
「いえ、そういうことではなく! ですから、その、二人乗りというと、か、体が、思ったよりも馬の背は狭くてですね、く、くっつい……いや! わかりました! 緊急事態なので、ここはどうぞお許しを!」
エルトンは御者席から降り、馬車から馬を外した。シャノンが撫でていた馬とは別の馬の手綱を取る。
「こちらの馬で参りましょう。そいつは、私が女性を乗せると嫌がるんですよ」
「あら」
思わぬところに、ライバルが潜んでいたものだ。
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