かくしべや
連れていかれたのは、先ほど入り込んで捜索を終えた部屋だった。
客間のようだが、よく見ればどことなく埃っぽい。客を通すことはないが、誰かの自室というには物が散らかっていない。整理されているのとはまた違う。先ほどはローラムがいるかいないかだけに重点を置いて捜索していたが、じっくりと室内を見回せば、物がないのだと気が付いた。
窓辺にある机にはペンや本、紙が置かれているが、どの引き出しも空っぽだ。脇にあるくず入れにもくしゃっと丸めた紙が捨てられているが、その紙の上には埃が積もり始めている。まるで部屋の主がいないことを悟られないようにしているようだ。
シャノンは作り付けのクローゼットを開け、洋服をかけるため横に渡してあるポールに手をかけた。背伸びをして辛うじて届く高さにあるポールをどうするのかと見ていると、見かねたカシーが手伝いを申し出る。だがカシーの背丈では頭が中で閊えてしまって上手くいかず、結局ユハが手伝う羽目になった。
「なんで俺が」
ポールを左へ寄せるように動かすと、かちりと溝にはまった感覚がある。
「そのまま左側へ押し付けたまま、奥へ押してください」
言われた通りにすると、クローゼットの壁がポールと共に奥へと動き、今までクローゼットの内壁があった場所には、小さな扉が現れた。再びかちりと音がして、ポールが溝にはまる。手を離しても元には戻らず、その場で固定されていた。
屈まなければ入れない両開きの扉には真ん中に小さな穴が一つあるだけで、ドアノブのようなものはない。
シャノンが机からペンを取り、ユハの足元を掠めるように屈んて近づくと扉の穴に差し込んだ。そのままぐっと下向きに力を込める。
両開きの見た目とは異なり、意外にも引き下げて開くタイプだった。
ユハは彼女の上から手を伸ばし、僅かに開いた隙間に指を差し入れ、力づくで扉を押し下げた。
扉の下にはバネでも仕込まれているのか、元に戻ろうと上向きに反発する力がある。ユハが押さえている間にシャノンが先陣きって扉の向こうへ行き、カシーも這うようにして行く。ユハも扉を潜り、シャノンに促されて扉を押さえていた手を離した。音を立てて勢いよく元に戻った扉の裏側には、扉の一部として組み込まれるようにつまみのようなものがあった。出る時にはこれを使用するのだろう。指先で撫でると凹凸もなく、完全に扉と一体化していて、まるで一枚の板のようだった。
シャノンがエプロンのポケットからライターを取り出し、火をつけた。急な明るさに目が眩む。ユハは夜目が利くので明かりなどなくても問題なかったが、カシーとシャノンはライターの火に安堵したようだ。
頭をぶつけるほど低いのは入り口付近のみで、クローゼットの奥に現れた隠し通路は天井が高く、背の高いカシーが立ち上がってもまだ余裕があった。横幅は体格の良いカシーが二人並んで肩が壁に触れてしまうくらいだろうか。カシーとシャノンなら若干の余裕があるが、わざわざ狭苦しく並ぶ必要もない。そこで、シャノンからライターを預かったカシーが先頭を歩き、シャノンを間に挟んでユハが列を作ることになった。
通路は通路と呼ぶのも憚られるほど短く、すぐに右へ折れ曲がり、扉に行きついた。
今度の扉は至って普通の扉だ。
最初の仕掛けを突破しなくては辿り着けない場所にあるので、ここでは必要ない。
カシーがシャノンにライターを預け、ユハはそんなやり取りをしている二人の横をすり抜け先頭に躍り出た。カシーを待つのももどかしく、中へ突入する。
「ローラム様! 迎えに来ました!」
扉を開けた途端、中にいたノジーたちが二手に分かれ、壁際にさっと身を寄せる。ローラムは先程鏡の向こうから覗き込んだ時と同様に、壁を背に座り、俯いていた。寝ているのか、はたまた気を失っているのか遠くてわからないが、とにかく無事なようだ。
ユハはノジーたちが襲い掛かって来ないと見るとさっとローラムに駆け寄った。
思わぬ者たちの来訪にノジーたちは一瞬きょとんとしていたが、自分たちが従っている者ではないとわかるとユハに飛びかかってこようとする。だが直後にシャノンが姿を現し、ノジーたちはその場に踏みとどまった。
戸惑っている感じが、ひしひしと伝わってくる。
シャノンがノジーの牽制に役立つとは思いもしなかったが、彼女自身は扉を開け放したまま、入り口付近に留まっている。
カシーと二人で壁に打ち付けられた杭を引き抜かなければならないだろうと思っていたが、杭は少し引っ張っただけで簡単に引き抜けてしまった。
拍子抜けだ。
杭から繋がる鎖を辿り、ローラムの手元に視線を移す。カシーが手首にはめられた枷を外そうとしてローラムの腕を持ち上げた途端、枷に留めつけてあった鎖のほうが根元からちぎれ、音を立てて床に落ちた。
何とも杜撰な拘束具だ。
鎖が落ちる音で目を覚ましたローラムが顔を上げる。
ユハたちはローラムの顔を覗き込み、言葉を失った。
シャノンの息を呑む音が、妙に耳障りだ。
無事だったか、大丈夫か、もう安心だ、一緒に逃げよう、復讐するか――。
たくさん用意していたはずの言葉が喉に閊えて、鼻の奥がつんとする。
ローラムが不思議そうな顔でカシーを見、ユハを見た。
片方だけの目で。
「カシー?」
「あ、ああ。遅くなって悪かった。……お前、その目、」
「あーあ、謝ってる相手をさらに怒鳴りつけたら、僕のほうが悪者だよね」
まあ顔が見れてよかったよ、とカシーの言葉を遮るローラムに、ユハは目頭を押さえて上を向いた。ローラムが平気そうに振る舞っているのに、ユハが取り乱しては元も子もない。
失った左目はもう痛くはないと言う。眼窩は落ちくぼみ、目蓋には擦りむいたような切り傷ができている。
体中を突き抜ける悲しみが落ち着くと、今度は沸々と怒りが湧いてきた。
「俺の……俺のなのに……!」
煮えくり返る腸で、ローラムを傷つけたやつを今すぐ焼き殺してやりたいくらいだ。
「なんでそこまで僕に拘るの。ちょっと異常じゃない?」
「俺は朱璽鬼ですからね! あんたのことが大好きで堪らないんです、そういう生き物なんです! 王って意味ですけどね!」
「あ、はい。個人的にじゃなくて良かったです」
ローラムが座ったままさり気なく自分から離れようとするのを見て、しまった、と思う。また妙なことを口走って、変に警戒されても困る。
じっくり考えて、けれどほとばしる熱意は消えることなく口を開く。
「あなただから、俺は、
深幽境の生活を支え繁栄させるのが深王の仕事なら、朱璽鬼は深幽境の土台を支え固めるのが仕事である。
そのために深王は朱璽鬼へその力を与え、朱璽鬼はその力で報いる。
何者も不可侵なこの理は、朱璽鬼が深王を王とし、深王が朱璽鬼を朱璽鬼たらしめるだけではない。
深幽境の存続自体に大きく関わっているのも確かだが、朱璽鬼が王に従うのは、偏に王だけが作ることの出来る赤い早夏のためだ。
一度口にしてしまえば、朱璽鬼はどうしようもなくその王に惹かれてしまう。
強制的な種の呪い。そういう風にできている。
幼少の頃に一度口にしただけの早夏の感触を思い出し、ユハはしかし、体の奥が急激に冷えるのを感じて背筋を震わせた。
ローラムは覚えていないだろう。まだ彼が深幽境にいたときのことだ。真っ赤に熟れた初物をその小さな両手で大事に持ち、ユハのところまで何度も転びながら届けてくれたのが、つい昨日のように思い出される。
ユハが落ち込んだと思ったのか、ローラムが離れた距離をそっと戻ってくる。その仕草が幼い頃のままで、ユハは驚いた。
ローラムが右目を擦る。
「気になるのか?」
カシーが尋ねる。しばらく目を擦っていたローラムだったが、手を退けて目を見せた。手の下から覗いた目は、赤くなっていた。
「うん、血でも入ったのかな、ちょっと視界が赤いんだよね。少しすればすぐ直ると思うんだけど」
白目が充血しているわけではない。
黒だった瞳が、燃えるような赤色になっている。
「……薬、飲んでいられなかったから、ですね」
「なんで僕が普段薬を飲んでいること知ってるの」
ユハが瞳を覗き込んで言えば、ローラムが不満そうに口を尖らせた。
ローラムが普段飲んでいた薬は、ユハが用意していたものだ。
深幽境にしかない、深幽境を支える花の実を煎じて蜜を絡めたものである。蜜なしで体内に取り込むと効果が強すぎて毒となりその幽鬼は死んでしまうが、ごく少量を蜜と共に含めば、幽鬼の力と破壊衝動を抑える働きがある。
封じの薬、
強すぎる毒性は腹の中に火を放り込まれるほどの苦しさを与えると言われるが、代々の深王が地上に出て、人間と交渉するためにしばしば使用していたとされる薬である。
それをカシーを仲介しローラムに飲ませていたのは、ローラムの中にある王の血――深王の力を封じ、人間に紛れさせるためだ。
当時の深幽境は荒れていて、引っ切り無しに争い、災いに襲われていた。元々害をなす存在である幽鬼なのでこんな言い方はおかしいが、そこそこ良好な関係を保っていた人間との信頼関係も瓦解し始め、鬼はやはり鬼として成敗されようとしていた矢先のことだ。
当時の深王は討たれ、今の新しい治世となった。
新しく深王となったのは、ローラムとそう年の変わらない王の子であったが、彼は先代の悪しき血が続かぬようにと王のほかの親族を殺して回った。
殺戮の手からローラムを逃すためとは言え火蜜に手を出すことは躊躇われた。
だが、ローラムには、人として生きるしか残された道はなかった。
どれだけ見た目を偽ったところで、幽鬼たちは騙されない。
霊力の強い人間ほど豊満な蜜の香りをさせるように、深王の血は強いアルコールのような独特の香りがする。
火蜜は深王の力を封じその気配も隠したが、人間となる前までの記憶までもローラムから消し去った。
これは罪で、罰だ。
ローラムの記憶がなくなったことで、ユハとの関係も白紙に戻った。また一から関係を築いていけばいいと、どこかで楽観視していた部分もある。それが酷く苦々しく感じられる時があろうとは、予想もしなかった。
ユハは深々と頭を下げた。
薬を届け飲ませるようにしていたのがユハだという告白に、ローラムは一言も返さない。このままの姿勢で硬直してしまってもいいかと思い始めた時、頭の上でため息が聞こえた。思わず顔を上げようとすると、上からぐっと押さえつけられる。
「え? ……え? ローラム様?」
「僕が薬を飲み始めたのは、いつからだっけ、カシー」
「六つのときだ」
独り言のような呟きにカシーが答える。
二人が同時期にマコーレー家に居付くように仕組んだのはユハたちである。カシーも一枚かんでいる上に長年の関係上ローラムが質問を投げかけるのがカシーであるのは理解できるが、羨ましい。
自分だって知っているのに。
答えられるのに。
羨ましいの語源が恨めしいだったか、恨めしいの派生語が羨ましいだったか、ごちゃごちゃと頭の中で二つの感情が混ざっていく。
「そう、六つ。僕の記憶が始まるのもそのころ。物心ついたのがそのときだと言われてきたけど、周りに比べて遅すぎるとは思ってた。覚えているよりも以前に何か大きな病気をして、薬を飲み続けなければならないんだと言い聞かされて、ずっと薬を飲んでいたけど、こんなの思いもしなかった。……これは、エルトン様も知っていたってことか」
ユハがこっそりと地上へ送った物をカシーが受け取り、エルトンの手を経てローラムに投与されていた。薬を飲ませてから人の元へと送り出されたからか、記憶を失くし自分は捨てられたと思い込んで疑心暗鬼になっていたローラムがエルトンの手からしか食事を受け取らなかったからだ。
事実を知り、ローラムは怒るかと思ったが、彼はそうかと呟いた。
「知ってたのか、エルトン様。僕の素性を知ってて、今まで善くしてくれていたのかな。……もしかして、脅していたりした?」
ユハとカシーは同時にぶんぶんと首を左右に振った。
エルトンを脅しても良かった。素性を明かさず、単なるかわいそうな孤児だと思わせても良かった。けれどそうしなかったのは、エルトンが古くから深幽境と関わりのあるマコーレーの人間であり、ローラムの母の願いでもあるからだ。
素性を明かした上で受け入れてくれる者に息子を託したい、と。
火蜜は見た目への変化はあまり期待できない品だ。人と同じになることはできるが、元々その者が持つ大きな特徴は引き継がれる確率が高い。特に深王の力を隠すには作用の強いものでなければならなかったので、ローラムの髪の色はそのままで、脳に負荷がかかってしまった。初めて火蜜を口にしたのが、幼過ぎたのも災いした。
エルトンに事情を打ち明けローラムを託したことは確かだが、脅迫まがいのことは何一つ行っていない。
正真正銘、エルトン自身の行いだ。
力説するユハたちにローラムが泣きそうな顔になった。
「……馬鹿な人だなあ。こんなに面倒なもの、放り出しちゃっても良かったのに」
至近距離でも聞き取れないほど、それは小さな呟きだった。
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