閉鎖病棟の怪
明智 颯茄
死臭の睡魔/1
無感情、無動のはしばみ色の瞳には、PC画面上のフォルダの群れが映っていた。
ひとつダブルクリックしては、またフォルダが出てくる。そうして、またダブルクリックすると、フォルダが現れる。
ファイルがなかなか顔を見せない階層の下に置き去りにされたデータ資料。高級な紺のスーツの片肘は、マホガニーの机の上で頬杖をついていた。
「仕事を把握するので、毎日手一杯だ」
やがてたどり着いたファイルを開ける。そこには、
――死亡。
の文字が永遠と並ぶ。いやその文字しかなかった。
机から手を離し、コーヒーカップを取ろうとした。深緑の極力短い髪の頭の中に、専門用語が習慣という名で浮かぶ。
脇を空ける。肩甲骨を使う。カップと自分の正中線を合わせる。
まるで芸術という動きで、琥珀色の液体が入った陶器は持ち上がった。
いつも通りにスティックシュガーふた袋を入れた糖分補給。
「糖分補給をしないと、脳疲労を起こして、いい動きはできん」
苦味と酸味が身の内へ落ち、温かみが広がる。
十一月。冬へと向かう窓の外。高層ビル群の合間に広がる癒しの庭。衰えを表す、黄色の芝生に枝に取り残された赤い葉っぱたち。
それらを眺めようと、カップはソーサーという玉座へ戻された。カチャッと心地よい食器のぶつかる音がする。
黒のビジネスシューズはほぼ椅子の真下へ入れられる。何気ない仕草だが、自分の背負った宿命を考えれば、怠ることはできない。
――正中線を崩さずに立ち上がる。
体を上下に貫く気の流れ。その通過点を体が反射的に再確認する。
――内くるぶしから足裏に一センチ入ったところ。
膝の内側。
これらを一本の線でつなげる。それが、正中線だ。
紺のスーツは一ミリのブレなくまっすぐ立ち上がり、膝の後ろで押された回転椅子のキャスターが絨毯の上を少しだけ滑った。次の動きへ自然と移る。
――正中線。腸腰筋。腸骨筋。足裏の意識を高める。
絨毯の上を歩き出すが、足音はせず、引きずる響きもなく、窓辺へと黒のビジネスシューズを長い足が連れてゆく。
都会のビルの隙間から、貴重な陽光がこぼれ落ちる。無感情、無動のはしばみ色の瞳にきらめきが差すと、防御反応で目は細められた。
増築され続けてゆく、別の棟を捉え、程よい厚みのある唇がかすかに動く。
「眠り病……」
こんなに穏やかな景色のはずなのに、その病名は、ペンキで真っ黒に塗りつぶされたような死臭漂うものだった。
店に直接客が足を運ぶ流通形態は衰退をたどり、ネット上を経由して、分子レベルまで分解した商品を届け、再び元へ戻すという技術まで開発された国。
世界でも屈指の先進国。それなのに抗えない、人の無力さを思い知らされる不治の病。いや違う。科学が見捨てた森羅万象の中に答えはあるだ。
焦るでもなく、悔しがるでもなく、ただただ、無感情、無動のはしばみ色の瞳は、あのわざと別の棟にされた病室の群れをじっと見つめる。
「俺だけでは間に合わん」
緩めておいたワインレッドのネクタイを少しだけ上げ、滅多なことでは寄りかからない椅子の背もたれから、白衣を取って袖を通す。
足音をひとつも立てず、立派なこげ茶のドアへ近づき、金のドアノブを回す。
すぐに小さな半透明の間仕切りが現れる。腰掛けていた女が素早く立ち上がって、無言で頭を下げた。
「中だ。席をはずす」
「かしこまりました」
しなやかな筋肉のついた長身は、白衣の裾を静かに揺らしながら、もうひとつのドアを出た。
清潔感を表す白い廊下を歩いてゆく。白衣を着た医師や看護師が通るたびに、誰一人もれず、自分へ頭を丁寧に下げてくる。
夕霧にしてみれば、その態度はまるで傀儡のような空っぽの心で、別次元で見れば、嘘偽りばかり。服従でもなく、尊敬でもなく、世襲制という習慣の延長上でしかない。
だが、そんな人々の姿も、無感情の自分にとっては、心に波紋をひとつも作らず、目の前にあることを淡々とこなす日々である。
別棟へと続く廊下の端へと近づくたびに、人通りが少なくなってゆく。
大きなシルバー色のドア。自動のものだが、特定の人間しか出入りが許可されていないエリア。
あのドアは向こうを守るためではなく、今歩いている、この平常な他の空間を守るためのもの。
解除のセンサーへと手を伸ばそうとしたが、白衣のポケットの中で振動が起き、ふと止めた。
「夜、もう一度くる」
陽が落ちれば、あの向こうの世界は危険度が増す。それはわかっていても、行かなくてはいけないのだ。
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