031 - 040
031 「影が在った」
影が在った。
形の無い其は酷く恐ろしく、幼い頃見た襖の先を思い出して私は得体の知れない其を影とした。
影が在った。
形の見えぬ其は指を差し追い立てて居るようで、私は浅い呼吸を繰り返しながら壁にすがった。
影が在った。
形の掴めぬ焦燥感に突き動かされた私は、其に凶器を振り上げた。
影が在った。
響いたのは何かが切り裂かれた音と滴り落ちる音、それとよく聞いていた音の塊。
影が在った。
其は私の形をしていた。
032 「糸だったもの」
糸を見つけた。
垂れ下がった糸は美しい乳白色だった。
糸に触れた。
細い糸はけれど千切れることはなく肌を滑る。
糸を手繰った。
引き寄せる糸は何処までも続いて途切れる気配が無い。
糸を巻いた。
糸は塊になって糸ではなくなってしまった。塊となった糸だったものは、重くてもう私には持てない。
そうして気が付いた。嗚呼きっと私には、糸のままで在った方が美しかった。
033 「暗闇の蛍」
夜、静まり返った暗闇の中で、私は蛍を見つけた。
あてない夜の暗闇の中で、淡い光がゆっくりと明滅している。
右へ左へゆらゆら漂い飛んでいる蛍に、私は呼び掛けた。
暗闇の中、ただ一筋の光の身で寂しくはないのか。
尋ねる私に、蛍は揺れながら私の耳元で囁いた。
「私は、暗闇の中の灯り、なのだから寂しくはないよ。暗闇が無ければ私は灯りではいられないのだから」
034 「虚空を見上げる少女」
虚空を見上げている少女に、私は声を掛けた。
何が見える?
何も見えない。
何も無いのに見上げているの?
何も無いから見上げているの。
私は一度、少女の視線の先を見つめた。何も無い。
正確に言えば、白い壁と四角い窓そうして青空が見えるが、代わり映えの無い景色が広がっているだけで、特筆するものなど何も無い。
私は少女へと視線を戻すと、もう一度尋ねた。
何も無いのに見上げているのはどうして?
何も無いことが安心するからよ。
035 「白色の部屋」
吐き気がするほどに真っ白な部屋は、何時だって私を責め立てた。
その部屋は無機質な部屋だった。無機質で無感情な部屋だった。
寸分の狂いもなく同じ一辺で形成された真四角な構造に、他の色彩の一切を拒む白色。
上下、左右、前後の壁からは常に淡い光が真っ白な壁を透して放たれ、空間に自然と落ちる影など何処にも無い。
部屋の中に有るのは、何も産み出さず、かといって何も廃棄される事の無い白色だけだ。
036 「私ではなかった」
忘れていた感情が私を呼ぶ。
瞼を閉じた世界が私を呼ぶ。
私には居場所はない。
私には愛がない。
私には何もない。
私を私として証明するには、私に見立てた私と、私を取り巻く全てに見立てた私を取り巻く全てのものが必要だった。
だから私は――。
忘れていた感情が私を呼ぶ。
瞼を閉じた世界が私を呼ぶ。
私を証明するための私と、それらを取り巻く全てのものを、私は見立てて作り出す。
見立てて、異なり、廃棄して。
見立てて、異なり、廃棄した。
居場所はあった。
愛はあった。
何かはあった。
それでも、それは私ではなかったのだ。
037 「早く、早く、早く」
記録を執ろう。
記憶を捕ろう。
早く、早く、早く。
書かなければ。残さなければ。忘れぬ内に。
筆を取って、紙を敷いて、インクを垂らす。
警報がなる。早く、早く。
警笛がなる。早く、早く。
記録を執ろう。早く、早く。
記憶を捕ろう。早く、早く。
書かなければ。早く、早く。
忘れる前に。早く、早く。
筆を取って。早く、早く。
滑らせる。早く、早く。
嗚呼、けれど。
けれども、此れが残したい物だったのか、もう随分と昔に忘れてしまった。
038 「時間に囚われたまま」
時間に囚われている。
誰もが知らぬ時間に、少女は囚われている。
どちらが先に生まれたか。
どちらが先に歩んだか。
どちらが先にそうあったか。
現在と言う点の上に立つ少女の、ずっと後ろに伸びた線の始まりを、少女だけが気にしている。
意味はないと知りながら、少女は時間に囚われている。
嗚呼、なんて無意味。囚われている間にもまた時間が過ぎ去った。
039 「廃棄処分」
壊れたくはありません。
少女の形を模したものが、雫を頬に伝わせて祈っていた。
死にたくはありません。
少女の形を模したものが、己に生があると疑わぬ眼差しで見つめていた。
生きたいのです。
少女の形を模したものが、埋まった核を温かいものと信じて願いを口にした。
そこに、命は無いのに。
――無機質な鉄が、何時ものように振り落とされた。
040 「きい、きい」
きい、きい。きい、きい。
天井から聞こえる音に、耳を傾ける。
きい、きい。きい、きい。
風で家が揺すぶられた時のような、梁が軋む音が辺りに響く。
きい、きい。きい、きい。
心地の良い音では無い。されども、耳に馴染んだ音だ。
きい、きい。きい、ぶつ。
音が止む。静寂と風の音。
私はまだここに居る。
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