『母』 第3話

 六月、七月と満足に降らなかった雨が、夏休みに入った途端、これまでの遅れを取り戻すように連日降り注いだ。

「雨続きで稲刈りがちっとも捗らん。去年はこんなことにはならなかったのに、これも温暖化のせいだ。ええ、まったく。世の中、だんだんおかしな方へ行っとる」

 八月の始めの頃、道端で玉井さんに挨拶をすると、そんな愚痴で返された。近所の田んぼがあらかた藁の海と化したのは、八月を十日も過ぎての事だった。

 今日も雨が降っている。お社の小さな階段に腰かけて、僕はぼんやりと雨を見ていた。

 僕はずぶ濡れだった。髪の毛も、シャツも、ズボンも、裸足のサンダルもびっしょり濡れて、肌に張り付く感覚が気持ち悪かった。でも、冷たい水が僕の体温で蒸れるというのは、つまり僕が生きている証だ。僕には心臓がある。呼吸をしている。冷たい雨の中で、命を実感している。

「また来るつもりだったのに、今日までほったらかしにしていて、ごめんね」

 ぽっつりとつぶやいて、腕に抱いた黄色と白の手提げ袋を、そっと撫でる。

中身のご神体からは何の反応もない。まあ、そうだろう。僕も期待はしていなかった。

「気にしなくてもいいのだよ」

 いつかのように、いつの間にか貞が賽銭箱の向こうに立っていた。前と変わらず地味な格好で、大人だか子どもだかわからない風貌だった。

「前にも言ったが、鳥居は迎えるためのものだ。拒みもしないし、誘い込みもしない。君が望むのであれば好きな時に出入りすればいい。その子も、それはよくわかっている」

 貞はステッキをくるりと一回転させて、賽銭箱の縁に腰かけた。普通なら罰当たりの行為かもしれないけど、ここでは許されるような気がした。そもそも、ご神体を勝手に抱いている僕に罰当たりなどと言う権利はない。

「貞、久しぶり」

「ああ、久しぶり。このところよく降るね。雨続きで退屈じゃないかい」

「そうでも、ないよ」

 去年の僕だったら、夏休みに外で遊べないなんて、貴重な一日を浪費したみたいでがっかりしていたところだ。本を読むのはその頃から好きだったけど、折角の夏休みは、やはり外で思いっきり遊びたい。朝から夕方まで公園や友達の家に集まって、また明日、とお別れする。夏休みとは、そうあるべきだった。

「どうせ晴れても、みんな、何かしらの習い事があるし」

 僕はつくづく、お母さんの予言に感服する。

『良太郎はきっと塾に行かされるよ。あそこの母親、塾に通わせるかどうかは決めていないけど見学だけ、なんて電話じゃ言っていたけど、そんなのは、無理やり連れて行くための方便だね。あそこは上の子が成績優秀で、親はそれが自慢でさ。下の子は柔道に一生懸命だから、勉強は人並みで十分だとか言ってたんだよね。でも、上の子が高校で音楽にハマッて進学のルートから外れそうだから、急に焦り出したんだ。こうなったら文武両道だとか理屈をつけて、下の子にも勉強をさせるしかない。それに子どもの少ないこのご時世、塾だって生徒が欲しいから、あの手この手で客を引っ張り込むよ。良太郎がいくら抵抗したってどうしようもない』

 まったくその通りだった。良太郎君は、塾に行きたいだなんて絶対に言わない。それなのに行くことになった。聞いたところによると、そこは嶋田の夏希さんも通っているところで、この町では一番成績の良い、つまり一番時間のかかる面倒な塾だそうだ。学校と遊びと柔道の三色だった良太郎君の生活から、遊びが消えた。

 僕も同じだった。

「美木正。あんたも、あんな奴に負けるんじゃないよ。これまでも成績だけは勝っていたんだから、追い越されると本当に子分になってしまうわよ。同じ塾に通わせるとどうせ遊ぶだろうから、別のところに行こうか。勉強ばっかりじゃつまらないっていうのなら、他の習い事もやるんだね。そういうのは、強みになるよ」

 外国人教師の英語塾。町はずれの習字教室。あっという間に決められた。

「君は、イヤだと言わなかったのかい」

 僕の話を聞いてくれた貞が、静かに尋ねた。それは本当に静かで、穏やかな声音で、決して僕を責めているのではないのが伝わってきた。

 雨が降る日は、土や草の匂いが普段よりも強くなるものだ。貞はすぐ目の前にいても、あまりにおいがしない。それが、何だか心安い。

「言っても、どうにもならないもの」

 ネットで検索した英語塾へ僕を連れて行こうとした時、お母さんはしっかりと釘を刺した。

「放課後とか、休日とか、何もしないでプラプラしているから、嶋田のおばさんに取っ捕まるんだよ」

 お母さんの勧める塾に行くのか、おばさんのお城の子であり続けるのか。選択は二つに絞られていた。

「お母さんのやり方は、それは、イヤだったよ。だけど、おばさんの言いなりみたいに思われるのはもっとイヤだったんだ」

 ご神体を包む手提げ袋。お母さんが縫ってくれたこれを、捨てたつもりはない。これはこの子に「あげた」んだ。

 お母さんが帰ってきたあの日、僕は正直に答えた。

「ところで美木正。手提げ袋はどうしたの? 入学前に縫ってやったヤツ。今は使ってないの?」

 お母さんは最初から、それを探すために僕の部屋に来たのだろうか。僕とお母さんの繋がりの品を。

「あれは……あれは、他の子にあげたんだ」

「良太郎?」

「違う。もっと小さい子。そういうの、何も持ってなくて、かわいそうだったから」

「……ふうん」

 鼻では笑わなかったけど、限りなくそれに近い息を吐いて、お母さんは僕の部屋を出た。

 そして隣の、お父さんの部屋へ入った。かつては夫婦で過ごしていた部屋に。一拍遅れて、僕もその後について行った。お母さんは、机の上に飾ってあった写真立てを手に取っていた。僕の入学式の時に撮った、おめかししたお母さんの写真。まだ黒髪だった頃の写真を、茶髪のお母さんは、そっと伏せて置いた。

「もう情のない人が、未練がましく私の写真を残している。なのに息子は、私との繋がりをあっさりと手放している……」

 それは僕に聞かせるつもりの言葉ではない、と思う。きっと、胸に湧いて止められなかった本音なんだ。強気に振舞っているお母さんの心に傷がついて、そこから弱気が零れてしまった一言だ。

 その姿を目の当たりにして、僕の胸にも、同じような傷がついた。塾を断れなかったのは、そういう理由もあったからだ。

 夕方になって、お父さんが帰ってきた。お父さんは不意打ちの来訪者に驚いて、いつにない険しい顔をして、僕に命じた。

「お父さんは、ちょっとこの人と話がしたい。美木正、お前すまないけれど、晩御飯は嶋田さんのとこで食べてこないか」

「あそこはダメよ」

 すぐにお母さんが口を挟んだ。

「あんなところに預けるのは良くないって、あなたもわかっているでしょう。でも、そうね。二人きりで話す必要はあるわね」

「いいよ、二人とも」

 僕は言った。力はなかったけど、しっかりと言った。

「外で話してきてよ。僕、晩御飯は一人ででも作れるから」

 二人は顔を見合わせて、結局、そうした。それが一番都合が良かったからだ。僕にしても、同じ家の中で二人の会話を聞くのは、堪えられそうになかったからだ。

予感は正しかった。

 夜遅く、お父さんが一人で帰宅した。僕は自分の部屋のベッドで、音だけを聞いて、お父さんの挙動を想像した。まっすぐに台所に向かって、冷蔵庫を開けて、ビール缶の蓋を開ける音がした。何度もした。普段は晩御飯の前に一本しか飲まないのに、その日は少なくとも三本は飲んでいたと思う。翌朝空き缶を数えたら四本だった。

 それっきりお母さんはまた出て行ったのかと思いきや、僕が学校から帰って来るのを待ち受けていて、英語塾の手続きに連れ出された。お母さんは町のホテルに宿泊しているらしく、それからも時折僕の前に現れる。それ以来、僕の周りは色々なものが変わった。

「今日、ここに来たのも、そのせいなんだ。……今朝、嶋田のおばさんが僕の家に来て、ずっとこんなことを言っていたんだよ」

 貞は黙って聞いている。

『ミキマサ君。ミキマサ君。いるのでしょう。自転車があるわよ。あなた、最近ちっともお城に来てくれないじゃないの。いいえ、責めているわけじゃないの。ええ、無理に来る必要はないのだけど、ね、あんまり何日も来ないものだから、みんな心配しているのよ。健太君なんか特にさみしがっているわ。何か忙しい用事があるにしても、一言ぐらい言ってくれてもいいじゃない。私たちは家族。前にも言ったでしょ。私はあなたのお母さんなのよ。何でも打ち明けてって言ったじゃない』

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