烙印
狸汁ぺろり
第1話
背が高くて、ふっさりとした柔らかい髪の毛を頭の後ろで結んでいて、先生がチョークで文字や図を書く度に大きく揺れる。あんな髪型をポニーテールっていうらしいけど、本当に馬の尻尾みたいだ。遠足で本物の馬を見たことがあるからわかる。僕――
数式を書き終えて「はい、わかりましたか?」と笑顔で問いかけられると、僕は自分が指されたわけでもないのに、どきどきする。
先生の声は小川みたいに透き通っていて、歌も上手だ。きっと音楽の先生よりも上手だと思う。でも、ピアノはまだ練習し始めたばっかりで、合唱の練習のために先生がピアノで伴奏をすると、時々変な音を出して、みんなに笑われている。
みんなに笑われると、先生は少しだけ怒ったふりをして、自分でも笑う。「次はもっと上手に弾くからね」と、すごくキレイな笑顔になる。それを見て、僕も笑う。
だけど、先生は時々、すごく怖くなる。大きな声は出さないし、ゲンコツをすることもないけれど、目が怖くなる。いつもは水晶の玉みたいにキラキラした目をしているのに、(水晶の玉なんて見たことないけど、なんとなくそんな感じがする)、怒るふりではなく、本当に怒った時は、給食のお皿みたいに真っ平で固い目になる。
僕自身はまだ一度も、そんな目を正面から向けられたことはない。その目を向けられるのは、いつも良太郎君だ。
「舞田君、どうしてこんな事をしたのですか」
怒っていても先生の声は透き通っているけれど、硬い。ガラスみたいだ。
お皿の目で見つめられた舞田良太郎君は、俯いてもじもじしている。柔道をやっている良太郎君はとても体が大きくて、時々中学生にも間違えられる。腕の太さが僕の脚と同じぐらいある。そんな良太郎君が俯いてしゅんとしていると、僕は悲しくなる。
僕らの教室はしぃんと静まり返っている。クラスメイトのみんなも黙り込んで、物音を立てないように、静かに様子を見守っている。
午後の授業が始まる二分前だ。隣の四年一組からは賑やかな声が響いて来る。反対側の三組からもおしゃべりが聞こえてくる。三組のおじいちゃん先生が、「そろそろ席につきなさい」と大きな声で注意している。一組のおばちゃん先生はまだ来ていないみたいだ。静久先生はどのクラスの先生よりも早く教室にやってきて、授業の準備をする。みんなとおしゃべりもしてくれる。
僕らはみんな静久先生が大好きだ。だから、こんな時は、とても悲しい。
「舞田君、先生の目を見なさい」
先生に言われて、良太郎君は顔を上げて、先生の目を見た。やっぱり良太郎君は強い。今の先生は、僕なんかは隣で見ていても怖いぐらいなのに、良太郎君はちゃんと正面から見返せる。
「どうしてこんな事をしたの」
先生は手に持っていたボロ布を良太郎君の前に突き付けた。引き裂けたボロ布は、さっきまで手提げ袋だったものだ。僕の手提げだ。ドングリの刺繍が入った、黄色と白の縞模様の手提げだ。でも、今は縦に引き裂かれて、ただのボロ布になっている。
「この手提げが繋木君の大事な物だって事は、知っているでしょう」
「……はい」
良太郎君は蚊の鳴くような声で返事をした。
もちろん、良太郎君は知っている。その手提げが僕にとって、とても大事な物だという事を、良太郎君は先生よりもずっとよく知っている。学校に入ってから、ずっと、ずっと、僕はこの手提げ袋を使い続けている。もうすっかり汚れて、四年生が使うには少し恥ずかしいデザインだけど、それでも僕は使い続けた。
「大事な物だと知っていて、どうしてこんなひどい事をしたの」
先生は何度も同じことを聞く。でも、良太郎君は答えない。
答えられないに決まっている。どうして、と聞かれても、理由なんてないのだから。
机の横に掛けてあった僕の手提げを良太郎君が取ろうとした時、机のフックから上手く取れなくて、つい力を入れ過ぎて破ってしまっただけなのだから。
「約束の本を持ってきたから、手提げから出して持って行っていいよ。『狸ばやし』っていう物語。とっても面白かったよ」
そう言ったのは僕だ。自分で出せばよかったのに、良太郎君の方が机に近かったから、ついそう言ってしまったんだ。手提げから落ちた『狸ばやし』の本は今、僕の机に乗っている。表紙に床の埃がちょっぴりついている。
「わざとじゃないんです」
良太郎君がぼそっと答えた。普段の良太郎君には似合わない弱々しい声だったけれど、静まり返った教室の中でその声はとても響いた。
先生の耳にも大きく響いたのだろう。先生の声が一段と硬く、鋭くなった。
「言い訳をしてはいけません」
本当の事を言ったのに、怒られた。
良太郎君がまた俯きかける。すると、先生は背を屈めて、良太郎君の肩に両手を置いて、ぐっと顔を近づけた。先生の目と、良太郎君の目が、とても近くで見つめ合っている。良い匂いがするだろうな、と僕はこんな時なのに妙な事を考えた。
「舞田君、いいですか? お友達の事を大事に思っているのなら、お友達の持ち物も大事にしないといけません。あの手提げは、繋木君のお母さんが手作りしてくれた、世界に一つだけのものなんです。決して粗末に扱ってはいけないものなんです。わかりますか?」
知っているよ。良太郎君は、その事をよくわかっているよ。
「なのに、どうして乱暴な事をしたの」
ああ、また話が戻った。
どうして、って聞かれても、答えられないのに。わざとじゃないのに。
先生はいったい、どう答えて欲しいんだろう?
僕にはわからない。良太郎君もわからなくて、黙っている。みんな、みんな黙っている。
キンコンとチャイムが鳴って、両隣から日直の号令が聞こえて来た。
「……反省はしているの? 悪いことをしたって、ちゃんとわかっているの?」
先生の声が柔らかくなった。
「はいっ」
良太郎君は、真っ直ぐに先生の目を見返した。とても強い目だ。
先生は大きく頷いて、僕の方を見た。その目は、いつもの水晶の目だった。だけど、僕の心は悲しいままで、きっと、くしゃくしゃの顔をしていたと思う。
いつもそうなってしまう。泣きたくないのに顔が歪む。僕は、弱い。
「繋木君に謝りなさい」
先生が良太郎君の背中を軽く押した。
――そんな事を言わなくたって、良太郎君はちゃんと謝れるのに。
良太郎君が僕の前に来た。先生が、クラス中のみんなが、僕たちを見ている。僕たちは見張られている。
「手提げをやぶって、ごめんなさい」
良太郎君が、僕の目の前で、深く、深く、頭を下げた。大きな体が縮こまっているように見えた。……らしくないよ、そんな姿は。僕は目が熱くなって、目蓋を閉じて、同じように頭を下げた。
「……ううん、ううん」
もっと、ちゃんとした返事を言わなきゃいけないのに、何も言えなかった。口を開けたら涙が零れそうで怖かった。目元が痒くなって、指でこすった。鼻も啜った。本当はもっと色々な事を言うべきなのに、弱い僕は、何も言えない。顔がどんどんくしゃくしゃになっていくのを感じる。五月なのに、体が寒い。
「繋木君、大丈夫?」
先生が優しく声をかけてきた。目も優しい。
でも、辛い。恥ずかしい。一刻も早くこの苦しさから逃れたくて、必死に声を絞り出した。
「……は、い」
泣き出す一歩手前、みたいな声だった。泣きたくないのにそうなった。
先生は頷いて、わざと明るく言った。
「舞田君、ちゃんと謝れましたね。次からは気を付けるんですよ。繋木君、辛いけど泣き止んで、ね。さあ、みんな席について。授業を始めますよ」
やっと、終わった。
先生が教卓に戻っていく。みんなもそれぞれの席について、黙って教科書を取り出した。いつも賑やかなクラスが沈んでいるのは辛いけど、席についてしまえば、それ以上誰にも恥ずかしい顔を見られずにすむ。
けれど、良太郎君まで、僕の顔を見ずに自分の席へ戻っていった。僕はずきん、と心臓が痛くなった。
僕が弱いから、何も言わないから、嫌われたのかな。また悲しくなって、五時間目の社会の授業の間、一度も顔を上げられなかった。先生は普段と変わらないように授業を始めたけれど、僕と良太郎君には問題を当てなかった。
この時は、これで解放されたと思っていた。けれど、その日の授業が全部終わって、帰りのホームルームの直前、先生は僕と良太郎君を教卓の前に呼びよせた。先生はさっきのボロ布を教卓の上に置いた。
「この手提げは明日までに先生が直しておきます。それまでの間、舞田君は繋木君に自分の手提げを貸してあげなさい」
どきっとした。良太郎君の手提げは紺色で、僕のより大きくて、かっこいい。大きな本も何冊も持って帰れる。
だけど、僕にそれを貸しちゃったら、良太郎君はどうするんだろう。
「わかりました」
良太郎君はきっぱりと答えた。そして、自分の机に戻って、紺色の手提げを持ってきて僕の前に出した。
この時、やっと僕らは目が合った。良太郎君は強い目をしていた。だけど、今度は僕の方が目をそらしてしまった。強い目が眩しくて、自分の弱さが痛かった。
「ごめんね、繋木君。今日はそれで我慢してね」
どうして、先生が謝るのだろう。
どうして、僕が我慢するのだろう。
濡れ衣を受け入れて、自分の手提げを使えなくなって、我慢しているのは良太郎君の方なのに。
ホームルームが終わると、良太郎君はすぐに柔道クラブの練習に行ってしまった。
僕は紺色の大きな手提げを持って、一人で家に帰った。大きな手提げ袋は、手にかかる重さも、足に当たる高さも、普段のものと違っていて、不思議だった。とても大きくてかっこいいけれど、僕には似合わないな、と思った。手提げの中には、良太郎君に貸してあげるつもりだった『狸ばやし』がぽつんと転がっている。
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