幕間 初版未公開手記より

赤い名前の子供

 1277年にこの原稿を見つけた時、正直処分するか迷った。これは、タミーラクから数回に分けて聞いた、彼の体験を自分用にまとめたものだ。

 彼が恵まれた生まれ育ちであること、贄として幸運な身の上であろうことは以前にも述べた。けれど、それは一面的な事実に過ぎない。


 彼の幸福は常に〝食材として飼育される〟ことを前提としていた。


 また、これを公開することは、おそらく当時のトルバシド家の人々に不名誉を負わせることになるだろうし、それを彼らが許すとも思えない。

 だがまあ、せめて保管はしておこう。いつか何かの資料になるかもしれないから。



 編者はこの原稿とイオの但し書きを見つけた時、迷いながらも初回出版時には掲載しない措置を取った。考えが変わったのは、本書の出版後、さまざまな反響を受けてからである。イオはここに書かれた人々の名誉を気にしてはいたが、1350年代の今となっては、名前が挙がっている人物は全員死没している。


 彼が資料的価値をかんがみて保管していた通り、この記録は「ザデュイラルにおける贄候補がどのように遇されるか」という一つの貴重なサンプルだ。

 これはトルバシド侯爵家コガトラーサの場合である。他の貴族や平民、有力市民であれば、また事情も異なるだろうが、その多くは家庭内で秘されて、表に出ることがない。イオがこの話をまとめていたのは学術的な僥倖ぎょうこうであった。


 近年の研究などから、貴族の贄候補は基本的に兄弟たちと変わらない扱いを受けることが分かっている。むろん、様々な生け贄スタンザの印をつけられながらだが。

 贄を獣のように檻に入れて育てる例もあるが、それは主に下層階級の場合だ。のびのびと大切に育てられてこそ、殺して食らう価値があると考えられている。



「最初の茶話さわかいで、俺が生え変わりの祝いにウェロウを食った話、しただろ。友達を食ったから自分も食べられるんだって思ったから、俺は贄になることを納得した。でもな、少し大きくなると分かるんだよ、父上も母上も兄上たちも姉上も、みんな自分の友達を食って大きくなった、なのにこの家で食われなきゃいけないのは俺だけだ、ってな。この世界には食うやつと、いつか食われるやつがいて、みんなは食う方、俺は食われる方。なんでだ、ずるい、おかしい――ずっとそう思ってたんだ」


 七歳、あるいは八歳の時。タミーラクは今ひとつ正確には覚えていないが、ある日の食卓でたまらなくなって泣き出した。贄になるのは嫌だ、と。

 最初、父はやわらかく諭そうとした。


「タミラ、それがお前の役目だからだよ。お前は陛下の贄になるために生まれてきたのだ。コガトラーサは三十四年に一度……」

「やだ! どうして!?」


 がんぜない息子に、父ハジッシピユイはため息をついた。


「では分かるまで、〝地下〟で反省するがよい」


 父が食卓を立つことは滅多にない。その上で、彼は乱暴に息子の腕をつかんだ。これまでタミーラクは、そんな風に扱われた試しがない。ウェロウの一件を別にすれば、ハジッシピユイは末の息子をいつも優しく甘やかしていたのだ。


「地下? 地下ってなんですか、父上」

「行けば分かる」


 父はそこがどんな場所か説明しようとしなかった。これがただの脅しなら、この時点で事細かにそれが何か説明しただろう。だがそうでないということは、もうタミーラクを地下へ連れていくことは、彼の中で決定済みということだった。


「待ってください、あなた!」


 母が止めに入った。いつになく青ざめた表情が、より事の深刻さを物語る。


「本当にあんな場所へお連れになる気ですか? 仮にもあなたや私、トルバシド侯爵家の血を引く子ですよ!」

「食事中だ、座っていなさい。この子がタンタのように〝もの〟にならないなら、お前にはもう一人産んでもらわねばならんのだ。健やかであるために、食事は不可欠だ。私はこの通り用事があるから、気にせず食べていなさい」


 ハジッシピユイの意思は断固として変わらない。母はあきらめて座り直し、兄たちもそれにならって食事を再開した。父の前では、誰も助けてくれないのだ。

 トルバシド侯爵家当主にして宮廷料理長にして父であり夫であり、社会的にも、精神的にも、腕力においてさえ、彼はこの場を支配する頂点なのだから。

 その威は海や山のように、太陽のように、コガトラーサの全員にとって絶対だ。


 タミーラクが痛がるのも構わず、ハジッシピユイは息子を連れて屋敷の片隅にある古い扉を開けた。そこは下へ続く長い螺旋階段がある、細長い縦穴だ。

 家にそんな場所があるなど初めて知った。いったい何があるのか、恐ろしいと思っても腕を引く父の力にはさからえない。その時にはさんざん泣きじゃくりながら、タミーラクは必死で謝っていたが、その声は欠片も父に届いていないようだった。


 階段の底にある扉が開くと、よどんだ冷たい空気が流れ出る。部屋に入るとすぐ前に鉄格子の小部屋があって、獣を入れるのに使っていたのだろうかと思った。

 父がその小部屋を開け、自分と一緒に入った時、愚かしくもまだ安心があったものだ。ここへ閉じ込められるとは、まだ彼は信じていなかったから。


 だが実際はどうだ。

 ハジッシピユイは壁に設置された枷の一つを取って、それをタミーラクの首にはめた。がちん、と絶望的な音がして、予想外の重みにバランスを崩してしりもちをつく。その間にハジッシピユイは外へ出て、扉を閉めた。


 鉄と鉄がぶつかる、ぎぃぎぃと耳障りな、胸に突き刺さる嫌な音。

 がちゃりと、鍵をかける音がする。

 父が離れたぶん暗闇は濃くなって、このまま置いていかれる予感に震えた。幼い角はまだ感覚が弱く、灯りのない暗がりでは何も見えない。


「ちち、うえ」

「一晩よく反省するがいい。お前の役目をあらためて考えよ」


 ハジッシピユイは何のためらいも見せずに去った。

 後にはごつごつと固くて不快な石の床、臭くてよどんだ空気。夜の海に沈むような深い深い真っ暗闇は、自分の角さえも分からない。

 それは今まで、タミーラクが与えられてきた住まいや寝床からはあまりにかけ離れていた。これに比べれば、反省部屋はまったく綺麗なものだ。牢獄より何倍も広くて清潔で、何より窓があって明るかったし、絨毯もクッションもあった。


 いくら声をあげても誰もこない。寒くて手足がかじかむ。目を開けているのに、まぶたの裏より真っ黒で暗い。鉄の首輪が重くて痛くて息苦しくて、中途半端な鎖のせいで、横になることもできない。痛い。立っても座っても、どう動いても、体が床や壁や鉄格子にぶつかり、こすれて、うすくうすく肌が削れる。誰もいない。こわい。どれぐらい時間が経った? もう一晩? それとも三日? いつまでここにいればいい? 本当に父はここから出してくれるのか。お腹が空いた、喉が渇いた、気持ち悪い。苦しい。どうして自分がこんな目に?


――贄に出す用スタンザの子だからだ。


 唐突にタミーラクはそう理解した。自分と他の家族との決定的な差。そうだ、食堂を出る前、父は何と言っていた?


――この子がタンタのように〝もの〟にならないなら、


 タンタとはタンタサリッサ=、同じ赤い名前を持つ兄だ。

 彼は幼少期に大病を得て半身不随になり、「これでは使い物にならない」と、贄候補から降ろされていた。

 だから、父と母は新しく次の子供を、タミーラクをもうけたのである。


〝贄になって食われないと言うのなら、お前などいらない〟。


 自分の価値が、この家で大切にされる理由が何か、初めて悟った。

 生きていくには二十歳で死ぬことを受け容れるしかない、と思い知った。


 永遠とも思える暗闇の果てに光が差した時、すがりつこうとして首枷にはばまれた時は、いっそう惨めだった。

 鎖が鳴り、泣き続けた喉が鉄の輪にぶつかってまた痛む。がちんと音がして体が軽くなると、枷を外された喜びよりも、見捨てられる恐怖でいっぱいだった。


「ちちうえ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいもうさからいませんいうことききますちちうえ、ちゃんとにえになってしにます、だからだからだから」


 真っ青な顔でガタガタ震えながら、かすれた声で訴える息子の言葉を、あの男ははたして聞き届けたらしかった。

 ハジッシピユイは黙って頭を、ついで角を優しくなでると、衰弱した我が子を抱きかかえて地下を出た。


 ただちにタミーラクは体を洗われ、温かい食事と寝床を振る舞われた。昨日地下に送られる前とまったく変わらぬ生活、待遇。

 だがもう、取り返しのつかない違いがそこにあった。


 あの地下は、盗みを働いたり人を傷つけたり、罪を犯した使用人を捕らえるための牢獄だった。そんなところに、本来なら侯爵家の子供が送られるはずはないのだ。

 だから母は一度は止めようとして、しかし結局はあきらめた。


 タミーラクは贄に、【肉】になるから、そんな恥ずべき屈辱を父に負わされてものだ。そのことを使用人たちも全員知っているのに、黙って彼の体を清め、食事を運び、部屋を掃除する。彼らの沈黙は、そのまま牢獄の床に似ていた。


 地下から出てしばらくは、母がつきっきりで慰めてくれたことを覚えている。それもかえって惨めな気がした。自ら腹を痛めて産んだ子供を死なせなくてはならない、そのことに彼女自身苦しんでもいたのだろう。だが無力だ。


 しかし、力とは何かと問われれば、それは魔法のような、誰にもどこにもありえない力だった。贄を出さなくても良い世界は、ザドゥヤに居場所のない世界だ。

 人を食べるか、食べられるか、飢えて死ぬか。


 自分は何も分からないうちに、友達を食べた。

 二度目に【肉】を出された時、拒まずに食べた。

 三度目の【肉】も食べた。

 やがて食べないという選択肢を捨てた。

 そして【肉】を食べる人たちの中で、次の【肉】になる順番をずっとずっと待って生きていく。死にたくはないから、生きられるだけ生きたい。


 それが家畜スタンザの人生でも。


 たった一人、自分を人間として扱ってくれる友達がいたから。

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