第9話  君がいないとダメらしい

眠れない。

私はベッドの中で身悶えする。一度頭が“何かを考える”モードに入ってしまうと、目をつぶっても全然ダメだった。“何も考えないようにしよう”としても、そう意識した時点で“考えて”しまっている。だから私はもう自主的に寝ることを諦めた。


「ニックは今何してるんだろ」


ここ数日、私はあいつのことが気がかりだ。

前から私にちょっかいをかけてくることはあったけれど、最近は妙によそよそしいと感じる。そしてよくよく考えてみると、今までもニックには不定期で“そういう”時期あるような気がした。

私達の付き合いは結構なもので、もう3年以上になるのだから、そりゃあ時々変な感じになる事はある。ただこれまでのことを思い返してみると、ニックの言動がおかしくなった時というのは大抵何かしら血生臭い事があった時の前後なんじゃないかという気がした。


「子牛を入荷した時もそうだなぁ……」


妙にそれまでよりも私に構いたがり、場合によってはセクハラに片足突っ込んでいるような言動をとる。仮にそれが何らかの精神的ダメージを緩和するための行いだとしたら…。


「考えすぎなのかな……でも」


私は以前、お客様から“オアシスのブギーマン”の話を聞いた。そのブギーマンとやらはオアシスを裏切ったり、物を盗んだり、その他何らかの損失を与えて外へと逃げた者達を“処刑”してまわるのだという。その正体はよくわかっていないというが……


「そんな仕事、武器と車がないと務まらないと思うんだよね……」


ここでしばらくダイナーをやっていて、“オアシスに身を置き車を所有している人物”を私はニックの他に知らない。もしかしたら外部の賞金稼ぎに依頼しているのかもしれないし、一概には言えないのだけれど…。


「ニックってブラックアウト以前は商社で働いてたらしいけど、何故かやたらと銃の扱いに慣れてるんだよなぁ……」


この国は元々世界一の銃大国だったから、銃を所有している人は多かった。狩りや競技、カスタムや自衛、様々な用途で銃は身近だったから、扱いに慣れた人も珍しくないだろう。だけど……


「ニックの場合、単に銃に詳しいとかっていうんじゃなくて、実際に武器として使うことに慣れているというか」


メルと出会うきっかけになったバイカー連中襲撃の時もそうだったけど、“実際に銃で人を撃つまでの手順”みたいなものを淡々と組み立てる事ができるのは何故なのか、それが気になっていた。


「知らない方がいいのかな。でも、もしニックが何か辛い思いをしているんだったら……」


私にできることはないのだろうか。

あいつは皆が思っているよりもずっと繊細で優しい人のはずだから。

…。

……。

あ……。

なんかお腹痛くなってきた……。





それから数時間後……

朝日が上り、いつもの一日が始まるという頃、私は……。


「う゛ぅ゛ぅ゛ぁ゛あ゛あ゛……」


トイレに引きこもっておりました。

そろそろ店を開ける準備をしなくてはいけない時間なのに、今はとてもここから出られそうにない。


「あ゛あ゛ぁ゛……膝が笑ってるぅ……」


最悪のタイミングで腹痛を催した私はろくに睡眠もとれないまま、トイレとベッドを何度も往復する羽目になっていた。

薄い部屋着姿のまま断熱性が最悪のトイレに閉じこもっているものだから、嫌な感じの寒気が止まらない。砂漠の朝は寒いのである。


「あの……ラケルさん?だいじょうですか?」


ドアの向こう側からシャルロッタの心配そうな声がする。


「ぁ、うん。ごめんね起こしちゃって……バタバタうるさかったでしょ?」

「いえ、えっと、おみせはどうしますか?」

「そうだなぁ……」


今日は金曜日だから、いつもなら朝から店を開けている。でも、この調子じゃあカウンターに立つのは無理そうだ。かと言ってシャルロッタはそこまでメニューのレパートリーが多くないし、何より彼女一人に店を任せるのはあまりに酷だ。


「ニックがいればなぁ」


いない人をあてにしてもどうしようもない。いっそ今日は休みにするという手もあるけれど、そこから生まれる損失を考えるとなかなか踏ん切りがつかない。


「いつもラケルさんにおせわになっていますから、きょうはわたしががんばりますよ」


はい、その気持ちは大変ありがたいです。

でもなぁ……。


「とりあえずチリコンカンの準備をしておいてもらってもいいかな……?」


当店のチリコンカンは豆と刻んだタマネギを調味料と煮込んだだけのシンプルな料理で、材料も比較的に簡単に調達できることからダイナーで最も(付け合わせを除いて)安いメニューとして多くのお客様に親しまれている。


「わかりました。ラケルさんはおだいじにしてくださいね」

「ありがとう……」


ちょっと泣きそう。

シャル、君は本当にやさしいね……。





「少年、そろそろ起きた方がいいぞ」

「あ……」


硬い床の上で寝ていたから、目覚めは悪かった。倦怠感に抗って体を起こすとそこにはガスマスクの男がいる。


「おはよう。よく眠れたか」

「あぁ、いや……」


まだ頭がよく回らないが、とりあえずガスマスクの言葉には反応しておく。


「そうか。まずは水を飲んだ方がいい」


たしか“ファイバー”とか名乗っていたこの男、彼は水筒からコップに水を注いでこちらに手渡してきた。


「ありがとうございます」

「君の頭が冴えないと、話が出来ないからな」

「そうですね」


そうだ。この男は助けた事の見返りとして、話が聞きたいと言っていた。でも、それほどの価値がある事は知らないと思うけど…。


「えっと、じゃあ自己紹介からですね。俺、アントンっていいます」

「アントン……中欧系か?」

「はい、そうです」

「そうか、俺のルーツは東欧なんだ……っと早速脱線したな、続けてくれ」

「俺は親元を出て学校に通っていたんですけど、ブラックアウトで頼れるものがなくなって……それでオアシスに来ました」

「なるほど、苦労したな」

「いえ、俺なんかマシな方ですよ。特筆すべき資格や技能が無かった俺は銃器技師の見習いになりました……まぁ雑用みたいなものなんですけど」

「そうか。どんな銃を取り扱っていたか、教えてもらうことはできるか?」

「はい。一番多いのは治安部隊のコルト9mmとモスバーグM500です。他はほとんど低価格ブランドの銃、いわゆる“サタデーナイト・スペシャル”が大半ですけど、ガバメントのクローンやレミントンM870、Kel-Tec SUB-2000、ルガーLCP、グロッグ19、タウラス85……大手メーカーの格安モデルも結構見ましたね」

「なるほど、まぁ民間人が持っている銃ならそんな所だろうな……他にはどんな仕事を?」

「最近は弾薬のハンドロードにも手を出そうとしていました」

「……詳しく聞かせてくれ」


ファイバーの様子が少し変った。


「今から二ヶ月くらい前なんですけど、オアシスに専用の機材、リローディングキットと大量の雷管が運び込まれてきました。噂では対立関係になった集団から奪って来たらしいです」

「……奪って来た?」

「銃と弾薬が何よりも重要である現状において、そんな機材がまともな取引で入手できる方がおかしいですから」

「あくまで誰かの推測か」

「まぁ、そうなんですけど。ただ、オアシスに“そういう荒事専門“の人がいるのは恐らく事実です」

「なるほど」


ファイバーはしばし考える素振りを見せた後


「雷管のメーカーはわかるか?」


そう訪ねてきた。


「ウィンチェスター製でしたね。全部かはわかりませんが」

「対応する口径は?」

「.38スペシャルです。ハンドロードという都合上、専用の競技用弾薬を自作する際に多く用いられますから」

「ハンドロードの入門弾薬だな。オアシスとしては他のメジャーな弾薬にも対応させたいんじゃないのか?」

「そうですね。そのために有り合わせの切削機械を使って他口径用のダイスを作ろうとしていたんですけど、中々上手くいかないみたいでした」

「ダイスは精密さが命だからな、自作は難しいだろう」

「さっきから詳しいですけど、ハンドロードの経験があるんですか?」

「俺は元々銃器技師だった。ブラックアウト以前からな」

「大先輩じゃないですか!?それなら先に言ってくださいよ!」

「先入観のない状態で話を聞きたかったんだ。とはいえ悪いことをしたな」


ファイバーは律儀に頭を下げる。


「いや!そんな、いいんですよ!」


突然の謝罪にアントンはあわてたが、ファイバーはどこか楽しそうだ。ひょっとしたら少しからかっているのかもしれない。


「何はともあれ、君の話を聞けて良かった。ためになったよ」

「はぁ、それはどうも」


こんな話が命を助けてもらった見返りだなんて、本当にいいのだろうか……。





シャルロッタに店を開けてもらってから1時間が過ぎた頃、聞きなれたエンジン音が私の耳に入ってきた。ニックの車だ。


カランカラン……


「よう、シャルロッタ!……ラケルは?」

「ラケルさんはいま、たいちょうがわるいみたいです」

「あら、大丈夫か?」

「あまりだいじょうぶではないとおもいます」

「それでこんな朝からシャルロッタがカウンターに立っているワケか。ラケルは部屋か?」

「トイレです」

「あぁ……なるほどね。ちょっと横失礼」


ニックの足音が近づいてくる。

出来ればこっち来てほしくないです。


「ラケル、大丈夫そうか?」

「ぜんぜん……」

「そうか、じゃあ俺も手伝おうか?」

「え?」

「幸い仕事のスケジュールには余裕があるんだ、シャルロッタ一人じゃ大変だろ」

「いいの……?たいして給料とか出せないけど」

「俺達の間柄だろ、元気になったら手料理食べさせてくれ」

「ん、わかった……」


こういう時のニックは頼りになる。

本人いわく“甘いだけ”らしいけど。


「シャルロッタ、俺も手伝う事にしたよ」

「ありがたいです」

「じゃあ、何から手を付けたらいいかな?」

「そうですね……わたしはチリコンカンをにこんでいるので、ニックさんはジャガイモをうすくきってもらっていてもいいですか」

「あぁ、わかった」


店主不在の営業、何事も無いといいんだけど……。





カランカラン……


今日一人目のお客様がやってきた。ニックは作業していた手を止め、入口へと体を向ける。


「いらっしゃいませ!ダイナーへようこそ!」


ご来店なさったのは薄汚れた野球帽を被ったお一人様だ。彼はボックス席に座るやいなや


「水くれ」


一言吐き捨てるように言い放った。


「コップでお出しいたしますか?」

「他に何があるんだよ」


トゲのある言い方であったが、こんなのニックは慣れっこだ。


「お客様が容器をお持ちであれば、そちらに入れてお持ち帰りして頂く事もでき……」

「ない」

「……かしこまりました」


ニックは接客用の作り笑いを浮かべたままカウンターに戻ると、鍋をかき混ぜているシャルロッタに小声で


「初っ端から面倒なのが来たな」


ぼそりと言った。


「はい、まいにちカウンターにたっているラケルさんはすごいとおもいます」

「本当、そうだよな」


ニックは冷蔵庫から水の入ったピッチャーを取り出し、コップに注ぐ。


「お待たせいたしました」


ニックがコップをテーブルに置くと、お客様は投げるようにコインをよこす。


「ありがとうございます」


そして水を少し口に含むと


「これはどこの水だ?」


そう聞いてきた。


「ポンプで汲み上げた地下水をろ過した後、一度沸騰させてから冷やしたものになります」

「俺は“どこの”って聞いたんだ」

「庭です」

「なんだと……?」

「ブラックアウト以前にも使われていたような設備ですから、衛生面の問題はありませんよ。味だって悪くないと思います」

「ふざけんなよ。こんなもの飲ませやがって、金返せ」

「……」


ヒートアップしていくお客様とは対照的にニックは冷静だった。


(はじめからこれが狙いだったのかもな……)


商品に難癖をつけて支払いを拒否したり、逆に金を要求したりする相手は普段のビジネスにおいても度々出くわす。


「かしこまりました、ではこちらは返させていただきます」


ニックはテーブルにコインを置く。するとお客様は


「ったく……おい、口直しに何か持って来い」


そう言ってきた。

“何か”

あまりにもアバウトな注文だ。この時ニックは確信した。


(こいつ金払う気無いな)


今の返金に味をしめた彼は、クレームをどんどんエスカレートさせていって代金を踏み倒したり、場合によっては賠償金を求めてくるだろう。

もとよりこの国は訴訟大国だ。くだらない事でクレームをつけては揉め事を起こし、法の解釈で殴り合う。そして最後には金で解決する。ニックがブラックアウト以前、商社で勤めていた時に何度も経験してきた事だった。


「申し訳ございませんが、今お出しできるメニューはみな庭の畑等で育てた作物を使用しています。ですから、お客様にご満足して頂けるような料理は提供出来ないでしょう」

「なんだ、その言い方。俺が我儘言ってるみたいな口ききやがって」

(あぁやっぱり。クレーマーは何したってクレームをつけてくる)


キリがない。

だからニックは彼に出て行ってもらうことにした。


「いえ、そういう訳ではございませんが、私どもではお客様に“対等”なビジネスを提供出来ず、貴重なお時間をいたずらに浪費してしまうだけでありましょうから」


ニックは出入口のドアを開けると、退店を促した。

口調こそ穏やかだが“出ていけ”と言われドアまで開けられては、流石に野球帽の彼も居心地が悪くなり席を立つ。


「こんな所二度と来るかよ」


そして捨て台詞を残して店を出ていった。


(あぁ、二度と来ないでくれ)


ニックは営業スマイルを崩さずに彼を見送る。ドアが閉まるとやっと一息つけた。


「朝っぱらから変なのが来たな」

「あさとよるはこまったおきゃくさまがすこしおおいきがします」

「はじめから何かやらかすつもりなら、他の客が少ない時間を狙ってくるのかもな」

「いそがしいときにくるのもたいへんですが」

「そうだよな、あっちこっちの客が好き勝手なことを言ってきて……ほんと、ラケルは偉いよ」



「そりゃどうも……仕事ですから」


私は掛け布団に包まり震えながら、ニックとシャルロッタの話を聞いていた。

二人の話し声は薄い壁を抜けて私の部屋まで聞こえてくる。

というか客とのやり取りもほとんど聞こえてた。


「私ならああいう言い方はしないかな」


私はどちらかというと長い物には巻かれておくタイプなので、もっとなあなあに話をする。あとは、シャルロッタがいる時は適度に彼女の力を借りる。だって大抵の人はシャルにやさしいから。


「本当はニックみたいにした方がいいのかな……」


厄介な客の存在は店にとってなんのメリットにもならないんだし。





時刻は11時を過ぎた頃、ランチを済ませようと少しずつお客様が増えてきた。


「シャルロッタ!ハッシュドポテト3つ追加だ!」

「わかりました、このパンケーキがやきおわったらベイクドビーンズといっしょにつくります。ニックさんにはアップルパイのカットをおねがいしてもいいですか?」

「わかった!」


徐々に店内があわただしくなっていく。


(日によって、ラケルはこれを1人でこなしてるんだよな…)


ニックは改めてパートナーの凄さを思い知る。初めのころは自分も店員のように働いていたが、ここしばらくの間はオアシスの仕事や自分の行商がメインで、ダイナーの営業を手伝うという事は少なくなっていた。


「後でたくさん甘やかしておこう」

「なにかいいましたか?」

「いや、なにも……」


つい声に出てしまった。気を取り直して仕事をこなしていくが、お客様はどんどん増えていく。


「金曜日だからか……?シャルロッタ!客入りはいつもこんな感じなのか?」

「きょうはおおいとおもいます」

「よりによってラケルのいない時に……」


今できる事を探して優先順位を組み立てて、複数の作業を同時に行う。そういった要領の良さを求められる仕事をニックはあまり得意としていなかった。

しばらくの間バタバタと仕事に追われていると、見知った顔がやって来た。


「おいっす!繫盛してんねぇ!」

「メル!無事だったんだな!」

「おうよ!メルさまは不死身だからな!所で……なんか気づかない?」

「え?」

「ほら、なにか……」


ニックとしては忙しい仕事のことで頭が一杯な上に、普段からビジネスと車と音楽とラケルのこと以外にはあまり意識が向いていないので、キャメルに何を期待されているのか中々わからなかった。


「ホントにわからない……?」

「……ごめん」


本当にわからなかったのでニックは正直に謝る。


「服!上下全とっかえしたんだよ!」

「あぁ……!たしかにそうだな!」

「……」

「なんていうか……その、凄く似合ってると思うよ……?」


気まずくなってしどろもどろになってしまう。


「ニックさん、てがとまってます」

「ゴメンナサイ……」


シャルロッタにたしなめられてしまった。ニックは仕事を再開する。


「あ、私はいつものチーズバーガーね。あれ、そういえばラケルは?」

「ぽんぽんぺいん」

「あれま……それでニックがカウンターに立ってるんだ」

「そういう訳だ。お支払いは?」


ニックはいつもラケルがやっているように尋ねた。すると


「銃で支払いってできる?お釣りは弾で……」


キャメルが小声で聞いてくる。


「できなくはないけど、だいぶ面倒臭くなるぞ。一度ばらして状態を見なくちゃならないし」

「時間はあるから大丈夫だよ。戦利品を売る相手が見つからなくてね」

「なるほどな、後で見せてくれ」

「うん。私は外の席で待ってるね」


キャメルは店の外に出た。そしてテラス席に腰掛けると、店の脇に繋がれているハスキー犬に目をやった。


「ねてる……」


彼は地面に横になってお腹を膨らませたり、しぼませたりしながら寝息をたてていた。心なしか口元は緩み、笑っているように見える。


「おっきい手だな……熊みたい」


キャメルは料理が来るまでの間、特にやることもなかったので、ハスキーの横にしゃがみ込んでその姿を観察する事にした。


「……」


触り心地のよさそうな毛、ふさふさの尻尾、たまに動くさんかくの耳。

我慢が出来なくなってきた。


(そ~っと……)


ゆっくりと手を伸ばして毛皮に触れる。生き物の暖かさと毛の心地よさ、生臭いけもの臭。


「あぁ~いいなぁ……」


(好きな人にとって)動物は何よりも心を癒してくれる存在だ。キャメルはだんだんと撫でる事に夢中になっていき、同時に遠慮がなくなっていった。


≪……?≫


流石にハスキーは目を覚ます。そしてちらりとキャメルの方を一瞥すると、よっこらせとばかりに身を起こして向き直る。


≪フン……≫


無言の鼻息。

特に警戒しているわけではないが、歓迎してもいなさそうな視線がキャメルに向けられる。


「あ……起こしちゃった、ごめんね」


頭を撫でて謝ろうと思ったが、上からかぶせるように手を出すとハスキーはぬるりと避けた。


「あれ、上からじゃダメなんだっけ」


キャメルはどこかで聞いた雑学を思い出し、“グー”を作ってハスキーの鼻先にゆっくりと近づけた。

彼の冷たい鼻先が触れる。ついさっきまで寝ていたからなのか、それは意外と乾燥していた。


≪フン……フン……≫


においで何が分かるのか不思議だが、ハスキーは様々な角度からキャメルの拳を調べる。

キャメルは手の平を上にしてゆっくりと指を伸ばしていった。

しばらくするとハスキーは気が済んだのか、キャメルの手から離れて


≪プス……≫


小さなくしゃみをした。


「君は思ったよりもおとなしいんだね」


キャメルは犬はもっとワンワン鳴くものだと思っていたが、このハスキーはこれまでに一言も発していない。たまに出るのは鼻息だけだ。

そうやってハスキーと戯れていると、ニックが料理を運んできた。


「おまたせ、チーズバーガーだ」

「やっぱこれだよね~」

「もう牛肉のストックがあまりないから、食べられるのもあと少しだぞ」

「えぇーマジか……」

「近々シャルロッタやシロークと一緒に鹿を捕りに行くつもりだから、そうしたら鹿肉ハンバーガーが食えるかもな」

(そっか、この子はシロークっていうんだね)


そういえば、以前ラケルがそこら辺の話をしていた。


「私、シカの肉は食べた事ないなぁ」

「中々悪くないと思うぞ?ジャーキーに加工すれば保存も効くしな」

「ほぇ~……楽しみにしてるね!」

「おうよ!」


話が終わるとニックはそそくさと店の中へ戻っていく。彼にはまだまだ仕事が山積みだ。



ニックはカウンターに戻るとシャルロッタに声をかける。


「新しいオーダーは入ったか?」

「いいえ、ですがはやいところおさらをあらわないと、ながしだいがあふれます」

「わかった!じゃあ皿洗いは俺がやるよ」

「おねがいします…あぁ、それとニックさん」


「“あらいのこし”にきをつけてくださいね」


「……善処します」


実は普段からラケルはニックにあまり皿洗いをさせたがらないのだが、その理由がこれである。


「俺、信用されてないなぁ……まぁ、確かに俺が洗った後の食器は結構な割合でラケルに洗い直しされてたし……」


今日こそはダメ出しをされないように入念に食器を洗う。しかし、冷たい水に長時間手をつけていると、だんだんと指が痛くなってきてしまうので、知らず知らずのうちに手を抜くようになってくる。


「ニックさん」

「はい!?」

「ここ、よごれがのこってます。ななめからみると……」

「あ」


早速洗い残しだ。ニックはあわてて


「すぐやり直すよ!」


作業を再開しようとするが……


「やっぱりあらいものはわたしがやります。ニックさんはなべのようすをみていてください」


戦力外通告を食らってしまった。


「あ、ごめん……」


シャルロッタは動揺して固まるニックの横をそそくさと通り抜ける。そしてこれ以上は何も言わずに皿洗いを始めた。


「俺はできることをやろう……」


まけるなニック、ラケルの助けになりたいんだろ?





オアシスの治安部隊は大きく4つの部隊に分けられる。

リーダーであるファルコナーの身辺警護や最重要拠点の防衛にあたるα班、有事の際には先陣を切って作戦を展開するβ班、平時のパトロールや通行規制を担当するc班、そして町の周辺を巡回するδ班。

その中でもスラッシュやパンサーが身を置くβ班は、最も戦闘に特化した人材が集められている。

そして、最も熱心に戦闘訓練に励んでいるのもβ班の面々だ。


「……」


訓練区域の一角で、スラッシュは投降するかのように両手を上げて沈黙している。

そんな彼の首元に後ろから何かが近づけられた。


ビー!


ブザーの音が鳴る。

それと同時にスラッシュは動いた。


ボンボン!ボンボン!


素早く肩からぶら下げたコルト9mmを構えると的に発砲する。そして目の前の的を全て撃ち終えると足早に移動する。


ボボボボン!


上半身を固定して、腰で狙いをつけるように素早く的を撃ち抜く。そして次の地点まで移動する傍ら手首から銃を捻るようにしてマガジンを放出、素早く次のマガジンを挿入する。


ボンボン!ボボボン!


次のポイントは壁の左右からの射撃だ。スラッシュは向きに合わせて素早く銃を左右で持ち替え的を撃つ。


ビー!


「21秒52、自己ベスト更新だな」


スラッシュの後方から、ブザーとストップウォッチを持ったパンサーが言う。


「同じコースを回数やれば、早くなって当然だ」

「まぁ、そう言うなって…今日はこれで終わりか?」

「俺一人で弾を使い切る訳にはいかないだろ」

「まぁ、そうだな」


パンサーは笑って相槌をうつ。そして


「なぁ、もし良かったら少し付き合えよ」


後片付けをするスラッシュを妨害し挑発するような態度で言った。



「ナイフによる近接格闘訓練か、久しぶりだな」

「あぁ、痛いのは嫌だって誰も付き合ってくれねぇんだよ」


二人は格技室に入ると訓練用のナイフを手に取った。


「刃がついていないとはいえ、使い方を間違えればケガ人が出かねない……」

「“こんな”んでも人を殺すには十分だからな」

「そうだな。だが、そうでないと訓練にならない」


二人は少し離れて距離をとり、向き合う。


「さて、お前の成長を見せて貰おうか」


スラッシュはナイフを逆手に持ち、脇を閉めてボクシングのような構えをとる。


「今までのようにはいかないぜ」


対してパンサーはナイフを順手で持つと両肘を軽く曲げ、左手を僅かに右の手首にそえるような構えをとった。

二人はじりじりと距離を詰めていく。

そして


「ふッ!」


先に動いたのはパンサーだった。スラッシュの顔付近めがけて一閃。

スラッシュはそれを僅かに首を反る事で避け……


ビュッ!


切り返しの中段切りも腰から後ろに下がる事で避ける。そしてパンサーの腕が伸びているチャンスを逃さず即座にカウンターを放つが


パンッ!


パンサーはそれを左手で逸らし、斜め下方向へ押さえつけると、再度首元を狙って切りかかる。


「……」


スラッシュはここまでのやり取りが読めていた。

左手前腕でパンサーの右手首付近を受け止め、流された右手はパンサーの腹付近に押し当てる。そして左を引き手、右を吊り手に応用すると、前に踏み込み切りかかってくる力を利用して後ろに投げ飛ばす。

あとはそのまま右手で追撃すればいいだけだ。


「こんなものか……?」


パンサーの首にナイフを押し当てスラッシュは言う。


「まさか!」


パンサーはネックスプリングで素早く起き上がると、再び構えをとる。そして


「はぁッ!」


地面を踏み切って急激に距離を詰め、上段からスラッシュに切りかかる。

スラッシュは左斜め後方に素早く体重移動をしてそれを躱し、即座に反撃するが…


「遅いぜ!」


パンサーはそれよりも早く右半身を後方に引くと、左足を軸に即座に180°反時計回りに右足を踏み込みスラッシュの太股付近を狙う。

懐に潜り込まれたスラッシュはナイフの峰でこれを払おうとするも


「貰った!」


スラッシュはパンサーの揺さぶりで体勢が中途半端になっていたため、いつものキレが発揮できなかった。

パンサーは胸を張って腰を切り、右手を突き上げる。互いのナイフは背中が擦れるような形ですれ違い、次の瞬間にはパンサーの切っ先がスラッシュの鼻先に届いていた。


「なるほど、俺には出来ない動きだ」

「俺の強みを最大限発揮できる戦い方は無いか考えてみたんだ、結構勉強したんだぜ?」

「流石だな」

「お前もさ……所で、ここにお前を誘ったのは何もこれがやりたかったからだけじゃない。この前の事件について話をしたかったからだ」

「なるほど」


ここには一応監視カメラがつけられているが、音声は拾われていない。


「ファルコナーから色々聞いたんだろ?」


パンサーはあくまで表向きは格闘訓練をしている事を示すため、再度ナイフを構える。


「たいした情報はないさ」


スラッシュもパンサーの意図をくみ取りナイフを構える。


「そうか?班長のお前はファルコナーに気に入られてる。裏話の一つや二つあって当然だろ」


パンサーが切りかかる。


「本当にそうなら俺は今頃α班にいるはずだ」


スラッシュがそれをいなす。


「どうかな!ルークは盤の端に置くじゃないか!」

「俺はポーンだよ、俺もお前も」

「いじらしいな!口止めされてるんだろ?」

「あぁ。だがそれも考えればすぐわかるような事だけさ」

「そうかよ!」


2人は二手三手先を読んでしのぎを削り合う。そして……


「「……」」


互いのナイフが目と、喉元の前で止まった。


「お前は仲間を、俺を信用してはくれないんだな……」

「……」


スラッシュは何も答えなかった。





ダイナーはそろそろおやつ時だ。小腹の空いたお客様達が次々と店にやってくる。


「今日は本当に客多いな!」


休憩から戻ったニックが作業に取りかかる。


「シャルロッタ!次休憩入っていいぞ!」

「ニックさんはひとりでだいじょうぶですか?」

「なんとかする!」

「……」


シャルロッタは困った顔をする。

やっぱり“店を回す”という点において、ニックは信用されていない。

その時、店の外から


「おーい、何かお困り?」


キャメルがやって来た。銃で代金を払うという都合上、暇を持て余していたのだった。


「メルか。いや、こっちの話だよ」

「人手が足りないんでしょ、手伝ってあげようか?」

「いや、流石に悪いよ」


ニックがやんわりと断ろうとしていた所に


「おねがいしてもいいですか」


シャルロッタが遮るように言った。


「うん!どうせ夜まで暇だしね」

「ホント助かります」

「その代わり“お釣り”は少し奮発してもらえない?」


ちゃっかりキャメル。

ニックはNOとは言えなかった。


「わかりました……」

(俺がもっとしっかりしていれば良かった話だしな)



それからというものニックはキャメルと二人で作業にあたった訳だが、思いのほかキャメルは優秀だった。


「料理、結構やってたのか?」

「ん~たまにかな、そんなに得意な方でもないと思うけど」


その発言とは裏腹に、手際よく料理を仕上げていく。初めてカウンターに立ったというのに、ニックよりも板についているような。


(なんかちょっと癪だな……)


ニックは少し“慣れている”所を見せたくなった。


(フライパンはメルが使ってるし……そうだ、オーブンでパイを焼きながら同時進行でホットプレートの料理を進めよう)


慣れていないことはするものではない。ましてや得意分野でもないのだから……。

しかし、ニックは止まらなかった。


オーブンのプラグをコンセントに刺してタイマーを入れる。

その様子をカウンターの奥から見かけたシャルロッタがあわてて


「ニックさん!ダメです!」


声をかける。

しかし遅かった。


バチン!


大きな音とともに店の照明が落ち、電気を使った調理器具が止まる。


「あ……」

「オーブンとホットプレートはどうじにつかうとブレーカーがおちちゃうんです」


店中の視線がニックに集まる。


「「「……」」」


(ラケル、やっぱ偉いよ)


めげるなニック、ラケルを甘やかすんだろ?



ニックが何をやらかしたかは、自室のラケルも理解していた。


「あいつ、やりやがったな……」


私はニックに具体的に“何と何を同時に使うな”と言ったことはなかったけれど、ブレーカーの事は何度か説明していた。


「まぁ、私のかわりにやってくれてるんだしな、怒るに怒れない……」


ニックは通訳やビジネス、武器の扱いと言った超重要なスキルを幾つも持っている一方で、こういった所では不器用な面がある。

私がニックのかわりが出来るかと言うと100% NOなわけだし、なにより


「ニックがいてくれるだけで本当に心強いよ」


ひさしぶりにニックがダイナーで働いてくれている事で、私はそれを強く実感した。だから


「この先何があってもいなくならないでね」


何か無理をしているなら、それを私に話してほしい。





時刻は夕暮れ時、お客様方もいなくなった。

ニックはキャメルから銃を買い取り、精算する。


「お釣りはこんなもんでいいか?」

「うん、ありがと!これでまた撃てるよ!」

「あまり無茶はするなよ」

「勿論よ!そういえばさ、この前新しく友達が出来たんだよね。これから一緒に飲みに行くんだ」

「へぇ、羨ましいな」

「でしょ!今度ニックもおいでよ!」

「翌日仕事がない時にでもお邪魔するよ、飲酒運転は厳禁だからな」

「待ってるぞい」


キャメルは店を出ていった。これから日が落ちてくると、外を出歩く人はガクッと減る。店を閉めてもいい時間帯かもしれない。


「シャルロッタ、今日はこれで店じまいにしないか?」

「そうですね、おつかれさまでした」


シャルロッタはぺこりとお辞儀をすると自分の部屋へと戻っていく。


「さてと、俺は……」


そうだ、ラケルに色々と報告しないと。

ニックは部屋の前まで赴き、ドアをノックする。


「ラケル、入っていいか?」

「いいよ……」


弱弱しい返事が帰ってくる。ニックはドアを開き、中へと入った。


「大丈夫か?」

「ん……モノがモノだけにすぐ治るものではないと思うけど」

「痛み止め貰いに行くか?」

「え?」

「医者に診てもらうかってこと」

「いや、いいよ。お金に余裕ないし……」

「金の心配ならいいからさ」

「いや、ホントにいいです」

「黙ってても良くならないんだろ?」


ニックは強行手段に出た。渋るラケルを抱きかかえ、部屋から連れ出す。


「いや!ホントにいいって!っていうか重いでしょ!?降ろして!腰悪くするよ!?」

「あぁ、重いな。だからせめて大人しくしてくれ」


こうなってしまってはニックは聞く耳を持たない。仕方なくラケルは


「せめて!せめて着替えさせて!部屋着のまま外には出たくないから!」


ニックに対して交渉する。するとニックは


「……はい」


自分が着ていたスタジャンをラケルにかぶせると、そのまま店の外へと連れ出した。





「はぁ……ホントはショートパンツで外出たくないんだけど……」


ニックのダボダボのスタジャンを羽織って私は車の助手席に座る。


「メルも着てたんだから大丈夫だろ」

「そういうことじゃないんだよ!」


ほんとデリカシーないな!

ニックのこういうところは正直困る。


「どうせ医者にしか見せないんだし」

「それが嫌なの!あーもう……絶対昔にも似たようなやり取りしたよ」


私がニックと車中泊をしていた時には結構ラフな格好で寝ていたので、その頃にもこんな話をした記憶がある。


「……で、オアシスの医者っていくら位で見てもらえるの?」

「薬や治療が絡むとほとんど言い値だな、交渉次第って所だ」

「え」

「金の心配はしなくていいよ、最近臨時収入があったから」


そういうことじゃないんだよなぁ。というか私達は一応ビジネスパートナーだよね?あまりお金の事でこじらせるのは嫌なんだけど……。



十数分後。


「え、休診?」


ニックが担当者に尋ねる。


「はい、この時間担当していた者が急に来られなくなってしまいまして…」

「そうですか。参ったな」


困るニックとは対照的に私は少し安心していた。


「ねぇ……休みならさ、もう帰ろうよ」

「……」


ニックは諦めてくれない。


「まだアテはある。公認の医者じゃないんだけど……」

「絶対ヤダ」

「痛いんだろ!?」

「痛いから!もう帰りたいの!」

「せっかくここまできたのに!?」

「私の体の事だよ?なんでニックがそんなにムキになるの!?」


だんだんと喧嘩っぽくなってきた。

私はもう面倒になって


「わかったよ!さっさと終わらせて帰ろ!」


ほとんどキレ気味に言った。



ニックの言った“アテ”はオアシス外周部の貧民街にあった。


「え……」


雰囲気はかなり悪い。

物凄く失礼な例えだが、違法な臓器移植でもやってそうなイメージだった。


コンコン……


ニックがノックするとドアの小窓が開き、ぎょろりとした目がこちらを覗く。


「ニックかい、今度は何かな」

「俺の知り合いを診てほしい」

「……入りな」


ドアが開く。私達を出迎えたのはしわしわの老婆だった。


「見慣れない顔だね」

「彼女はオアシスの人間じゃない」

「そうかい……で、どこが悪いんだい?」


ニックはこちらを向くと顎で“お前が言え”のジェスチャーをする。


「えっと、お腹が痛くて、痛み止めが欲しいんですけど……」

「それはどういう種類の腹痛かい?」

「……」


私が黙っていると


「おい、あんたは出ていきな!」


老婆はニックに席を外すように促す。するとニックはおとなしくそれに従った。


「あの朴念仁が……っとあんたの言わんとする事はわかったよ」


老婆は私に向き直る。


「あいつを外に待たせている事だし、さっさと終わらせようか。あんたもその方が良いだろう?」


この人はまだ話が通じるタイプみたいだ。



その後、特に何事もなく診察は終わり、私は痛み止めを調合して貰った。


「さて、支払いはどうする?」

「えっと……」

「ニックかい?……ニック!」


大声で呼ばれてニックは戻ってくる。


「そんな大声出さなくても聞こえるぞ」

「あんたが払うんだろう?」

「そうだな、いくらだ?」


老婆は指を三本立てる。


「冗談だろ、あんたがこの商売を出来ているのは誰のおかげか忘れたのかよ」

「需要と供給を考えれば妥当な金額だね。急ぎの用事だから“ここ”に来たんだろう?時を金で買うには相応の対価が必要さ」

「200だ。あっちなら130も出せば痛み止めは手に入る」

「そうかい?じゃあ現金なら250まで負けてあげてもいい」

「勘違いしているみたいだから言っておくが…オアシスに認められた医者じゃないあんたが、オアシスの人間である俺を相手にあまり変な気は起こさない方がいいぜ。」

「と言うと?」

「オアシスは得のある取引であれば相手を選ばないが、陥れようとしてくる者には一切の容赦はしない。あんただって治安部隊のお世話になるのは御免だろ?」


私はニックがここまで露骨に誰かを脅している所を初めて見た。


「こっちだって生活がかかってるのさ、私がいい暮らしをしているように見えるかい?」

「いいや?でもそんなの俺には関係ない」

「はぁ……じゃあ220だ。これが限界だよ」

「最初からそう言えよ」


ニックは札を机に置く。


「世話になったな」

「出来ればもう来てほしくないね」


私達はその場を後にした。



「じゃあ、帰るか」

「うん……ってちょっと待って!」

「どうした?」

「やっぱりニックが私の薬代払ってるのおかしいよ!」

「いいって、臨時収入もあったし」

「よくないよ!ニックは商人でしょ?そんなお金にルーズでいいの!?」

「だってラケルの分だし…」

「でもっ!私達ってビジネスパートナーでしょ!?」

「……っ!」


ニックはビクンと肩を震わせると、どこか悲しそうな目でこちらを見る。


「あ……」


これはミスったかもしれない。

確かに私の言ったことは間違っていなかったかもしれないけど、流石にデリカシーが無かった。ニックが私にここまでしてくれている意味をわかっていなかった訳じゃないのに。


「……」


ニックは私に背を向けるとスタスタと歩いて行ってしまう。


「あ……ちょっと待ってよ!」


私は慌てて追いかける。



車に乗ってもニックはずっと無言だった。

CDプレイヤーの電源すらも入れない。

最高に気まずい……。


「あの……さっきはごめんね?」

「謝らなくていいよ、別に怒ってないし」


ニックは真っ正面を見たまま心のこもっていない声で答える。

絶対怒ってるじゃん……。

いや、怒っているというより失望したというか、私にある種の“見切り”をつけたのかも。

それだともっとまずい。


「……」


無言の時間は続く。そうしている間に車はダイナーの前に止まった。


「ついたぞ」

「あ、うん……」


薬は手に入った。

やっとダイナーにも帰って来れた。

あとはニックに別れを告げて車を降りればいい。

だけど、このまま車から降りたら取り返しのつかない事になる気がした。

私が戸惑っていると


「俺はもう帰るよ、明日は来れたら来るから」

「ちょっ……」

「おやすみ」


ニックから別れを告げられた。

そうだよな、私から言い出したんだ。

ここに来て“ごめんね”は都合が良すぎる。

私はもうニックの方を見れなくなり、ドアを開けて車を降りようとする。

今まさに車から出ようとした、その時。


「……っ!!」


腕を掴まれた。

驚いて振り返ると、ニックが歯を食いしばって俯きながら運転席から身を乗り出している。

ニックが私に対して力ずくで何かをするのは初めてだった。


「ちょっと」

「……」

「痛いって」

「……」

「ニック!」

「ラケル、俺は……俺はラケルにとって、いつまでも他人のままなのか……?」

「あ……」


ニックからここまではっきりと言ってきたのは初めてだった。

正確に言えば私をからかって“もう結婚するか?”みたいな事を言ってきた事はあったけど、それはあくまで冗談の範疇だと思っていた。

少なくともここ最近までは。


「流石にわかってない訳がないよな?」

「う……」

「ラケルが俺とこれ以上深い関わりを持ちたくないっていうなら俺も受け入れるさ。でも……」


ニックの目は微かに潤んでいた。


「俺はこれから先もずっと、こんな曖昧で“都合のいい関係”が続くのは耐えられない」

「ニック……」

「この関係を維持するために、これ以上オアシスの仕事を続けるのは……もう無理だ……」


今までのツケが回ってきたのかもしれない。

正直に言えば私はニックの事が好きだ。

でも、これまで私は今のビジネスパートナーという関係に甘えて、曖昧でどっちつかずの態度を取り続けていた。私達は、はっきり言って公私混同しまくっている間柄であったが、あくまで建前はビジネスパートナーということで深入りし過ぎないようにしていた。

私はニックと本気で向き合う事を避け続けていた。

それは実のところ責任逃れだったと思う。

だって、これまででも私は幸せだった。

本気でニックと向き合うということはつまり……ずっとこの先の事、それこそオアシスが崩壊した後の事などを見通したうえで、彼の人生を背負うぐらいの覚悟をしなければならなくなる。

私はそれが怖かった。

ずっと予防線を張って逃げ道を残していた。

でもそれがニックを傷つける事になっていた。


「なぁ、ラケル……俺がオアシスで普段何の仕事をしてるか知ってるか……?」

「交易、配達、通訳……そういう仕事でしょ?」

「あぁ、それもあるな……でも他にもっと重要な仕事があるんだ」


私はこれからニックが何を言うのかなんとなく予想がついていた。

本音を言えば彼の口からは聞きたくない。

でも、もう逃げるのはやめよう。


「聞かせて」

「ラケル……」

「ニックの様子が最近少しおかしいのって、それが理由なんでしょ」

「バレてたのか」

「そりゃあ、わかるよ」

「そうか」


ニックは深呼吸をして


「俺は仕事で、人を殺して回ってる」


はっきりと言った。


「そうなんだ」


私はなんとなくわかってた。


「勿論好きでやってる訳じゃないんだ!」

「うん」

「……ダイナーに燃料を持ち込むためには、どうしても従わなきゃいけなかった」

「うん」

「だから俺は別に楽しんでいた訳じゃなくて……!」

「ニック」


私はニックに手を重ねる。


「私はニックを責めたりしないよ、詳しく話すも、話さないも、ニックが楽な方を選んで?」

「あ、うん……」


ゆっくりと指を絡める。

するとニックも私の指を握り返してきた。


「ラケルはオアシスのブギーマンって知ってるか?」

「噂で聞いたことはあるよ」

「それ、俺なんだ」

「そっか」

「……何とも思わないのか?」

「うーん、そうだなぁ……」


思わない、と言ったら嘘になるが。


「普通に考えれば人を殺すことは悪いこと……でしょ?でも、現状生き残るためにそういう法や倫理や道徳を持ち出せる環境ではない事は、だれの目から見ても明らかだよね」


私は運転席の方へ身を寄せる。


「そして、ニックが働いて来てくれたおかげでダイナーは回っているんだから、本来私はニックにお礼を言うべき立場だと思う。だから私はニックを責めたりしないし、その資格もない」


ニックの肩に体重を預けて、体温を共有する。


「でも、ニックが辛いのは嫌だな」

「そっか……」


ニックはほとんど涙声だった。

彼は私に一度背を向けて鼻をかむと。


「俺はもう、ラケルがいないと生きていけないんだ」


私に思いを打ち明けた。


「俺は、ダイナーでラケルが待っているから、オアシスの仕事もやり遂げられるんだ」


私は正直面食らった。

そして、かつての数々の心無い言動を後悔した。


「俺はラケルを甘やかしていないと、今の世界で精神を保っていられないんだよ。情けない話だろ?」

「そんな事ないと思うよ。自分以外の誰かを心の支えにして生きるっていうことは、恥ずかしいことじゃないと思う」


そうじゃないと家族、友人、恋人、ペット、そういった物を題材としたお話が多くの人々の胸を打つ事の説明がつかない。


「じゃあ、私はずっとニックを苦しめていたんだね」

「……」


ニックは否定できない。そりゃそうだ、だから今こんな話になってるんだから。


「私もさ、ニックの事はずっと好きだったよ」

「……」

「一緒にいると落ち着くし、幸せだし。私が前に変な事を口走ったけど、実を言うとあれも本音だしね」

「あぁ……」

「でも、だからといって思いを伝えて付き合うか、っていう所で私は怖がってたんだ」

「どうして……?」

「変化を恐れていたのかな。私は今までの距離感でもニックを感じられて幸せだったんだ。それが崩れたりするのが怖かった」

「その考えは、正直俺にはよくわからない……」

「ここがすれ違いの元だったのかもね。それに…本気で付き合うとなると、互いの人生に責任を持つ必要があるから、いつまでオアシスが続くかわからないようなこんな世界で、ずっと未来の事まで考えなきゃいけないのが怖かった」

「それは……重たく考えすぎじゃないかな。未来のことなんて誰にも予想がつかないんだし、その時、その時に話し合って考えるっていうのも悪くないと思うけど……」

「いや、違うんだ」


この時、私ははっきりと自覚した。


「私もさ、もうとっくにニックがいないとダメなんだよ」


言った。

包み隠さず言った。


「だから、もし将来……都合が悪くなったから別れようとか、多分無理だと思う」

「ラケル……?」

「お互いが生きるために嫌々別れたりとか、そんな未来が待ってるくらいだったら……」

「はじめから“程よい他人”の方が後腐れが無くて良いって事か?」

「……」


大筋は間違ってない。


「あぁ、なるほどね。俺もなんとなくわかったよ。それと同時に怒りも湧いてきた」

「え?」

「俺はどこにも行かないし、“行かせない”。なんならオアシスを捨てて駆け落ちしたっていい。それぐらいだよ」

「ニック……」


これは喜んでいいんだろうか。一概には言えない気がするけど……


「うん、わかった。じゃあ……これから私達が一緒にいるにあたって3つ約束して?」

「3つ?」

「そう、1つ目は困った事があったら私に相談すること。今回みたいなすれ違いが起きないようにね」

「あぁ……わかった」

「2つ目は、私のために自分を犠牲にしないこと。私はニックが傷つく事が一番嫌だから」

「そっか……うん、わかったよ」

「いい?そして3つ目は……私をたくさん甘やかすこと!」

「はは……欲望に忠実だな」

「いいの!お互いのためにはこれが一番でしょ?」

「あぁ、確かに。加減は出来ないぞ?」

「こっちだって望むところ!」


私は運転席側へと領空侵犯する。


「早速!?」

「もちろん!ニックもその方がいいでしょ?」

「そうだな!」


ニックが両手を開くと、私はその胸に飛び込んだ。

落ち着く。

心臓は高鳴っているのに不思議と落ち着く。


「肌触りといい、においといい、五感でニックを感じられるよ」

「五感……あれ、味覚は?」

「いいの?」

「あ……」

「いいんだ」

「ちょっと待って」

「待たない」


私はニックが逃げないように彼の足の間に私の膝を差し込むと、全体重をかけながらシートのリクライニングレバーを引いて押し倒した。


お互いの息が感じられるほどの距離。

時間の感覚が無くなる。


「私も人間だからさ、好きな人とどうこう……っていう欲は当然あるんだよね。だから……」


私はニックの瞳を真っ直ぐ見つめて


「私、もう我慢しないね」


はっきりと宣言した。

そうだ、目の前にこんなご馳走があるのに黙っていられるか。


「ラケル……」


ニックは1ミリも抵抗しなかった。

やっぱり期待してるんじゃないか。

それじゃ……



「いただきます」



いつぞやの仕返しも込めて、私はニックの耳元で囁いた。





翌日、私はダイナーのカウンターに立っていた。

今日は土曜日だけど、昨日より客入りは少ない。

理由はもしかしたら


ガガガガッ!!


工事の音がうるさくて、お客様が長居しないからなのかもしれない。

今、店の外ではニックが資材を運び入れて、ダイナーの増築をしているのである。

しばらくして音が止まったかと思うと、ニックが裏口から現れた。


「疲れたからちょっと休憩するよ」

「ふーん。なんか食べる?」

「そうだな……ワッフルとか頼んでいいか?」

「いいよ、今作るね」


ニックは作業用のジャンバーを着こんだままカウンターに腰掛ける。

室内だというのにチャックは一番上まで上げられ、顎や耳まわりもすっぽりとマフラータオルで覆われている。


「首の“それ”、取らないの?」

「あ、いや」

「恥ずかしい?」

「……」

「今、お客さんいないけど」

「食べたらすぐ戻るから……」

「そっか」

「うん……」


かえって不自然だと思うんだけどなぁ……堂々としてればいいのに。

私がニックの分のワッフルを焼いていると、見知った顔がやって来た。


「メルさま参上~っと……ラケルじゃん!お腹は大丈夫なの?」

「うん、痛み止め買ったから」

「そっか、お大事にね。でニックはなんでそんな格好なの?」

「え」


ほら、やっぱり突っ込まれた。


「今増築の作業しててさ!」

「店の中でまで着込んでたら暑苦しくない?」

「え、あ……そうだな……今日はそういう日なんだよ!」

「全チャの日?」

「そう!」


(全チャの日ってなんだよ、国民の祝日か……?)


言い訳が下手すぎる。

しかし、キャメルもそれ以上は突っ込まなかった。

まぁ、察したかもなぁ。

ニックが毎日この調子だと流石に各方面に支障が出るので、次からは跡が残らないようにしようと思う。





時刻は遡ること13時間前、ニックが全チャにならざるを得なくなっていた頃……


「もう我慢ならねぇ!これ以上お前たちと一緒にいられるか!」


男が声を荒げていた。


「仕方ねぇだろ!今回は襲ってくる奴を撃退しただけなんだから、戦利品の類はほとんどないんだ!」

「いいや!仕方なくないね!俺はお前たちよりもずっと身の危険を冒して戦い、弾も消費した!その補填がないっていうのはおかしいだろ!」

「武器や弾は各自で管理、互いに口出ししないのがルールのはずだ!」

「そうかよ!それじゃあお前たちが殺される所を黙って見て、後から死体を漁った方が良かったていう訳だ!?」


今、この世界で銃を持っている物の大半は、自分や仲間の身を守るためにその力を使うだろう。しかし、この場合、得られる物はつかの間の生存だけだ。

少しずつ、少しずつ、物資や弾薬は減っていく。そしてそういったじわじわとした恐怖は、仲間意識といった不安定なものを容易く破壊してしまう。


「お前……ふざけるなよ!」

「ふざけているのはどっちだ!?」


ついに彼らはグループの仲間に銃を向けた。

銃口を人に向けるということ、それは明確な敵意、殺意を相手に知らしめる事に他ならない。

もはや後戻りは出来ない、そんな時。


「ちょっと待った!」


突然、場にそぐわない第三者の声が響き渡った。

グループの視線が一斉に集まる。


「仲間に向かって銃を撃つだなんて……そんな勿体ない弾の使い方があるか?」


そいつはグループのメンバーの輪へと近づいて来ると、勝手に話し始めた。

当然グループの面々は困惑している。


「お前たちに足りないものは、集団を動かすシステムだ。戦利品が手に入らない戦闘だなんてよくある話、その都度こんな揉め事を起こしていたらキリがないだろう」


そして説教を始める。


「そこで提案なんだが……お前たち、俺の仲間にならないか?」


しまいには勧誘まで始めてしまった。流石にグループのメンバーはしびれを切らし


「お前、さっきから好き勝手!」


ピストルを抜いた


そう、ピストルを抜いた。


しかし、その手に握られていたのはグリップだけだ。


「……!?」


何が起きたのか分からず目の前の男を見ると、その手にはスライドとバレル……

少し間をおいて理解した。

この男は抜き取ったのだ、構えたピストルからスライドとバレルを一瞬で。

男はマジシャンやトルコアイスの屋台の主人が客をからかうかのように、奪ったパーツをちらつかせる。


「こいつ!」


男のこの行動を明確な敵対行為を受け取って、残りのメンバーも銃を抜く。

うち一人は男の左斜め前方からリボルバーを撃とうとした。

だがそれよりも速く男は動いた。


らしい。

正確にはほとんど目で追えなかった。

男は自分に向けられたリボルバーの側面を叩く。

するとシリンダーは外側にスイングアウトし、振動で中の弾薬は零れ落ちた。


次に男は右側から銃を向けるメンバーの目元に、持っているパーツを軽く放り投げた。

目元に物体が飛んで来れば、人間は反射的に目をつぶる。

怯んだ彼はすぐに目を開くが、その時には男が目の前にいた。


「……っ!?」


彼は恐怖心から引き金を引くが、弾は出ない。


「セーフティがかかっているぞ」


言われた初めて気が付いた。しかも既にマガジンは抜き取られている。


「まぁ、そう固くなるな」


そして男に軽く胸元を押されると尻餅をついてしまった。


この時ようやくグループの面々は理解した。

この男とは力の差があり過ぎる。

“武闘は上手い人とやった方が痛くない”という話があるが、まさに今その通りの事が起きていた。

手加減というものは両者に圧倒的な実力差があって初めて成立する。

この男はそれを体現していた。


「俺は別にお前たちを取って食おうとか、そういうつもりじゃない」


男は再び語りだす。


「俺もお前たちも、一緒にいた方が互いに得だろうから、良かったら仲間に加わらないか、と言っているに過ぎないんだ。無理強いするつもりはない」


男は話を続けるが、グループのメンバー達にはその声がほとんど耳に入っていなかった。

実は今、残りのメンバーが一人、男の死角に隠れている。

男の様子を見るに、その存在には恐らく気がついていないだろう。


今なら男を倒せる。


壁の向こう側の仲間に念を送る。

それが通じたのか、どうなのか、最後の1人が壁から身を出そうと一歩踏み込んだ。

その瞬間。


「おっと」


あまりにも素っ気なく、しかしどこか恐ろしさを含んだ声を発して男は屈んだ。

そして焦ることなくズボンの内側に隠したホルスターから銃を抜くと即座に発砲する。


パン!


「あがッ!?」


壁の向こうから叫び声が聞こえたかと思うと、最後の1人が転がり出てきた。


「悪いな、当てちまった。後で手当てしてやるよ」


白煙の上がるピストル、Px4ストームを握った男は地べたに転がりもだえるメンバーに優しく言う。

壁越しの射撃、こんなものを見せつけられてはグループの面々はたまったものではない。


「どうして分かったんだ……?」


メンバーの1人が男に尋ねた。その目には驚きや恐怖を通り越した畏敬の念すら感じられる。


「お前たちの視線さ。まぁ、事前に調べていたから人数が合わないこともわかっていたが……そうだ、俺の仲間になればこう言った戦術の話も沢山出来るぞ!酒を飲みながら一晩中語り合うんだ」


男はとても楽しそうだ。他のメンバー達もいつの間にかこの男に魅入られていった。


「あんた、何者なんだ……?」

「俺か?そうだな……」


男は一拍おいて


「レックス、とでも呼んで貰おうか」


レックス、獣の群れの王。

自分が集団の長であると、臆する事無く男は言った。


「それで…お前たち、俺の勧誘に対する答えはどうなんだ?」


魅入られたメンバー達にとって、選択肢は一つしかない。


「俺は、あんたについていく!」

「俺もだ!」

「俺も……!」


撃たれたメンバーですらも、男の勧誘を受け入れた。


「そうか……!俺の見立ては間違っていなかった!」


男、レックスは心底嬉しそうに笑うと


「新しい仲間が増える……今日はいい日だ!」


月に向かって声高に吠えた。

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