八月一三日のこと。備忘と秋夕のこと。

朔 伊織

息子が語る。

件の如し



 手漉き硝子から覗く外が好きだった。

 透過するあの光が好きだった。


 とは言いつつも、我が家にそんなものはなく。あったのは父の友人の家で。だからこの言葉に隠されているのはその人の家に行くことが好き、という淡い恋慕のような感情。


 あの硝子を通して落ちる境界あわいの光

 手に塗られた薄い影

 その下にある幾多の原稿用紙


 そしてその向こう側にいる父の友人。名を佐々木存真ささきありま。鋭い眼瞳と似合わず声は柔らかく優しい。

 語られる父も、思い出の中とは全く違っていて優しかった。記憶の中の父は、奥座敷で怯え…だからか驚きを通り越しある意味で納得ができてしまう。あの人は、本当はそういう人だったのだろう、と。


 生前の父を知る数少ない友人である佐々木氏は、父が再起不能になってしまったあの日からずっと僕の面倒を見ていてくれた。父の『最愛』の友人だった荻原伊沙楽、さん、が自殺をしたあの日から、もう随分と時間がたっていることをいまだに実感できていないのはある意味ではこの人も同じだったけれど。

 それでもこの人は私をきちんと学校にやってくれたし、保護者ともなってくれた。いっそ養子になってしまえばよかったのだろうけど、斜陽族だからこその体面が我が荻原家にはあった。その当時には最早当主なんていう大層なもの、子息なんていう立場、無いにも等しかったというのに。



 …友人を『最愛』と表現するのはおかしいだろうが、荻原某と父ならばそれは適格といえよう。佐々木氏の口から語られることがすべて本当ならば、あの二人は友人というには距離が近すぎている。でも、それは『恋愛』でもない。愛、とはいえど、愛情ではなく、つまり友人を超えた存在を表現する言葉がないからそういう風になってしまっているだけで…父のような才のない僕はそう表現するしかないのだ。

 佐々木氏の指の下にある原稿用紙はそれの塊だった。

 友人の口から語られる父を書き落としてくれと先方から言われたのは、この街に最後の雪が降った次の日のことだった。

 幼い頃乳母に連れられてやって来たこの家に、私一人で来いという電報をもらった時はそれはもう、嬉しかったのに。



「君のお父上を残しておきたいんだと」



 そう言われて戸惑ったのは昨日のことのようだ。

 でも、もう半年以上も前のことだ。すでに季節は二度移り変わり秋が深まっている。ついに一度も依頼人の顔を見ることなく、父の半生は書き終わった。



「小父上、何故私だったのでしょうか」

「…そりゃあ君が君のお父上の息子だからだ。どうにも先方は奴のファンらしくてね。二度と新作が出ないことを口走ってしまったらこの始末だよ」



 せめてならばそれだったら。

 …貴方の知っている皇義京の半生をお聞きしたい。

 …ご子息がいると聞いたが是非彼に書いていただきたい。


 息子ならその才を受け継いでいるだろうから。


 佐々木氏はすまない、と謝っていた。勝手に引き受けてしまって、と。

 この人が私に対して不利益なことを請け負ったりしてきたりすることは絶対にないから、これはきっと、やんごとなき御方からのお申し付けなのだろうと、飲み込んだ。


 言われてみればおかしな状況だ。

 生きている父の話を、死んでしまった風に父の友人から聞く。

 しかしこれはなんて背徳的で背信的で刹那的で狂おしいほど、哀傷的なのだろう。

 どうしてこんなにも自傷的なのだろう。


 佐々木氏から語られた父、それは私の予想を裏切る優しく慈愛に満ちた父で、愛した友に裏切られた可哀想な父だった。

 頭のおかしな友人に付き合ったのに、その最後には家を燃やされて数多の思い出が灰と化して。

 家人から聞いた父は、如何しようも無い浪費家で男娼を囲み淫蕩に耽って、それでも生きようともがくくせに、日々何かに怯え自傷を繰り返すような狂人だった。


 淡く廃都のような切なさを、薄気味悪いと思うように、

 明治の路地裏の懐かしさを、古ぼったいと思うように、


 見るひとが変われば狂人も聖人に見えるのだということ。その面白くない事実に気がつくことができた半年だった。

 清濁合わせて飲み干す半”生”だった。

 父を語る佐々木氏の横顔を見ながら、手漉き硝子を透過する陽に彩られたその顔に固唾を飲みながら、私はペンを走らせ、何本も駄目にして、そうして出来上がった原稿は誰のものになるのだろうか。父の作品の愛好家だというその人には、どう見えるのだろうか。正反対の印象を持つ人間が書いたマリアのような父は、いっそ、美しく見えるのだろうか。

 そうであればいいと思う。

 息子の私ができなかったことを、してほしいと思う。

 私がすべきだったをしてあげてほしい。


 私は佐々木氏の目を見た。銅色の眼光がいつにも増してしなやかになっているのを確認するために。

 私は言った。私は、罪を作ってしまったのではないだろうか、何の罪かはわからないけれど。佐々木氏ならわかるのでは、ほのかな希望を持った。



「私は殺せないから。どれだけ父が、世間から聞く父と違っていても、それがどれだけ私にのしかかっていても。痛みは耐えたら過ぎ去るから」



 傷から目を逸らす。

 それは罪なのだろう。


 永遠にも等しいほどの時間が経ったような気がして、けれど窓の外はほんの少し暗くなっただけだ。

 佐々木氏は口を開いた。その時、私は、返答を聞いたらもう二度とこの屋敷には来ることはないのだと、確信した。何故なら



「君は、この紙の中で自己を痛めつけ、父上を生かしている。それがどうして罪なると言う?どこの誰とも知れぬ輩に渡すためだけに、君は自分を殺したというのに」



 こうやって救いをくださる。


 幾百の紙が父を表そうと、幾千の本が、幾万の幾億の言葉が父を表そうとしても私は到底それを受け入れることができない。

 私が好きだった光の中で、敬愛する御仁が語ったとしても。

 …本当素晴らしい才能だ。

 気狂いでもこうして価値を見出す人がいる。本当…


 私は佐々木氏の屋敷を後にした。

 完成した原稿を届けに来たのは昼過ぎだったのに、もう道行く自動車はライトを点けている。首を摩る風が嫌で外套の襟に顔を埋めたけれど、あまり意味はない。

 もうじき冬が来る。貴方が望む冬が来る。八月は終わり九月は過ぎ、十月は神を賭す。そうすればすぐそこに貴方が愛した季節がやってくる。

 そしてそれも超えてしまえば貴方と彼が初めて言葉を交わす歳になる。

 そうすれば、もう、

 思えばこの半年は父に生かされていたようなものだ。貴方が私と佐々木氏を繋げこの世に留め置いた。

 だが、それもこの冬までだ。



 佐々木存真と父、皇義京。かつては共に市中を歩いたと言う。

 江里咲華悠えりさきかゆうと父、皇義京。かつては共に名勝を歩いたと言う。

 荻原伊沙楽と父、皇義京。かつては共に夜半を歩いたと言う。


 僕はそのどれもが羨ましくて仕方がないのだ。









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