第3話 母は母でなかった
だが、その中、遠くから聞こえてきた声があった。
その声は不満そうで、ほかの誰もがヴォルダ公に遠慮した口のききぶりだったのに、公を完全に見下していた。
「ヴォルダ公爵などがえらそうに! 臣下の身で! 今に私の時代が来たら、思い知らせてくれる」
それは、少し濁った男の声だった。
「ヴォルダ公爵の入れ知恵のせいで、大聖堂の建築が却下されてしまったのですよ。国防費の方が重要だなんて言うのです! ロンゴバルトの侵略だなんて、もう、十年も前の話ですよ。国防だなんて言って、私たちへの嫌がらせに決まってますわ」
不満そうな女の声が言った。
「ヴォルダ公爵は、神の示す正しい道を歩んでおられないのです。国王陛下は王太子様ほど、英明であられないので……」
どうやら、王太子夫妻らしかった。もう一人の、おもねるような口ぶりの男は、いったい誰だろう。
「公爵は息子自慢だそうで、アデリア王女が呼びつけていたようでございますな」
「フリー何とかという息子ね。顔だけはいいのね。でも性格は悪そうね。えてして器量自慢にロクな人間はいないようです」
ゾフにこの会話は全く聞こえないらしかった。フリースラントは耳が特別いいのだ。
だが、彼は、聞いていて、かなり不愉快になった。そして、同時に不安になった。
その時、フリースラントは、急に背後から声をかけられてびっくりした。
「フリースラントというのか?」
あわてて振り返ると、それは、貴族然としたお付きを従えた、フリースラントより少し年上と思われる少年だった。
「王太子殿下のお子様ヴォードモン公爵様でございます」
ゾフが大慌てで小声で説明した。
フリースラントは、急いで深く礼をした。
「お前が、あのヴォルダ公の息子か」
少年は太っていて、素晴らしい服を着ていた。フリースラントの服が、全く粗末であっさりしたものに見える。
「左様でございます」
さらに深く一礼した。
「ヴォルダ公は嫌いだ」
フリースラントは、なんと言ったらいいかわからなかった。
「左様でございますか」
「母上が今に殺してやると言っている」
「それはまた……」
「ペッシも嫌いだ」
あいにく、フリースラントはペッシが誰だか知らなかった。フリースラントの臨機応変対応能力にも限界がある。
しかし、ここでヴォードモン公のお付きが合図して、彼らは去っていった。
この少年には、フリースラントはかなり驚かされた。
立ち居振る舞いが異常だった。
口ぶりは重く、一つ一つの言葉を口に出すことに骨が折れるようだった。
それでも、きらびやかで重厚な衣装に身を包んだ少年が通ると、周り中の貴族たちは、フリースラントと同じように頭を下げ、道を空けた。
少年は、そのこと自身に気が付いていないようだった。フリースラントは、ここの流儀に慣れていなかったので、この少し異様な感じがする少年に、どう対応したらいいのかわからなかった。少年は、少しもたついた足取りで、ゆっくり離れていった。
「あの少年は、ずいぶん突然に話しかけてきた。いつもあんな感じなの?」
帰りの馬車の中でフリースラントはゾフに聞いてみた。
「ヴォードモン公爵様ですか? 王太子様のたった一人のお子様でございます。フリースラント様より2つほど年上でしょうか。もし、フリースラント様がせめて同い年くらいでしたら、お遊び相手に選ばれていたかもわかりません」
「名門の子弟から選ばれるからな」
それから、フリースラントは、あまり頭がよさそうではなかった少年を思い浮かべた。
「選ばれなくてよかった」
ゾフはフリースラントの気持ちが分かったようだった。
しばらく黙っていたのち、フリースラントはついに聞いた。
「なぜ、アデリア王女が、僕の母だと名乗ったのだろう」
フリースラントは核心に迫った。
訳の分からないことだらけの王宮での一夜の中でも、この問題は、彼の心に刺さったトゲだった。
ゾフは、この質問は覚悟していたようだった。
「十年ほど前のお話でございます。陛下が妹のアデリア様の嫁ぎ先として、ヴォルダ公爵を選ばれたのです」
フリーラントは、びっくりした。
彼はゾフの顔を見た。
「それはおかしい。僕の母はそれなら、どうなっているのだ」
ゾフは辛そうだった。
「奥方様は、素晴らしいお方です。お美しく、節度があり、寛容で……公爵様も心から愛しておられます。立派な母であり、妻でいらっしゃいます。ですが、その結婚はなかったことにされたのでございます」
「なかったこと……とは?」
「離縁された格好になっています」
フリースラントは、最初、意味が分からなかった。
「離縁された……?」
母を侮辱されたような気がして、その目は燃え始めた。
「宮廷に行く前にお話ししておくべきでした」
「どうして話してくれなかったの」
「国王陛下にお目にかかるだけとうかがっていたからです。大貴族の子弟が、特に、王立修道院付属学校に入る前などに、お目見えをお願いすることはよくございます。
まさかアデリア様が、フリースラント様を呼んだとは知りませんでした。公爵様もご存じなかったのでしょう。わかっていれば、先に説明しておかれたでしょう……ヴォルダ公家の秘密を」
フリースラントに伏せられていたのは、彼にとって良い知らせでもなければ、知る必要もなかったからだった。
「ご結婚されたというものの、生活は今までどおりでした。アデリア様がヴォルダ公家の城にお越しになられたのは、結婚式の祝賀の時だけでございました。あなた様は5歳で、覚えておられるかもしれませんが…」
彼は覚えていなかった。公爵家で催された大規模な宴会は多く、どの祝賀会なのかわからなかった。
「それはそうでございましょう。その後、ルシア様がお生まれになりましたが、王宮で出産されましたし、ルシア様がヴォルダ公家の城に来られたことは一度もありません」
あの少女か……。
フリースラントは気が付いた。
「それで、母は今日呼ばれなかったのか」
ゾフはため息をついた。
「はい。母上様は、公爵夫人の地位を追われました。公爵様は、母上様をこよなく大事にされており、今のこの状態に怒りを覚えておられるでしょう。しかし、王命には逆らえなかったのです」
フリースラントは怒りが沸き上がるのを覚えた。
「アデリア様も、多分、お喜びではなかったと思います。確かにヴォルダ公家は王国随一の名家ですし、最も富裕な一家です。公爵様も立派な方です。しかし、お歳が合いません。アデリア様はまだ三十代、公爵様は五十代でございます」
「なんで、もっと若い貴族を選ばなかったのだ」
「それは……」
ゾフは言葉を濁した。王はアデリア王女を手元に置きたがった。婚家先に行かせる気など全くなかったのだ。ヴォルダ公になら無理を言える。
「国王陛下の勝手な選択でございます。アデリア様は、恨んでおられるのでしょう。王様にではなく当家につらく当たられまして、機会あるたびにあのような仕打ちに出られるのでございます。
父上がフリースラント様のご容姿を、醜くはないくらいにおっしゃられたのでしょう。父上は、いつも用心されていますから、そんなに褒めるわけがありません。ですが、アデリア様はどこかでそれを聞き付けて、笑いものにしようと、フリースラン様を呼びつけたのでしょう」
フリースラントは黙った。
「アデリア様が、ご好意をお持ちになる程の美少年でようございました」
さすがにゾフも、アデリア王女には、普段からうっぷんがたまっていたのだろう。ざまあみろと言わんばかりで、少しばかり鼻息が荒かった。
しばらくして、フリースラントは言った。
「母がかわいそうだ……」
その通りだった。
フリースラントの母は、美しく、どこに出しても恥ずかしくない気品のある人だった。それが、突然日陰者のような身の上に追いやられているとは!
「母上はどうお考えなのだろうか?」
ゾフは考え考え言った。
「そのことについて、何かおっしゃったことはございません。あまり気になさらぬよう公爵様には言っておられるようですが……」
「気にするなと?」
「仕方がない、怒っても始まらないとおっしゃっておられました。それはわかるのですが……」
公爵夫人は寛容な人だと、ゾフは言った。だが、フリースラントはおさまらなかった。
翌朝、フリースラントが起きると傍らには母がいた。
母は、相変わらず穏やかで、静かだった。
「夕べの話をゾフから聞きました」
フリースラントは、顔をゆがめた。
「いいのよ、フリースラント。気にしないで。私はちっとも宮廷が好きじゃなかった。わかりますよね?」
フリースラントは、訳の分からない難しいルールが存在していて、そこへ貴族たちの野心や思惑が入り混じる、ややこしい人間関係渦巻く宮廷のさまを思い出した。
ホールに入れない貴族もいたし、妬ましそうにフリースラントの顔を見た貴族もいた。
「あそこに出入りすることを名誉と考える人もいれば、出入りしたくない人もいるのです」
「母上、私もあまり好きになれそうもありませんでした」
「それでも、父上は出入りしないわけにはいかないのです。むしろ、父上が取り仕切っていらっしゃいます。私は、その父上の妻でしたから、決して悪い扱いを受けていたわけではありません。あなたもそうでしょう?」
「私は、昨日、ひどい目に遭ったような気がします」
母は笑った。
「聞きました。何が何だかわからなかったのね。でも、スムーズに出入りできているし、最前列に立つことが許されました。あなたを邪険に扱うような身の程知らずはいなかったでしょうし、妬みの視線は受けても、誰もがあなたに場所を譲ったでしょう」
フリースラントは思い起こした。その通りだった。
「私も同じでした。どの大貴族の奥方も、私には気を使ってくれて、何かと便宜を図ってくれました。でも、居心地は悪かった。私は大人で、どうしてそんな風に気を使ってくれるのかよく承知していましたから」
「わかっていながら、そのうえで偉そうにふるまったりする人だっているでしょう」
「もちろんですとも。下心だけでヴォルダ公妃に近づく貴族の夫人も多かったのです。いくらお世辞を言われても、親しくするわけにはいきません。たいていは、お父様にお願いごとを聞いて欲しいのです。すぐに見抜けましたが、うまく断らないと、逆恨みするような方々も、中にはいるのです」
フリースラントはむずかしい顔をした。
「14歳にはまだ難しいと思うわ」
母は、軽く笑った。
「だから、私は王宮に出入り禁止になって、むしろほっとしたのです。出入りすることはできるのよ? 新しくテンセスト女伯に叙爵されましたから」
フリースラントには意味が分からなかった。
「公爵家の夫人ではなく、女伯爵になったのです。一代限りの。この身分で、宮廷に出入りはできるのです。でも、きっと、王も公爵夫人のアデリア様も喜ばないと思うの。私も行きたくありませんし。ですから、伯爵の身分は賜ったけれど、宮廷に出入りはしませんでした。叙爵は王様からの迷惑料なのです。だから断るわけにはいきませんでした」
「でも、母上、この問題で一番腹が立つのは、母上が父上の妻でないという言う扱いを受けたことです」
フリースラントは思い切って言ってみた。
「フリースラント、その通りよ。でもね」
母は言った。
「お父様が一番大事な女性は私なのです。アデリア王女は父上を憎んでいる。私は幸せだけど、アデリア王女は、どうなのでしょう。もしかしたら、アデリア王女も、大事な人がいるのかもしれませんね。それなら、幸せなのかもしれません」
母は笑った。
「フリースラント、あなたは決して鈍くはないわ。だから、そんなことが気になるのね。それより学校へお行きなさい。私は行ったことがないけれど、きっといろいろな貴族の家のご子弟と一緒になれるわ。勉学よりそっちの方がためになると思うの」
まだ、難しい顔をしているフリースラントに、母は明るく話をつづけた。
「学校で同じ年ごろの子供たちと一緒に勉強するのは、宮廷で暮らすより、きっと楽しいと思うわ」
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