不思議に満たされた気分になり、それが手助けをしてくれて、私は夕食の時間までに「死に至る病」を読み終えた。何かが分かったような気がしたし、何も分からなかったような気がした。ただ、今回の場合は内容を理解する必要はない。何故なら、私は哲学するためにこの本を読んだのではなく、木村という一人の人間の死を探るために読んだのだから。しかし、その目論見も上手くいかず、要するに読んだところで木村の死に繋がるものは何も見つからなかった。ただ例の一文、「死に至る病とは絶望のことである」という言葉に強く惹かれた。傍線が引かれたその部分は、木村の心に何かを植え付けたのだろう。

 きっとその一文も含めた様々なものを積み重ねた末に、木村は絞首台に上ってしまったのだろう。そして私という存在も、その足場を構築した要素の一つであるのだ。

 様々な逡巡を経てきた私は最早、木村の死を間接的に助けてしまったのではないかという疑念、そうしたものの復活に動揺することはなかった。むしろこの哲学書を読み終えた達成感のようなものが、私の勇気を支えているように思われた。そこまでの過程を無事に乗り越えた私は、しかし、その先にまたしても深淵を認めなければならなかった。十五年前の手紙を渡すことについて思い悩むことはしない。しかし、その先に何を求めているのか? 何を目指しているのか?

 答えはまだ、見つからなかった。






 その日の夜も愛と食事を共にすることになっていた。私は部屋で食事が運ばれてくるのを考え事をしながら待っていたのだが、午後七時を過ぎた頃に愛がやって来たとき、彼女は食事の代わりにある提案を持ち込んできた。

「大浦さんと一緒に下のロビーで食べませんか?」

 私は愛と二人きりで食べることにこだわっていなかったから、三人で食事をすることに同意した。ただ、何となくいそいそと一階に下りて行く気分でもなかったので、少ししてから行くと伝えた。

 愛の足音が遠ざかるのを聞きながら、私はこの大友館に来てからの四日間の出来事を思い返した。二日目に中川恵理に電話をかけ、三日目に愛や大浦さんと出会った。そして四日目、つまり今日の夜はその二人と食事を共にすることになる。その間に何度か入鹿池を一周しようと試みたが、全て失敗に終わった。私は道に迷った一人の哀れな人間のようだった。そう、私はまさに道に迷ったちっぽけな男なのだ。そんな私に光明を与えてくれたのが、この大友館で出会った人々だった。

 私は、知らず知らずのうちに人生の岐路に立たされているような思いがした。それは単純に今の仕事には復帰できないだろうという見通しのせいでもあったし、もっと広い意味で、このちょっとした冒険が私の人生を変えるのではないかという根拠のない予感のせいでもあった。ふと、部屋の片隅に鎮座している全身鏡に視線を向ける。今まではまるで気にしていなかった全身鏡の前に、少しずつ老いていく自分の姿を晒してみようと思った。自分の容姿に自信があるわけではないが、そう悪くないものだと感じてもいる。しかし、久しぶりに見た自分の姿は、その予想を外れてくたびれていた。

 瞬間的に大浦さんと愛のことを思い返した。私は大浦さんのような歳の重ね方ができるだろうか? いや、それはできないだろう。あの人とは過ごした時代が違うのだ。かと言って、愛のように活き活きとした少年時代を過ごしたかといえば、そういうわけでもなかった。つまりは谷間なのだ、と私は口ずさんだ。絶対性の時代が過ぎ、相対性の時代が始まる前の谷間の世代。それが私たちだった。その思考の果ての究極的なところに木村が立っている。木村は絶対性と相対性との板挟みになって死んでいったのだ。絶対とされた価値観が崩壊していく中で、新しく生まれた相対的な価値観に順応することができずに。それは私も同じことだった。それは、大浦さんや愛や木村がいなければまず間違いなく気づかなかったことだった。

 しかし、知ってしまうことの地獄というものもまた存在する。もしも、良い大学を出て良い企業に入りより多く金を稼ぐことに疑問を感じなければ、私はきっとそのレールの上を歩き続けたことだろう。かといって、そのような価値観を否定する新しい価値観、曖昧な形の幸福を信奉する価値観にも順応できないだろう。それこそがまさに地獄だった。知ってしまった後でどこにも身を置くこともできず、それでも私はどこかへ向かって歩き続けなければならないのだから。

 そこまで考えたところで私はようやく腰を上げた。いつまでも二人を待たせるわけにはいかない。電灯が灯っているというのに相変わらず暗い廊下を一人進みながら、私はその先に待つものに興奮し、恐怖もした。




 思っていたよりも時間は経っていなかったらしく、ちょうど私が一階に下りたところで食事が運ばれてきた。私と大浦さんは生ビールで、愛はコーラで乾杯した。狭い部屋に女子中学生と二人で飲むのとはわけが違うので、大っぴらに酒を飲むことができた。旅館の主人が気を利かせてくれたのか、唐揚げや天ぷらやフライドポテトや刺身など、少しずつつまめるようなものが並んだ。それを見た愛が、

「わあ、揚げ物ばっかり」

 と呟いたのに大浦さんは気付かなかったらしく、私は一人で笑いを噛み殺すはめになった。愛は刺身には手を伸ばさず、唐揚げやフライドポテトなどを受け皿に取って食べたが、大浦さんはその反対に唐揚げなどには手を出さず、刺身をゆっくりとしたペースで食べた。大浦さん曰く、

「老い先短い身ですから好きに食べたいものですが、身体を労るように妻と約束してしまったのでね」

 ということらしかった。ただ、それまでは酒を酌み交わす機会がなかったので気付かなかったが、大浦さんはかなりの酒豪らしかった。私は中ジョッキの生ビールを二杯飲んだところで今日はそろそろ加減をしなければなと考えたのだが、大浦さんは三杯目を飲み終えてもまだ勢いが衰えなかった。終いには主人が持ってきた日本酒を飲み始め、私にも勧めてくれたのだが、酒をちゃんぽんに飲むと必ず気分が悪くなるので断った。大浦さんはさすがに赤ら顔になりながらも意識は明朗なままで話し続けた。

 さて、三人は食べて飲んでと大忙しではあったが、会話も間断なく続いた。私はその会話に参加しながら、まるで素潜りをしているような気分になった。つまり、会話をするときは水に潜った状態のようなもので、飲食をするときは疲れて呼吸を整えるために浮き上がるようなもの、とでも言えば良いだろうか。とにかく三人ともよく喋った。

「君は朝早くからよく運動しているね」

「おじさん、わたしは何部だと思います?」

「何部……、ああ、部活動か。そうだね、吹奏楽部かもしれないな」

「すごい! よく分かりましたね」

「大浦さん、もしかして知ってたんじゃないですか」

「ああ、ばれましたか。こちらのご主人に聞いたことがあるんですよ」

「愛ちゃん、こういう大人に騙されるんじゃないぞ」

 とまあ、こんな具合に会話が始まった。そこから愛の学校の話に発展し、私の見立て通りに愛が勉強が苦手なことを告白し、私と大浦さんとで今から遅くはないから勉強をしておきなさいと口を揃えて忠告した。やはり大浦さんも私と同じ印象を持ったらしく、愛は努力の方向を間違えなければよく伸びる子だと言っていた。その言葉に愛が勇気づけられるのを見ていると、私も人間を見る力が養われてきたのかなとしみじみと感じたりした。

 やがて大浦さんを中心とした話題に流れていった。大浦さんは主に奥さんとの思い出を語り、必要最低限ながらも息子のことを話した。ほとんどは私も大浦さんに聞いたことばかりだったが、初めて聞かされた話もいくつかあった。

「勤めていた会社は東京にあって、妻と出会ったのも東京でした。今でも東京のあちらこちらの情景が心に浮かびますが、それでもやはり生まれ育った土地のことは忘れられないものです。妻は山口に移り住むことにはあまり乗り気ではなかったようでしたからずっと東京で暮らしましたが、今は独り身になってしまったものだから地元に帰ったんです」

「となると、大浦さんの生まれは山口なんですか」

「ええ。そういえば、貴方は東京の生まれですか?」

 そこで私は北陸の田舎町で生まれたことを話した。そうなると話題の軸足が完全に私の方に移って、愛も大浦さんも私の話を楽しげに聞いてくれた。そうやって嬉しそうに聞いてくれる相手がいるだけで、何だか自分の生まれ故郷に対する印象が変わってきた。言うなれば、私は会話という手段で自分の頭の中の情景を二人に投影なり共有なりしているのだが、フィードバックというか循環とでも言えば良いのか、二人の受け取り方が肯定的なものだから、私は素晴らしいところで育ったような気分になる。それは言うまでもなく一種の幻想で、私が育ったのは寂れた田舎町であることに変わりはないのだが、心は間違いなく揺り動かされていった。

「就職してからは全く帰郷していないんです」

 私が口走ったその言葉に、二人は口を揃えてそれは良くないと言った。一人息子と生き別れになった大浦さんが真剣な顔をしているのは当然として、愛までもが少し強張った表情をしていることが不思議に思えた。私はなんとなくその疑問を口にした。返ってきたのは、思いがけない答えだった。

「話しても困るようなことじゃないから話します。わたしのお母さん、心臓が弱くて入院しているんです。この旅館に預けられているのも、それが原因で」

「……そんなに悪いの?」

 私は軽々しく疑問を口にしたことを後悔しながら訊いた。

「この前手術してもらって、それが上手くいったから、早ければ明日にでも退院できるみたいです」

「それは……、良かった」

 大浦さんは言葉を詰まらせながらそう言った。私はそのことを頭の片隅で疑問に思いながら、まずはほっとした。しかし次の瞬間には、大浦さんが言葉を詰まらせた意味を理解した。

 愛は私たちの心中を察する余裕もなかったらしく、率直な瞳で私を見つめてきた。

「だから、たまには家族の待つところへ戻ってあげて下さい。いつ離れ離れになったとしても後悔しないように」

 城外に鬨の声を聞いたような不穏さがまとわりついて離れなかったが、愛のあまりにも、あまりにも率直な言葉のおかげで沈痛な雰囲気に陥ることはなかった。

 たとえ三人がこうして顔を合わせることが二度とないとしても、後悔しないだけの濃密な時間を過ごせば良いのだから。私と大浦さんは一瞬だけ顔を見合わせ、今日という日をせめて愛のためにだけでも楽しく過ごそうと誓い合った。






 愛は明日も学校があるので、午後十時にはお開きになった。二階の廊下の奥の静かな部屋に戻ったところで、私は今日という日をきっと忘れないだろうと思った。

 考えてみれば、酒を飲むのは本当に久しぶりのことだった。最後に飲んだのは、ひょっとすると木村の死の直前に居酒屋に入ったあのときかもしれない。それから今日までの間に痛切な別れと大切な出会いを経験した。次に出会うことになるのは中川恵理だ。彼女との出会いが何を生み出すか、それはそうなってみなければ分からない。ただ、最悪の結果にはならないだろうという根拠のない予感はあった。

 ……それにしても、愛が発したあの言葉は、喜びと悲しみの入り混じった矛盾したものだった。母親の手術が無事に成功して退院する、それは実に素晴らしいことだ。ただ、それは愛との別れを意味してもいた。愛は自宅に帰って日常に戻る。そうして私たちが会う機会は二度とないかもしれない。だからこそ、離れ離れになったとしても後悔しないように、私と大浦さんは楽しい時間を過ごそうと誓い合ったのだ。

 久しぶりの酒が頭をぼんやりとさせるようだった。残りの思考を布団の中に持ち込もう、そう思って明かりを消そうとしたところへ扉を叩く音がした。不審に思いながらも扉を開けると、暗い廊下に大浦さんが立っていた。

「貴方にだけは伝えておきたくて」

「発ちますか」

 私は反射的にそう言った。言った後で自分で自分の言葉にびっくりしたが、それ以上に大浦さんは驚いた顔をしていた。そして、頷いた。

「明日は雨です。雨が別れの悲しみを洗い流してくれるような気がするんです」

「山口に帰るんですか」

「いえ、この足で一度東京に行ってみます。奇跡を信じるような歳でもないが、絶望に甘んじる歳でもありませんからね。ふらりふらりと、息子を探してみますよ」

 では、と言って大浦さんは暗い廊下を戻って行った。あれだけの酒を飲みながらしっかりとした足取りで歩いて行く老人の背中を見つめていると、奇跡とやらは起こり得るのではないかと私には思えた。

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