輪転 (2019 Remaster)

雨宮吾子

 午前六時、私はいつものように目を覚ました。枕元の目覚まし時計を探して手を伸ばしたが、指先のざらざらとした感触には慣れないものを感じた。少しの間を置いて、いつもとは違う場所に眠っていたことに気付いた。

 ああ、ここは東京の外れの粗末なマンションではなく、池の畔の小さな旅館なのだ、と。私はここ最近の出来事を寝惚けた頭で思い返して、この場所に辿り着いたことを不思議に思わずにはいられなかった。カーテンを開けて眼下に広がる入鹿池を眺めながら、同じ時刻でも東京と愛知とでは随分と明るさが違うのだなと当たり前のことを考えた。あいにくの曇り空でもあったので、余計にそう感じたのかもしれない。

 ふと、大学時代に一度だけロンドンに渡ったときのことを思い出した。それは二十歳になったお祝いとして、両親からプレゼントされた旅行だった。両親は私に気を遣ったのか友人と行くことを勧めてきて、その頃に親しくしていた数少ない友人たちからは各々の理由で断られ、ちょうど交際している女性もいなかったので、私は仕方なく初めての海外旅行を一人で迎えることになったのだ。ふと立ち寄った音楽ショップでジャケ買いをして気取ってみたり、広大なハイド・パークを訳知り顔で散策してみたり、あの有名なアビイ・ロードの横断歩道を独り渡ってみたりした。楽しくも寂しい、けれど決して空しくはない一人旅の中で最も印象に残っているものといえば、いつも頭上に覆いかぶさっていたあの分厚い雲になるだろう。濁った乳白色のその雲の下を歩き回った経験は、私という容器を何かしらの形で変容させてしまった。離陸した旅客機が再び地面を捉え、私が母国の大地を感じたあの瞬間に、私はそのことを我ながら悟ってしまったのだった。

 今も私という容器は変容し続けている。その中に満たされているスープの風味は同一性を保っているけれども、社会人として生きていく上で容器の中身はさほど重要視されなかった。容器の口と口を合わせてお互いの中身を交換し合うような関係は、今の時代にはあり得ないかもしれない。その可能性が存在していたとしても、それはもう不可能になってしまったのだ……。

 ピンクのラインの入った黒いジャージを着た中学生くらいの女の子が、窓の下を駆け足で通り抜けていった。ここは朝も昼も静かな場所だが、夜中になるとけたたましい音を立てる暴走族がうろうろしていて、穏やかに眠ることはできなかった。それに自分で思っていた以上に神経質なのか、慣れない場所では落ち着いて眠ることができなかった。

 大きなあくびをした私は、カーテンを閉じて再び短い眠りに就くことにした。




 次に目覚めたときには午前九時を回っていた。その間に一度、旅館の主人が部屋を覗いた気配があった。きっと朝食のことで用事があったのだろう。私も電話をかける用事があったので、電話のある一階に下りる準備を始めた。この部屋から電話をかけても良かったのだが、そう広くはない空間で大事な電話をかけるのは息が詰まるような感じがした。

 トイレを済ませ、洗面台に向かう。休暇中だというのに疲れきった男の顔が鏡に映った。最低限の身だしなみのために毎朝欠かさず鏡には向かっているが、普段よりも惨めな顔をしているように見えた。それは時間の余裕があってまじまじと自分の顔を見たからなのか、それとも照明の関係なのか分からなかったが、鏡が映し出すものは全て真実だった。

 一階に下りると愛想の良い主人が朝食を準備しましょうかと尋ねてきた。起きたばかりで腹が減っていなかったし、早く用事を済ませてしまいたかったのでそれを断った。私はロビーの電話を借り、先日調べてもらった番号にかけることにした。ロビーのソファには客の老人が座っていて、難しい顔をして朝刊を読んでいた。聞かれて困るような話をするわけではないので、私は構わずに電話をかけた。三度のコールを経ても相手は出なかった。手近にカレンダーがあったので今日が日曜日であることを確認する。と、五度目のコールで女性が電話に出た。

「はい、中川です」

「……突然すみません。ええっと……、そちらに恵理さんという方はいらっしゃいますか?」

 私は番号を間違えてかけてしまったのかと思って、念の為に名前を確認した。

「中川恵理は私ですが」

 時の流れとは残酷なものだ。私は思わず天を仰いだが、その間を怪しむ気配が相手にあった。

 唐突な話で申し訳ないが、と前置きをした上で、私はこれまでに起こったことを彼女に説明した。とても熱心に言葉を繰り出したので彼女の感情を読み取る余裕はなかった。一通りの説明を終えた後で沈黙に突き当たったとき、私は恐るべき深淵を鼻先に感じた。

「もしもし?」

 しばらくの間があって、ようやく彼女が応えた。

「それで、そのことを私に伝えてどうするんですか?」

「今の話は理解していただけましたか?」

「何があったかは分かりました。でも、それでどうしろと言うんですか」

「あなたに渡したいものがあるんです」

 ひょっとしたら、彼女には思い当たる節があったのかもしれない。再び訪れた沈黙の中で、私はそんなことを考えた。

「あなたはそのためにわざわざ東京からやって来たんですか」

「そうです」

「そんな……、そんなことを聞いて、断るなんてことはできません」

「受け取って頂けるんですね?」

「その前に一つだけ教えて下さい。どうしてあなたはそこまでする必要があるんですか」

 それは尤もな質問だった。私は独り言のように答えた。

「私が、彼を殺してしまったのかもしれないんです」

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