134枚目 「肋骨を渡る獣たち」
イシクブール西地区。
昔ながらの町を保存した区域――といえば、聞こえはいいかも知れない。
事実、この区域に住んでいる住民は生活に困っている様子も無く、早朝だというのに駆け回る子どもの声があちこちから聞こえてきた。
昨日探索した東地区は地面の下へと入り組んだ住宅街だったが、こちらは地面の上で入り組んだ地形になっている。晶砂岩製のアーチ橋は、まるで根を下ろすように住宅地へ階段を降ろしている。上に昇れば、町の全てが見渡せるほどの高さがあった。
この通路、周辺住民からは
幾つもある白いアーチ橋を貫くように、南北に一本だけ通っている細い通路。
針頭とツノ付きの獣人は二人並んで、鋸壁に挟まれたそこを歩いてゆく。
「夜に来た時も思ったけど、ここは随分と高いよね。それでも、ノット教の鐘よりは低い……のかな」
「ええ。宗教的な理由もありますが、建築技術の発展も理由の一つでしょう。教会ができたのは橋の建築よりずっと後のことです。めぇ」
ペンタスは手にした古い手帳をぱらぱらめくって説明する。
町中に郵便物を届けるアルバイトをしている彼は町の歴史や知識に富んでいた。住民や観光客から道を聞かれたりすることもしばしばあるらしい。
「ハーミットさんは
「ん? いやいや、俺は何処にも属してないよ」
「そうですか。魔族の方だと、たまにポイニクスの教会が見当たらないと怒る人が居たりするので身構えちゃいました。めぇ」
ハーミットは鼠顔の下で苦笑をもらす。魔導戦争は終戦したとはいえ信仰に関するごたごたは現在も絶えない――針鼠のような反応を示す人間も、珍しくはないのだろう。
「ははは。それはもしかして、去年来た赤髪長髪三つ編み騎士とかだったりするのかな」
「あ、アネモネさまですか? いえ。彼は特にそんなことは一言も……えっ、赤髪長髪三つ編み騎士って……『嫉妬さま』は魔導王国でそう呼ばれているんですか?」
「浮島ではこれで通じるってところはあるかな――いや待って『嫉妬さま』?」
「ええ、アネモネさまの愛称といいますか。イシクブールの方々は彼のことを『嫉妬さま』とお呼びになりますね」
「……」
針鼠はしばらく黙した後、すと顔を上げた。心配した獣人の少年と、
黒い硝子玉の瞳からは、何も読み取れない。
「な、何か問題がありましたか、めぇ……?」
「うんや、その逆かなぁ。教えてくれてありがとう、ペタくん」
明るい声の返答に、ペンタスはひとまず胸を撫で下ろした。魔導王国の従者の威を借るということはこの町の発展や存続にも関わる。そう、必要以上に危惧しているようにも見える。
蔦囲いの宿での対応や、町長であるスカリィが提示する条件の甘さ――それらはハーミットの中で強い引っかかりがあったが、ペンタスの反応を見て合点がいった。
(魔導王国の権威が強すぎるんだな……それとも、そういう風に仕立てている誰かが居るのか。どちらにせよ、報告する必要はあるか)
イシクブールはシンビオージ湖と浮島、双方の目と鼻の先にある町だ。
首都であるサンドクォーツクと大差ない人口を抱えるこの町は、共和国になる前まで一つの国だった。
(この町には六年前のシンビオージ湖の発生に立ち会った住民も多いだろうし……一度染みついた印象は、中々拭い取れるものじゃないな)
「ペタくん」
「はいっ!」
「聞き込みだけど、闇雲に聞いていくより的を絞った方が良いかと思ってね。情報通の人とか、心当たりはある?」
「噂、っていう意味でしたら馬宿のピトロさんですかね。個人的には、端から端まで聞き回った方が良いような気もしますが。めぇ」
「……仮に、この町で聞き込みをするのが君やキーナくんだけなら、そうだったかもしれないね」
でも、俺たちは違う。針鼠は獣人の青年の方へ振り向いた。
人の噂は怖いものだ。町の端から順に聞く間に、本当に必要な情報を持っている人間が逃げてしまったら全て水泡に帰してしまう。
(人は、同じ脅威を前にしたときに強く団結する場合がある。イシクブール自体が区域分けされているとはいえ、キーナくんとペタくんのように近所付き合いがしっかりある地域だと、湾曲した情報ですら一瞬で広まりかねない。……この町の住人に「目の敵」扱いされるのは都合が悪い)
「んー。『魔導王国の鼠顔が何か聞きまわってる』っていう噂が広まるより、『ペタくんや馬宿の人の知り合いが何か困ってるらしい』っていう情報が広まって欲しいってことだよ」
噂の主語はあくまでも「魔導王国の役人」ではなく「この町の住人」であった方がいい。
信頼を短期間で勝ち取る事は難しい――周囲の信頼度を利用するのは、ハーミットがここ数年で身に着けた処世術の一つだった。
ツノ付きの獣人は、針鼠の言葉にしばらくポカンとしていたが、内容を反芻することで理解したらしくポンと手をうって目を瞬かせる。
「た、確かに! 西地区は観光客の方も殆ど来ないので、外から入る方に対する風当たりは多少強いかも知れないですね。……でも、ボクは今までそんな事気にしたこともなかった……やっぱりハーミットさんは凄い人です。めぇ!」
「い、今、感心される所なんてあったかなぁ」
「ありますよ! ハーミットさんは自己評価が低すぎるようにすら思います! めぇ!」
目をキラキラと輝かせながらハーミットに詰め寄るペンタス。針鼠の少年は笑いながら、自分より身長がある彼の肩を元の位置まで押し戻した。
浮島に居るカルツェ然り、ラァガァモォール然り――。
(……自認する実力以上に慕われるのは、苦手だ)
そも、この陸橋の上で会話をしている時点で
「――そろそろ行こうか。馬宿なら、正門側に何件かあるはずだよね」
「めぇ! 良く知ってますね。流石です!」
「ははは」
ハーミットは空笑いして、白い石で組まれた通路を南へ歩を進める。
ペンタスはにこにことしながら、硬貨を潰したような瞳を歪めた。
その後、馬宿の情報通ピトロを尋ねたハーミットとペンタスは手に入れた情報を元に西地区の住民に聞き込みを行った。ペンタスがピトロの名を出せば、住民は針鼠を警戒しつつも質問に答えてくれる。
「魔導王国の印象? ああ、まぁ、戦争の前よりは食べ物に困らなくなったかな。その程度だよ。……二か月前に来ただろう不審な馬車について聞きたい? 知らないよそんなの。アタシは街道にすら滅多に出ないんだ、じろじろ見ることもないしねぇ。アタシみたいなおばさんに聞くより、隣に住んでるお兄さんに聞いてみたらどうだい? 船都市でも勤めてた優秀な人だよ」
「ありがとうございます。聞いてみます」
「魔導王国をどう思っているか? ……言うまでも無く大国だよな? あー、そうじゃないか。情勢調査って奴? なら、第一よりはまし、とだけ答えておこう。下手なこと言って捕まっても困るかならぁ。……二か月前に不審な馬車を見なかったか? いや、知らねーよ。……斜め前の家に住んでるおっさんなら、毎日町を歩き回ってるし、何か知ってるんじゃねえかな。毎日昼から酒飲んでるけどな」
「わかりました。ご協力ありがとうございます」
「……魔導王国か。ここだけの話、ちと怖いわな。そりゃあ戦争が終わって、賠償金やら土地やら、生活に困るような要求をされるわけじゃあなかったのは幸いだがな、それでも緘口令とか焚書とかあるだろ? シンビオージが吹っ飛んだのを、俺はこの目で見てるんだ。支持できるかっていやぁ……第一といい勝負じゃねーの。……あ? 二か月前の馬車? んなの憶えてたら余程記憶力いい奴だわな。……その辺走り回ってるがきんちょに聞いた方がよっぽど有益じゃねぇの? それともなんだ? おじさんと一杯ひっかけてくか? ん?」
「勤務中なので遠慮しま……ちょ、あの、引っ張らないでくれま、助けてペタくん」
執拗に酒を勧めてくる地元住民を巻いたところで、息も絶え絶えな針鼠は脳内の情報をまた一つ更新した。おじさんの足止めを終えたペタも、駆け足で追いつく。
「ご、ごめんなさい、めぇ。彼、毎日お酒ばっかり飲んでいるんです……」
「ははは。大丈夫大丈夫、ありがとうペタくん」
ハーミットは手帳に書いていた人名リストにまた一つ下線を引いた。
これで、西地区の住民の二割ほどに話を聞いたことになる。
「初日の前半でこれなら、明日までにはある程度聞き終わりそうだ。よかった」
少年は鼠顔の位置を直しながら、苦笑する。情報収集のペース自体は悪くない。
問題はその数の多さと、時間の有限さである。
(情報の質はともかく、まずは目撃者が欲しい。藁をもつかむ思いではあるけど……なりふり構ってられないかもしれないな)
ペンタスは背後にあった小さなパン屋の窓越しに時計を見つけ、眉を寄せる。
少年が背負う鞄についている時計も、同じぐらいの時を示している。
「めぇ。十時を回ったぐらいですけど、どうしましょうか。もうしばらく聞いて回りますか?」
「んー、そうだね。さっきのおじさんが言ってた『子どもたち』に会いに行くという手もあるけど。ペタくんはこの辺りで、子どもたちが遊び場にしてる場所とか知ってる?」
「いえ……その辺を走り回っているのを見つけて呼び止めるしか――」
途切れた会話に、ハーミットが顔を上げる。
ペンタスの視線の向こうには、頭に黒い角を生やした黒い毛並みの獣人が立っていた。
午前十一時五十六分、東地区。
「はぁーっ。今の時間が仕事じゃない人たちの家は、これであらかた回ったよ」
「そうなの……良かったわ。午後までにはお屋敷に戻ることができそうね」
『くぁ』
大きな欠伸をした黒い毛玉のような蝙蝠は、引き続き惰眠を貪るために少女の腕に顔を埋める。
両腕が塞がったラエルは額に汗をにじませながら町長宅へと戻る途中だ。
記録用紙は
少女の隣を歩くキーナは被っていたハンチング帽のつばを押し上げる。色彩変化鏡の効果で、青灰の瞳は鮮やかな若葉色。白い水晶体が少女の紫目を捉えた。
「それで……僕らが集めた情報、役に立ちそうなわけ?」
「うーん」
ラエルは眉間に皺を寄せながら、眠りこけた蝙蝠の首元に指を埋める。
「私一人では判断できないわね。あっちの意見も聞かないと」
「……やっぱり僕、邪魔だった?」
「まさか。キーナさんが付き添ってくれてなければ、こんなにスムーズに話を聞いて回るなんてできなかったと思うわ――多分、西側に行った二人も同じ様な状況じゃないかしら」
或いは、針鼠がそのことを予想してラエルをこちら側に割り当てたのかもしれない。
「まあ、住人さんの反応以前の問題もあって……二か月も前のことをはっきりと覚えているような人なんて、極めて稀よ。だから、仕方がないわ」
「肝心の情勢調査も、上手くいかなかったみたいに見えたけど?」
「それは……そうね。回答を拒否する人も珍しくなかった。けれどそれは、回答の自由があってのことだから。無理に聞き出さなくていいと思うの」
ハーミットや魔導王国には悪いけれど。ラエルはそう呟いた。
黒髪の少女からしてみれば、情勢調査は浮島から降りる条件の一つでしかない。既に辿り着いた第三大陸では、魔王の目を気にする必要もない。
(寧ろ警戒するべきは針鼠と蝙蝠の行動なのよね……味方を疑うって気を張るし、なるべくしたくないけれど。こればかりは仕方がないわ)
魔王直属の部下であり、ラエルの監視を続けるハーミット・ヘッジホッグ。
浮島に居た時と比べると彼の仕事量は減っているだろうし、今回の旅は多少気が楽なんじゃなかろうかとは思うが。
一人で眉間の皺を深くしたラエルに、キーナは何かを言いかけて、辞める。
「ラエルさんって、幾つ?」
「私? 貴方とはあまり変わらないかもしれないわね。十六よ」
「ふーん、僕とそう変わらないのか」
「ペタさんも貴方と同じぐらいなの?」
「いいや? ペタは僕より一回り以上は年上だよ。精神年齢は僕らと同じぐらいかもしれないけど」
ラエルはキーナの言葉に閉口する。
というのも、獣人の見た目年齢は魔族以上に人族の感覚と相容れない。
確か浮島に居た烈火隊のアルメリアですら五十代だったはずだ。最前線で活躍する軍人でそれなのだから、少年と青年の狭間のような姿をしたペンタスがラエルたちより年上だとしてもあまり驚きはしない。
「とはいえ……言われてもまだ、見た目と年齢のイメージが合致しないわ」
「四種族の中で一番寿命が長いのは獣人だって言われているぐらいだからなぁ。若年期と老年期が滅茶苦茶長いらしいよ――っと、ペタたち、もう戻ってたのか。あの針鼠も四天王を名乗るだけあって仕事が早いなー」
町長宅の前で待っていた針鼠は、隠れた口元で苦笑を漏らす。
ペンタスは珍しく眉間に皺を寄せ、壁に向かって何かぶつぶつ言っていた。
灰髪の少年はその様子を見て怪訝な顔をする。
黒髪の少女は腕に抱えた蝙蝠を撫でる手を止めて、首を傾げた。
「何か、あったの?」
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