112枚目 「Alkalosis」


 天幕の天井に穴を穿った水槍は、もみ合う彼らの真横に勢いよく突き刺さった。


 因みに、着弾した効果音を表現するなら「チュドォオオオオン!!」である。


「……!?」

「……!?」


 それは洗練されているとはいい難い形状をしたブニブニの水槍だったが、瞬く間に人ひとりが両腕を伸ばして届く程度の範囲に水を散布する。そして、同じような水槍が目の前にまた一本突き刺さった。


 得体のしれない槍の飛来、襲う側も襲われる側も身を固くした――その隙を鼠頭は見逃さない。


「当然だけど牙を立てるのは両者同意の上で宜しく」

「っち、今度はなんだよ!? って――ぐぶごはぁっ!!」


 力強く、覆面の脳天に瓶底が押し付けられた。


 最早殴って気絶させる手間すら省き、魔法瓶で直接殴る方針に切り替えたらしい。吸い込まれるようにして捕獲された賊の姿をぽかんとした顔で眺める彼は、この日始めて目にする系譜の獣人に目を瞬かせる。


 背中には銀の針。茶色の鼠顔に黒い瞳が嵌っている。

 見た目通りなら「針鼠」と言うべきなのだろうが、彼はそのような生物に覚えがない。


(ダッグリズリーの革で顔を覆っているのか……? あの白色で珍重されている毛皮を染めてまでして? 鼠の様な匂いは何処から? 背中の針はどう見ても仕込み武器だけど、コートの素材が特定できない。何製だこの革――)


「やぁ青年」


 と、声をかけられるまで放心していた彼――角を頭に生やした獣人の青年は肩を跳ねさせると顔を上げる。表情の読めない鼠顔の少年が獣人のフリをしながら差し伸べたその手を恐る恐る握り返した。


「め、めぇっ! お陰様で無事で――げほごほっ!!」

「あまり吸い込まない方が良い。一酸化炭素中毒もそうだけど喉を傷めるよ」

「……イッサン?」

「何でもない。とにかく呼吸は最低限に、身を低くして。一度天幕テントから離れよう」


 天幕テントから引き摺り出され、青年はすっかり火が回ってしまった市場バザールを呆然と目で追った。色彩豊かな天幕はいずれも赤々と燃え上がり、商品が無事な天幕テントは一つも無い。


 そんな中、何処からか飛来する巨大な水の槍は次々と火の元に着弾していく。

 二人が市場バザールを出る頃には、燻った黒い煙が夜空に立ち上るだけになっていた。


 青年は変わり果てた市場バザールを眺めていたが、はたと思い至って振り向く。


「あっあの、ボクの他に逃げ遅れた人は!?」

「全体を見回ったけど、この中を出歩いているのは君と賊の奴らだけだったよ。多分籠城部屋に籠もっているんだろうさ」

「そうなんですか……げほっ」

「ああ、間に合ってよかった。……うん、恵みの雨だね」


 鼠顔はそう言って水槍を追って降って来た小雨の粒を払い落とし、星の見えない空を仰ぐ。


「……」


 獣人もどきの少年を警戒しつつ、しかし山羊頭の青年にはその姿がやけに眩しく見えた。

 思わず、硬貨を潰したような瞳を伏せた。







 槍が降る。水の斧槍が形を崩して降り注ぐ。

 それを追いかけるように降り始めた雨に、黒髪の少女はようやく息を吐いた。


(もう、大丈夫。魔術を、止めないと)


 頭では理解しているのだが――少女が使った魔術はやはり暴発していた。斧槍の形状が歪なのも、地面に着いたとたんに只の水に戻ってしまうのも、彼女自身の魔力制御がうまくいかなかったが故だ。形状の固定に気を使えるほどの余裕がないのだ。


 浮島で赤魔術士 (になった白魔術士、と呼ぶのが正確だが)と喧嘩をした際に使用した土魔術も同じように暴発していた。その時は無理矢理魔力を断つことで止めたのだ。


 代償として血中毒になり、三日間生死を彷徨うことになったが。


(……ここは浮島じゃない。こんな草原の真ん中で血中毒になったりしたら、今度こそ――)


 当初の目的を完遂することは愚か、あの針鼠に多大な迷惑をかけることになるだろう。


 白魔導士スフェーンに釘を刺されてから日も浅い。図太いと称される少女であっても、あの目つきの悪さで二度も詰め寄られたくはなかった。


 湖に突っ込んだ手のひらを横目に、動かない両腕をどうしたものか思考する。


(ベリシードさんたちが作ってくれた手袋の作用は主に『霹靂フルミネート』を乱発しないためのもの……寧ろ、万が一発動したらここに水柱が立ってしまう)


 『流水の斧槍ストリーム・ハルバード』は中級の水系統魔術だ。魔力消費は以前成功した『旋風ワールウィンド』と同等程度で、ラエルの見込みではここまで魔術解除に手こずる予定は無かったのだが。


「む、無理、もう、無理っ!!」


 全身の魔力が次々引き抜かれていくのを感じる。

 一つ水槍が飛び立つたびに、重い脱力感がのしかかる。


 いっそのこと、気を抜いて暴発させた方が楽かもしれない。導線が痛もうが知ったこっちゃない。最終的に死ななければいい――湖に背を向けている今、気を失えば確実に沈むのだけど。


(っ違う、逃げるな。落ち着け私! どうして『旋風ワールウィンド』の時は成功したのか思い出せればいいんだ。どうやって成功させたのか思いだせれば)


 眉間に力が入る。奥歯を噛みしめる。顎が軋む。眼球が痛い。

 その凝り固まった姿勢で、思考で――解ける筈がないのに。


 さく。


 足音がして、顔を上げるべきだと分かっていてもその体力は残っていなかった。

 視界に入った革靴とコートの裾から、見知った相手だと判断する。


 力が入った肩に、革手袋の手がゆっくりと乗せられた。


「お疲れさま、助かったよラエル」

「……っ、ハーミット」

「うん。自分の心臓の音、聞こえそう?」

「……全然」

「おっけー。それじゃあ一度深呼吸してみようか」


 こげ茶の鼠顔が視界の端で上下する。黒髪の少女は流れ続ける魔力を気にしながら、一度目を閉じた。

 どくどくと沸騰しているかのような激しい音が自分の中から聞こえてくる。耳元まで煩いこの音を、浅い呼吸を繰り返して収めることは難しい。


 ここまで心拍が上がるのは何時ぶりだろうか。昔砂魚に追いかけ回されながら砂虫の巣に足を突っ込んだあの時ぐらいだろうか。恐怖感情を失ってからは危機感の象徴だったその音が、今はラエルの全身に血を送るべく馬車馬のように働いている。


「少しずつでいいから、徐々に、呼吸を深くして」


 水の音が遠ざかる。魔力の流れよりも、呼吸と心音に集中する。

 魔術から完全に意識が逸れた瞬間『流水の斧槍ストリーム・ハルバード』は停止した。


 真黒な湖面が波打ち、見えない対岸まで波紋が続いていく。

 水柱は立たない。今まで経験したことが無い、静かな魔力制御だった。


「……」

「……」


 暫く少女の肩に手を置いていたハーミットだったが、ラエルの魔術が完全に止まったことを確認すると安堵の声を漏らした。


 黄土色のコートを脱ぐと、雨にうたれるがままになっている少女の頭に被せる。


「……今の、暴発してたね」

「えぇ。正直ぎりぎりだったわ……ありがとう」

「うっ。押し付けた俺のせいなんだからもっと文句言って欲しいんだけどな!!」

「私が貴方に言いたい文句はクラフトの件だけだから良いのよ。……怪我人は?」

「出てない。強いて言えば俺が殴った賊の連中が怪我したぐらいじゃないかな」

「そう。最低限の目標は達せたのね?」

「ああ」

「……はー、良かった。一時はどうなることかと思ったけれど」


 身体の自由が効くようになってきたラエルは、鼠頭が自分の代わりに雨に打たれていると知るとコートを針鼠に投げ返して、自ら肩にしていた灰色のケープを被った。


 今しがた投げ返したコートの右袖にはべったりと血がついていた。固まり具合からして最近のものだろう。


 昼間の兄妹に苦言を呈されていた右腕。昼に見た時はさほど酷い傷には見えなかったが、どうやらラエルが想像していたよりも深い傷だったようだ。


(……あの時の匂いは、これだったのね)


「足元滑るから気をつけてね」

「身に染みてるわ」

「えっ……あっ、もしかして君、怪我してる!?」

「はあ、貴方こそ怪我を隠す為にコートを着たままでいたんでしょう? お互い様よ」


 細かな傷がついた少女の腕と投げ返された黄土色を交互に見た針鼠はハッとして、大層慌てた様子で変色部分を隠し、丸めた。


「俺の怪我と君の怪我じゃ程度が違うんだって!」

「何言ってるのよ、自分こそ重症の癖に」

「こ、これは怪我の内に入らない!」

「それが怪我じゃないなら私のは掠り傷ですらないわね?」

「俺と君じゃ基準が違うんだよ!?」


 必死に弁明するハーミットを放置して、消火の済んだ天幕へ向かうラエル。

 針鼠はわたわたと、水滴がついて滑りやすくなった草原に足をとられながら追いかける。


「屁理屈言ってないでさっさと案内して頂戴。エスコートしてくれないの?」

「っ……君、ほんと良い性格してるよね……!?」

「ふふ。今更?」

「褒めてないからな!? あと治療はするからね!?」

「はいはい。貴方もね」


 クラフトを飛ばし、中級魔術を使ったせいで実は立っているのもやっとな少女と、塞がりかけの傷が開き、痛みに顔をしかめた少年と。


 ほんの十数分の立ち回りでボロボロになった二人は、ふらふらと元気よく煤けた天幕市場テントバザールに向かって行った。




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