一章 望降ち -拾弐夜 あまつかぜ-

「帰りたくないなぁ……」

 静かな室内にぽつりと声が落ちた。顔を上げると、小野が窓の方をぼーっと見ている。

 校門でたまたま会って、久しぶりに二人でカフェに行ってコーヒーを飲み、少し早いが夕飯に焼きおにぎりを食べた。自分の試験勉強をしながら小野のレポートを手伝っていたのだが、日が落ちた頃に場所を僕の部屋に移した。

「梅雨なんだから、もっと雨降ればいいのに。暴風雨とかだったら、帰らないで草町といる言い訳になんのにね」

 窓ではなく、その向こうの曇り空を見ていたらしい。今日も曇りで雨は降っていないし、天気予報は例年より大分早い梅雨明けが近いようなことを言っていた。

「帰らなきゃいいだろ」

「え」

 小野がこちらを見る気配がしたが、僕の視線は既に手元の資料とノートに戻っている。

 ふと、有川先輩の宿題用のノートが目に入った。使えそうな単語や、心に留まった風景のメモが散乱している。

 素材を集めて、集めて、そこからまた拾い上げて繋げて。有川先輩は心の赴くままに、と言うけれど、僕には難しいようなので地道に考えるしかないという結論に至った。

 形になりそうな気がしてメモを睨んだがイマイチしっくり来なくて、持っていたシャープペンをノートの上に転がして小野に向き直った。煮詰まった時は気分転換も必要だ。

「今日のアルバイトは夜中からだって言ってただろう。ココから行けばいい」

「……それ、こないだやめてって言わなかったっけ?」

「そうだったか?」

 しれっと返した僕に、小野はぶすくれた顔をする。覚えてるくせにと膝を抱えたのを見ながら、僕はインスタントコーヒーを一口飲んだ。

 先日のやりとりはもちろん覚えている。ひどい顔をさせたから、僕の中で「泊まって行け」はNGワードになった。

 一緒にいたいと言う口で、泊まりたくないと言う。わからなくはないが、不可解だとも思う。

 これ以上、考え事の種を増やされても面倒だ。何せ今は試験前で、頭に入れなくてはならないことがたくさんある。その上、有川先輩の宿題は厄介だ。

 正直、疲労の原因は小野にもあるのだから、少しくらい意地の悪いことを言ったって罰は当たらないはずだ。

「帰りたくないとかベタなことを言うからのってみただけだ」

「……ふうん」

「何」

「風も雨も帰り道を封鎖してくんないから、見られるうちに見とこうと思って」

 封鎖ってなんだと思って小野を見ると、その手には札が一枚。風、帰り道……今日は。

「あまつ風、か」

「よく覚えてんね。うたはいくつか覚えたけど、順番まではオレさっぱり」

「去年、有川先輩に散々仕込まれたからな」

「なるほど。有川サンの特訓キツそ~」

「……キツいなんてもんじゃない」

「その間は何、怖いんだけど」

 たとえでなく実際に吐いた去年の特訓を思い出して、僕は寒くもないのに震える自分のからだを抱きしめた。過去の記憶を追い出すように頭を振って、小野が持つ歌を読んだ歌人に思いを馳せる。百夜通いの末、想い人を手に入れられなかったひと。

「想い人、か……」

「草町?」

「恋歌ってのはやっぱり難しいな。今に残るうただって、誰かを心底好いて心のうちに留めきれなくて吐き出さずにはいられなくて、だからこそ人の心を打って時代をこえて」

「あのー……?」

「ん?」

「なんの話?」

「有川先輩の『宿題』。今年の文化祭は、創作和歌で歌集編むから一人二十首詠んでこいって言われてる。僕は歌集の清書するから、すこし少なくてもいいって言われてるけどな。お題は季節でもなんでもいいけど、恋のうたも絶対詠めって釘をさされた」

「……高校生の夏休みの宿題みたいだな」

「『百人一首と並べて遜色無いものを詠んで来い』って脅し文句つきの高校生の宿題は聞いた事が無いな」

「頭良い人の考えることってワケワカンナイネ」

「本当にな」

 二人で視線を遠くへ投げてみるが、そんなことをしても有川先輩がOKを出す歌が詠めるわけではない。百人一首と並べて、というのは会員を鼓舞するためのもので、それくらいの気合いを入れて創ってこいということだ。本気ではないはずだ。多分。

「……オレは、ちょっとわかる気がするなぁ」

「何が」

「吐き出さずにはいられないようなコイゴコロ」

 内容より先に、小野の目に透けて見える感情に息を呑む。気付けば気付くだけ胸の内を引っ掻き回されて息がしにくくなるから、この熱いくらいの視線が苦手だった。

「……だったら、小野が考えてくれよ」

「えー?替玉なんてバレたら、オレが有川サンにころされちゃうよ」

 小野がけらけら笑って答えて、視線が外れたことに少し安堵した。そのうち見つめられた所が焦げて穴が空きそうで少し怖い。

「……あ」

「うん?」

 忘れないうちに、と慌ててシャープペンをとった。こぼれそうになる言葉を必死で拾う。単語を並べて、ぶつぶつ呟きながら繋いでいく。

「できた……?」

「何が、って聞いていい?」

 眉間に皺を寄せてノートを睨みつけていた僕に、遠慮がちに声がかかった。いきなり集中した僕に驚いたようだが、落ち着くまでの十数分を声もかけずに待っていたらしい。

「あぁ、悪い。貴重な恋歌のとっかかりだったから忘れる前にと思って」

「え、恋歌、できたの?オレが有川サンに絞められる的な話の流れで?」

「小野の命の危機の方じゃないけど……まぁ、小野のおかげだな。ありがとう」

「え……何、どういうこと!?」

「そうか、小野の気持ちを想像しながら詠めば良いのか……気付けてよかった」

「ねぇってば!」

 顎のあたりに手を添えて独り言を落としていたら、その手首をガシと掴まれた。

「なんだ」

「なんだ?じゃないよ!くっ、くさまち、が」

「うん?、つ」

 ギリ、と掴まれた手首に力を込められて顔をしかめた。痛みに文句を言おうと顔を上げると、そこには真っ赤になった小野の顔があった。

「どうした?熱でも出たのか」

「っ、怒るよ?」

「心配したつもりなんだが」

「くさまちが、オレを、想って恋のうた、つく、たとか、言うから……!」

 とぎれとぎれに、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして小野が訴える。

「小野をっていうか、小野の恋心を想像したっていうか」

「ダシかよ!モテアソバレタ感やばい!」

 小野が叫んで机に突っ伏した。それでも僕の手首は放さない。机を挟んで座っていたから、小野の上半身の半分程が机に乗ることになる。クシャ、と紙が縒れる音がした。恋心を詠んだと言うよりは想われて口惜しいというような、小野が喜ぶ様なものでは無い気がするが。

「なんか、すまん。でも、もう二首分くらいは世話になると思う」

「まだ言うか!」

「、っふ」

 顔を上げて叫んだ彼はうっすら涙目で、相変わらずの茹蛸状態で、ひどい顔だと軽く吹き出してしまった。それを見た小野が絶句している。

 流石に申し訳なくなって謝ろうとしたら、小野が再びゴン、と机に額を押し付けた。

「たまに、草町はオレの事いじめてるのかなって思う」

「は?」

 数少ない友人をいじめる趣味はない。どういうことだと思っていると、くぐもった声で小野が続けた。

「友達だから、家に上げてくれるのも二人で会うのも普通だし、嬉しいけど。二人の時に可愛い顔したり、可愛い事するのは、ずるい」

「は……か、かわいいって」

 掴まれた手首が熱い。熱が顔まで昇ってきそうなのは、小野が変な事を言うからだ。絶対一度眼科に行った方がいい。

「忘れないでね。これでも、すごく我慢してる」

 顔を上げて、まっすぐ射抜くみたいな目をしながら物騒なことを言われて息を呑んだ。けれど、すぐに困った様に笑って僕を解放する。最近よく見るようになったこの表情は、あまり好きになれないでいた。

「ごめん、怖がらせるつもりはないんだ」

「……うん」

「草町が、好きだよ。……帰るね。課題、みてくれてありがと。また明日」

「……ああ。明日」

 僕の手首を解放した手が、札を差出す。受け取って、しかし立ち上がれずにそこから彼を見送った。

 小野の地雷はどこにあるのかわからない。心臓に悪い。穴が空きそうだ。

「……あなくやし」

 さっき詠んだうたを口の中で転がした。

 くやしい。本当に穴が空いたらどうしてくれるんだ。

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