それでも私たちは繰り返す

悠生ゆう

1.手紙

 木調のカウンターにスッと一冊の本が差し出された。

 私は本を差し出した人物の顔を見上げて「返却ですね」と言いながら軽く笑みを浮かべる。だが、その人物は無表情に私を見下ろすと手続きを見届けることもなく図書館を出て行ってしまった。

 私は隣に座る同僚に気付かれないようにして静かにため息をつく。

 返却された本に付いている管理用バーコードを読み込むとパソコン画面に詳細が映し出され、『貸出中』の状態から『在庫あり』の状態に変化した。

 パソコンを操作してユーザー情報を開く。

 二回生 大内菜穂美(おおうちなおみ)

 大内さんは図書館の常連だから名前を確認するまでもなくよく知っていたのだけど、なんとなく確認せずにはいられなかった。

 勘違いだったらよかったのにという気持ちがどこかにあったからだろう。

 だけど確認をしたら余計に気が重くなった。大内さんの貸し出し履歴に大量の書籍の数だけ責められているような気持ちになる。

 返却された本の状態を調べるためにパラパラとめくると、その間に封筒が挟まっていることに気付いた。淡い鶯色(うぐいすいろ)の封筒はしっかり封がされているから、封筒というよりは手紙といった方が正しいかもしれない。

 図書館の利用者の中には、手近にあるものを栞代わりに挟んでそのまま返却してしまう人もいる。

 挟まれているものは様々で、学生証や定期券が出てきたこともある。借りた本で書いたレポートを挟んで返却してしまい、涙目で駆け込んできた人もいた。

 だけど大内さんが本に挟んでいた手紙はうっかりではなく故意だった。その証拠に表書きに『相馬美也(そうまみや)様』と私の名前がはっきりと書かれている。

 私はもう一度ため息をついた。

 これがラブレターだったら気が楽なのだけど、ラブレターでないことは、先ほどの大内さんの表情を見ればわかる。

 まだあどけなさが残るふっくらとした頬のラインは強張り、整った眉を歪ませて冷ややかな視線を私に投げていた。

 大内さんはこの大学に通う学生だ。

 この大学の図書館にはレポートや課題に必要な資料が揃っている。だから図書館を利用する学生は多いのだけど、レポートなどに関係なく通ってくれる学生の数は限られる。

 だから私たち司書は、そうした本好きの学生のことはすぐに覚えてしまう。本の好みを把握していて、好きそうな新刊が入ると声を掛けることもある。

 そんな常連の学生たちの中でも大内さんは司書仲間に評判が良かった。印象的なのは入学してすぐに図書館にやってきてキラキラと目を輝かせて館内をくまなく歩きまわっていたことだ。

 一度に借りる本は一冊か二冊。そうして一日おきに図書館に顔を出す。本を読むのも好きなのだろうが、図書館に来ること自体が好きなのだと感じる。

 だから私たち司書と仲良くなるのも早かった。

 入学して半年程がたった頃だっただろうか、大内さんの顔がいつもより暗いことに気が付いた。

「大内さん、どうしたの? 何かあった?」

 その様子が心配になって私は声を掛けた。

 大内さんは笑みを浮かべたけれど、それが無理をして作っていることがわかったから余計に痛々しく感じた。

「ミーが……」

「ミ……、ミィ?」

「うちの猫です。写真見ますか?」

 そう言うと大内さんは鞄からスマホを取り出して写真を開くと画面を私の方に向けた。

 猫の種類にはあまり詳しくないが、きっとアメリカンショーヘアーという種類の猫だと思う。好奇心を秘めた瞳を向けてカメラに向かって手を伸ばしていた。きっと写真を撮る大内さんにちょっかいを出そうとしているのだろう。写真を撮っている風景を思い描くと微笑ましい。

「かわいいね。このミーちゃんがどうかしたの?」

「昨日、家に帰ったら……もう……」

 大内さんは涙をこらえるように言葉を切った。最後まで聞かなくても『ミーちゃん』に何が起こったのかを理解できた。

「そう……残念だったね」

「私が小さなころから一緒にいた猫で、もうおばあちゃんだったから覚悟はしていたんです。何日か前からごはんも食べられなくなってたし……。だけど旅立つときに側にいてあげられなかったのが悲しくて」

 大内さんの目には今にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。私はもらい泣きしてしまいそうになるのを必死で堪える。

「大内さんに大切に思われていて、きっとミーちゃんは幸せだったと思うよ」

 私はなんとかその言葉を口にした。

「そうかな……」

「きっと、大内さんが悲しんでいる方がミーちゃんは辛いと思うな」

「そう、ですよね。ミー、私が泣いてると慰めるみたいにずっと側にいてくれたんですよ……」

「本当に仲良しだったのね」

「はい。ありがとうございました。なんだか話したらすっきりしました。いつまでもミーに心配をかけてちゃだめですよね」

 そうして大内さんは涙が溜まったままの顔で笑顔を浮かべた。目を細めた拍子にポロリと涙が零れ落ちたけど、私は見ていないフリをした。

 そんな風に大内さんとは本のこと以外にもいろいろな話をした。そういう時間が私も楽しかった。

 だから残念で仕方がない。

 定時になって私は図書館を出た。肩からかけるトートバッグの中には、同僚に見つからないようにしまい込んだ大内さんからの手紙が入っている。

 なんだかトートバッグがいつもよりも重たく感じた。

 私は『昔から』本が好きだった。本の中でならばどんな自分にでもなれる。現実がどんなに厳しくても本の世界では自由になれる気がした。そんな本の近くで仕事がしたくて私は司書の道を選んだ。

 大学を卒業してから四十五歳の今まで、いくつかの図書館を渡り歩いてきた。図書館によって利用者層は違う。そんなたくさんの人たちに会うのも好きだった。

 この大学の図書館に勤めるようになってもうすぐ三年になる。学生に頼まれてレポートに必要な本を探したり、講師に頼まれて論文作成に必要な本を取り寄せたりする日々は充実していた。

 けれどこの職場に勤められるのもあとわずかなようだ。大内さんからの手紙はきっとその最後通告だと思う。

 私は職員用駐車場に停めてあるシルバーの軽自動車に乗り込んで、大内さんからの手紙を開封した。



 部屋の中に巨大な水槽が置かれているのかと思ってちょっと驚いた。よく見たら壁掛けのモニターだということがわかる。最近のモニターはこんなに薄いのにすごく画質がいいんだなと感心した。

 種類もわからないカラフルな熱帯魚が泳ぎ回る姿を眺めているだけで何時間でも過ごせてしまいそうだ。

 私は一通り室内を物色する。

 ここは大内さんに手紙で指定された待ち合わせの場所だ。簡単に言ってしまえばラブホテルである。

 大内さんから送られた手紙の内容は極めてシンプルだった。ホテルの名前、住所、時間、そして大内さんのメッセージアプリのID。

 無視することもできたけれど、私は指定された通りにここに来ることを選んだ。

 大学からそのままここに来て、大内さんに到着したことを伝えると、あと三十分くらいで着くと返事がきた。車の中で待つのもなんなので先に部屋に入ることにしたのだ。

 大内さんが到着するまで特にやることもないので私はシャワーを浴びることにした。服を脱ぎ捨てて浴室に移動すると、浴室にもモニターが付いていてそこにも色とりどりの魚が泳いでいた。

 湯船にお湯を溜めてゆっくりしたいという欲求が湧き起こったけれど、さすがにそこまでの時間はないので諦めた。

 シャワーを浴びると体と頭がスッキリしていく。シャワーを浴びながら、最近大きなお風呂に入っていないなと思った。自宅のお風呂かホテルのお風呂だし、シャワーで済ませてしまうことも多い。わざわざ遠くの温泉に行きたいとまでは思わないけれど、銭湯で足を延ばしてゆったりとお湯に漬かりたいなと思った。そういえば昔よく行った銭湯は今もまだあるのだろうかとちょっぴりノスタルジックな気持ちになった。

 少し疲れているのかもしれない。

 私は浴室から出てガウンを羽織った。なかなかいい肌触りだ。

 このホテルははじめて利用するけれど、室内の雰囲気もいいし用意されいてるアメニティー類の質も高い。私は頭の中のホテルリストにこのホテルの名前を追加した。

 机の上に置いておいたスマホが震えた。画面には大内さんから『着きました』というメッセージが表示される。私は部屋を伝えてしばらく待った。

 コンコンと控えめなノックが聞こえたので私はドアを開ける。

 大内さんは落ち着かない様子で辺りを伺いながら部屋の中に入った。そして私の姿を見ると「どうしてそんな格好をしてるんですかっ!」と叫ぶ。

「今、シャワーを浴びたから」

 私はそう返事をして部屋の奥に歩んで行ってベッドの端に腰を掛けた。わざと大きな動作で足を組む。ガウンの合わせから太ももが覗いた。大内さんの視線をわずかに感じる。演出としては上々だろう。

「大内さんも浴びてきたら?」

「シャワーなんて浴びませんっ」

 私の問いに大内さんは顔を赤くそめてそっぽを向きながら言った。

「んー? そういうのが好み? 私もシャワー浴びない方が良かった?」

 大内さんはさらに顔を赤くして私を睨んだ。この赤は照れではなく怒りだ。

「私も仕事だから、本当は個人的に呼び出されるのはダメなんだけど……前回何もしてないから特別ね」

 私が言うと大内さんは「最低」と吐き捨てた。

 大内さんはベッドから離れた場所に立ち、私を怒りと軽蔑の混ざった瞳で見つめている。

 十日ほど前、私は指定されたラブホテルに行った。

 マネージャーからもらった情報では、相手は二十代でニックネームは「N」。四十代の相手を希望していたため私に仕事が回ってきた。

 二十代の子が四十代を希望するのは珍しい。同年だと恥ずかしいからだろうかなどと考えながら部屋に入った。

 するとそこにいたのが大内さんだったのだ。この仕事で顔見知りに会うとは思っていなかったので私も驚いたのだけど、大内さんはもっと驚いているようだった。

 それでもあくまで仕事として私は冷静に対応することにした。

「Nさん、ですか?」

「は、はい」

 大内さんは呆然としながら返事をした。

 それからシステムの説明をした。キャンセルやチェンジについても伝えたけれど、それを希望されなかったので私は料金を受け取って仕事に取り掛かることにしたのだ。

 大内さんの肩に手を置き緊張をほぐすように静かに語りかける。

「リラックスしてね。何かしてほしいことはある?」

 だけど大内さんは私の手を払いのけて部屋を飛び出してしまった。

 そして今日、前回とは違う方法で私を呼び出した大内さんは鬼のような形相で仁王立ちをしている。

「どうしてこんなことをしてるんですか?」

 絞り出すような低い声で大内さんが言った。

「こんなことって、レズビアン向けのデリヘルのこと? もちろんお金のためよ」

「図書館で働いてるじゃないですか」

「あの仕事は好きなんだけど、残念ながらお給料がちょっとね……」

「け、結婚もしてるのにっ!」

 大内さんが視線を落とすのにつられて私も自分の手を見た。私の左手にはシンプルなシルバーのリングが鈍く光っていた。

「ああ、ごめんなさい。仕事中は外さなきゃいけないのに」

 私は指輪を外すと立ち上がった。そして大内さんのそばに歩み寄る。大内さんはビクッと肩を震わせた。

 私は大内さんの横のテーブルの上に置いてあったバッグを手に取り、その中にポトリと指輪を落とす。

 バッグを再度テーブルに置くと、体を反転させるタイミングで大内さんの首に腕を回した。

「もう難しい話はいいじゃない。ここはそういう場所じゃないでしょう?」

 大内さんの耳元で囁いて体を寄せる。大内さんの肌から緊張が伝わってきた。

「緊張してるの? 大丈夫。何も考えないで気持ちよくなりましょう。あなたもそのために来たんでしょう?」

 すると大内さんは両手で私を突き飛ばした。私は二、三歩よろけてベッドに倒れ込む。大内さんはその場所に立ったまま私を見下ろしていた。

「最低」

 大内さんが吐き捨てるように言う。

「あなたも同じでしょう?」

「わ、私は違うっ」

「どこが? 私とセックスがしたくて呼んだんでしょう? あの日も、今日も」

「違うっ! 私はただ話がしたくて」

「話なんてここでなくてもできるじゃない」

「他の人に話を聞かれないようにと思っただけです」

「言葉なんかよりずっとわかりあえる方法もあるわよ?」

 私は体を起こしてベッドの端に座り直した。

「図書館を辞めてください」

「どうして?」

「図書館は神聖な場所です。あなたのような人が働いていい場所じゃない」

 私は大げさに笑ってみせた。

「図書館が神聖? おかしいんじゃないの? 私にとってはただの職場。ここと同じよ」

 すると大内さんの右手が上がり、次の瞬間には乾いた音が室内に響いた。大内さんは私を叩いた右手を握りしめて下唇を噛む。

「あなたが図書館にどんな思い入れがあるのかは知らないけれど、私には関係のないことよ。図書館もデリヘルも私にとっては収入源っていうだけ」

「結婚してて、旦那さんもいるんだからそんなに稼ぐ必要ないんじゃないんですか」

「今の世の中、何がどうなるかわからないでしょう。夫の収入に頼って生きていくなんてごめんよ」

「旦那さん、デリヘルのこと知ってるんですか?」

 大内さんの言葉に私が黙ると、大内さんはここぞとばかりに言葉を重ねた。

「もしもこのことを旦那さんにバラしたらどうなるんでしょうね。あっ、そうだ。大学にも言っちゃいましょうか? そうしたらきっともう働けなくなりますよね?」

 黙っている私に勝利を確信したのか、大内さんは少し表情を緩めた。

「自分から辞めるのと、クビになるの、どっちがいいですか? 私が行動を起こす前に図書館を辞めてください。そうしたら二度と何も言いません。おとなしく辞めてくれたら少なくとも旦那さんにはバラしません」

 それこまで言い切ると大内さんは私に背を向けて出口へと向かった。

「ねぇ」

 私はその後ろ姿に声を掛ける。

「ヤらなくていいの?」

 大内さんは振り返ることなく部屋を出て行った。

 パタリと小さな音を立ててドアが閉まる。

 私はいつまでもそのドアを見つめていた。

 この世界に神様がいるのだとしたら、それはとてつもなくサディストに違いない、そんなことを考えていた。

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