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ハンスたちが住むアトリアは、八十万平方キロメートルほどもある一つの巨大な島である。
元はホルシードという名前の王国だったが、約百二十年前に大きな海溝を挟んだ隣の大陸にあるラスキア共和国との戦争に敗れ、併合された際に名前も改名された。現在はラスキア共和国の七つの州のうちの一つとなっている。
ラスキア共和国は戦争に勝ったとは言え元々大きな力を持っていたホルシード王国を統治するため、併合当時は自治権を持たせた形での属州となった。
だが百二十年経つ間に少しずつラスキア側に自由を奪われ、現在はラスキア政府に蹂躙されたほぼ形だけの州議会があるだけである。
アトリアは天然資源が豊富で、特に化石燃料の埋蔵量はラスキア共和国の中で最も多い。ただしアトリア自体がその恩恵を受けているわけではない。現在石油関連の権益はほとんどがラスキア政府に握られており、それが政府の大きな資金源となっていた。
一方アトリアの主要産業といえば航空機の生産だ。生産された航空機はラスキア本土のみならず各国にも輸出されている。アトリア経済はほぼこの航空機生産と貿易によって支えられている状態である。といっても、アトリアで生産される戦闘機の多くはラスキア軍に安く買い上げられてしまうため、外国への輸出によりなんとかある程度の黒字を確保しており、あらゆる面で優遇されているラスキア本土の民に比べると、アトリア州民は一部の上流階級を除いて全体的に比較的貧しい生活を強いられているのが現状だった。
貧富の差は時が経つにつれてより激しくなり、中間・貧困層と上流階級と呼ばれる富裕層との生活レベルの差は、以前よりもより顕著なものになっていた。
そんなアトリアにおいて、住民が最も盛り上がるエンターテイメントが航空レースだ。元々娯楽の少ないこの島で、航空レースは伝統でもあり、誇りでもあり、教育の一貫でもあり、もはや住民の暮らしに根付いた大切な行事の一つとなっている。
通常のレースは約3ヶ月に一度のペースで年四回開催され、その成績によってパイロットの総合ランキングが発表される。そして現在100名以上エントリーしている全パイロットの中から総合9位以内にランクインした者だけが、その年のチャンピオンを決めるためのチャンピオンシップへの出場を認められる。
チャンピオンシップは州をあげて3日間行われるトゥラディアと呼ばれるホルシード王国時代からの伝統的なアトリア最大の祭りの中で開催される。祭りが最も盛り上がる最終日に行われ、今やトゥラディアで一番のメインイベントになっていた。
開催地であるアンサンクトナディアという海沿いの美しい小さな街には、毎年チャンピオンシップを観戦するためにアトリア中のみならずラスキア本土や海外からも沢山の人々が集まるため、実に普段の人口の50倍近い人々でごったがえす。
アトリアの人々にとっては、その日は自分たちの誇る世界最高方の航空技術と優秀なパイロットを国内外に自慢するための絶好の機会でもある。ラスキア共和国の属州となってから様々な面で苦渋を強いられてきたアトリアの人々は、この日ばかりは自分たちの誇りと伝統を取り戻し、独立していたかつての栄誉ある王国の姿を垣間見ることができるのだ。
そんな憧れのチャンピオンシップに参加できるようになるまでにはかなりの長い道のりがある。年に4回行われている予選代わりの通常のレースで良い成績を残し、上位9名以内にランクインする必要があることはもちろんなのだが、そもそも予選レースに出場すること自体が狭き門なのだ。
航空レースに出場するためには、まず所属している組織の中で選抜され、その組織の推薦によってレースへの出場許可を得る必要がある。ハンス達のように学生である場合には、まず校内での厳しい選考を経て、それをクリアしたごく一握りの者だけが学校からの推薦を受けられることになっている。
ハンスとゾフィーは二人ともアトリアの学校の中で最も選手層の厚い航空学校において、14歳で代表パイロットとなった。
アトリアの子供達は6歳から11歳までの義務学校時代から教科の一つとして航空機関連の授業を受ける。そして12歳から18歳の6年間は高等教育過程となり、その種類は航空学を主体とした航空学校をはじめ、普通科のある高等学校や各種専門学校などに進学する。現在16歳のハンスたちは全員航空学校の生徒だ。ゾフィーは一つ下の15歳で、同じ航空学校に通っている。
学校では航空機の設計から製造・整備まで様々な授業があるが、操縦技術に関しては入学して半年後から実際に飛行機に搭乗して訓練を受ける。そしてそこから約2年間の訓練において最も成績の良かった者だけがその学年の代表パイロットとして認められ、学校から機体が貸与されて航空レースに参加できるようになるのだ。
校内での選考試験は学年ごとに毎年あるが、二人ともパイロットの最少年齢である14歳で代表パイロットとなり、毎年レースに参戦してきた。ただゾフィーにおいては、なんとデビュー初年度であるにもかかわらず総合3位で予選を突破し、いきなりチャンピオンシップへの出場権を得た。それだけでもかなりの驚きなのだが、さらにそのチャンピオンシップで初参加にして最年少で優勝を飾るという、航空レース史上初の快挙を達成している。衝撃的な若き天才の登場に会場は大いに沸き、ゾフィーは一躍時の人となった。
ハンスもその年齢としてはかなり優秀な成績を納めてはいるのだが、初年度は総合16位と惜しいところでチャンピオンシップへの出場権を逃した。しかし、その後も格段の努力によってじわじわと成績を伸ばし、2度目の挑戦となる去年はなんとか総合8位に食い込んでついにチャンピオンシップへの切符を手に入れた。史上初の兄妹対決が注目されたが、結果はハンスが5位、ゾフィーは2年連続の優勝を飾った。
そして今年、ハンスは再びチャンピオンシップに出場する。現在の総合ランキングは6位で、昨年より2つ順位を上げての参加となった。
ただ妹に惨敗を喫しているからといって、ゾフィーばかりを意識してはいられない。特に同じ歳のパイロットであるヴィルは初めてレースに参戦したときから何かとハンスと衝突しているが、貧困街出身で12歳から航空機工場で働いており、学校で習わずに独学で操縦の腕や航空力学を身につけてきた天才肌だ。
実力からしても周りからハンスのライバルだと言われているのはむしろヴィルの方だった。もちろんそのほかにもハンスより常に良い成績を維持しているベテランの強豪たちはたくさんいるのだが、そんな厳しいレースで当たり前に一位を獲得しているゾフィーは、やはり誰から見ても圧倒的だった。
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