忘却

 目の前には血の海が広がっていた。

 大好きだった彼がそこに転がる。思考はボロボロだった。一面真っ白な部屋の中、あんなに幸せだった日々でさえこうも儚く崩れ去るものなのかなどと考えていた。

 明日は二人が出会った記念日だからとシャンパンを買って帰ったところまでは意識がはっきりしている。朝ごはんは彼の好きなハムエッグだな、なんて考えながら玄関を開けた。そのあと意識を失い、気がつくと真っ白な部屋に彼と二人閉じ込められていた。何がなんだかわからないまま目の前にあった紙を彼が読み上げる。

「一本飲むごとに相手のことを忘れていく薬を十本飲んだら出られる部屋……?」

わけが分からなかったけど部屋の隅に試験管に入った青い液体がその薬であろうことはなんとなくわかった。彼は笑いながら試験管を手に取りぐいっと一本飲みきった。

「ははっ、全然問題ないよ。この調子で僕が十本飲むから安心して待っててよ、か……あれ……おかしいな。名前が出てこない……あれ……」

変化はすぐに現れた。彼が私の名前を思い出せなくなったのだ。私も一本飲んでみる。彼の名前は思い出せなくなってしまった。そこから彼がおかしくなるまでそう時間はかからない。

「いやだ……忘れたくない。忘れられたくない!」

そう叫んだ彼は床に試験管を投げつけると、割れた破片で首を掻き切ってしまった。私は泣きながら彼の首に手を当て、止血しようと試みるが虚しく赤は手から零れ落ちる。

 彼は冷たくなってしまった。嗚咽が部屋に反響する。ひとしきり泣いた後、私はこんなところから彼を連れて早く出たいと考えるようになった。二本目を口に含む。彼の職業が思い出せなくなった。三本目、四本目。彼の口癖、喋り方が思い出せなくなった。

 こうして私は今に至るわけだ。五本目を手に取る。試験管を通して見た私の手は紫色だった。今度は彼との思い出がうっすらとしか思い出せなくなった。六本目。彼と喧嘩したことを思い出せなくなった。七本目。彼の誕生日とか血液型が何かわからなくなった。八本目。彼がどんな人かわからなくなった。

 九本目。これで最後。もう目の前の彼のことをほとんど思い出せなくなっていたが、大切な人だということはわかる。まだ好きだ。自分で確認する。青を口に含んだ。

「この人は……誰だっけ」

私は意識を失った。



 けたたましいアラーム音で目を覚ます。昨日のことを思い出せない。もしかしてどっかで飲んで酔ってそのまま帰ってきてしまったのだろうか。私としたことが……などと落胆しながらハムエッグを作り頬張る。一人で食べるには少し広いテーブルの端にはシャンパンが置かれていた。なんでこんなの買ったんだっけ。たしか何か大切な日だった気がする。涙が頬を伝った。あれ、なんで……。わからないが、私はとても大切ななにかを忘れてしまった気がする。何かを好きだったことしかもう思い出せなくなっていた。

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