第42話
光は少しずつ薄れていった。
九郎の耳に、波の音のようなものが聞こえて来た。そして、ゆっくりと辺りが見えるようになると、そこは海のようであった。しかし、九郎が知っている海とは違っていた。波の音は穏やかで、水は浅黄とも淡青ともつかぬ色合いをしていた。真白の砂は、踏んでみると何とも不思議な音がした。九郎は一人、浜を歩いた。
どこまでも静かで、そして穏やかで、どこか懐かしい。
「ここは……」
何と言えばいいのか、言葉で表現しかねていると、
「浄土」
女の声が答えた。
振り向くと、そこには、白く長い、そして、古い型の着物を身に纏った細身の女性が立っていた。長い黒髪が、着物と同じくらいの長さで後ろに流れていた。歩くとその髪がふわりふわりと風に靡いた。 金と銀の細い鎖を編んだような装身具を身に着けていて、それがシャラシャラと美しい音色を奏でている。女の額には、花のような印があった。唇は紅を引いたように赤い。
「九郎殿は、死した後、どこへ行かれる」
女はその薄紅の唇を開いて、言った。
九郎が最初に思い出したのは、寺で教わった事だった。しかし、本当のところは誰も知らないのだろうと心のどこかでは思っていた。誰も、黄泉から帰った者はいない。
死出の旅路は二度と戻れない道。それは、その先は誰にも分からないということだ。無論、九郎にも。
「私には分かりませぬ」
九郎は素直に告げた。女は小さく首を傾げた。
「寺に在ったのでは?外国の、仏の教えはどうであった?」
おかしな物言いをする、と、思った。確かに仏の教えは遠く、天竺より伝わったと聞く。だが、そのことをいちいち口に出すものはそういない。
「それが真実とは限りますまい。死して後、戻った者はおりませぬ。だからこその生の終わりでありましょう」
九郎は思ったままを言った。女はふっと目を伏せた。そして、仄かに笑ったように見えた。先ほどから女の表情は微かな変化しか見せない。何が言いたいのかもよく分からなかった。
(得体の知れぬ者)
九郎はそう思った。だが、どこか懐かしい気もする。人が同じ態度を取れば出てくるであろう警戒心が、全く出てこなかった。
(あるいは、この者も)
何らかの御魂であろうか、と、思った。
すると、女が再び口を開いた。
「……先ほど、九郎殿が聞いたのは、この世に残る、生者であったものの残留思念」
「それは死者では?死者の声、ではありませぬのか」
「死者は既にこの世の鎖から解き放たれておりまする。既に、魂魄も生者の領域にはいない。残っているのはその者が、この世に残した思い、そのもの」
既に旅立ったものが、残す想い。それは、穏やかに死を迎えたものよりも、無下に命をもぎ取られた者の方が強い。
形になるもの、ならぬもの。九郎が耳にした声の多くが、怨嗟の声だ。
「……戦乱が起これば、それはもっと増えましょうな」
声が自然と震える。それは恐れだ。何に対する恐れか。戦乱が起きることそのものか、自分がそれに加担することか。
「怨嗟の声はいつの世にもありまする」
「平安の世にあっても、ですか?」
九郎が訝し気に訊いた。
「然り」
ふ、と、女が笑った。
「恨みつらみは人の業。生きとし生けるもの、この世に在る限り平安であろうとも、戦乱であろうともそれは断ち切れないもの。どのような時節にもそれは生まれる。望むと望まざるとに関わらず、いくらでも、際限なく」
「……生きている限り、安らぎはないということですか」
「然り」
「では、生まれてこなければよいと?」
そこで女はつと黙った。そして、九郎の目をのぞき込むようにじっと見つめた。そして、口を開く。
「九郎殿が、そう、思われる?」
今度は九郎が黙った。代わりに女が続ける。
「恨みつらみを持たぬということは、愛も喜びも知らぬということ。この世の鎖から解き放たれたままでは、身にまといつくのは孤独というの名の平安」
「それは、」
「完全に一人であれば、争いも起きぬ。怨嗟も生まれぬ。その代わり、愛も生まれぬ。喜びも感じぬ」
九郎は再び黙った。
「九郎殿は、どちらを望まれる?孤独というなの平和に身を浸すか、争いを生む恐れを呑んで、誰かと生きるか」
「それは……」
九郎は苦い唾液を飲み込んだ。様々な思いが、心に浮かんでは消えた。何が最善かと思う気持ちが何をも決められなくしている。それは、分っていた。
と、
「……あまり、時の子を虐めないでもらえるか」
二人きりと思っていた処に、もう一人の声が聞こえた。
直に会わなくなって久しい、しかし、忘れたことなどない、懐かしい声。
「大天狗様」
九郎が振り向いた。
そこには、奥の大天狗の姿があった。九郎は思わず駆け寄った。追い詰められていた所へ思わぬ味方が現れた心地だった。
奥の大天狗も、そんな九郎を察してか、両手を広げて避難者をその羽の内に迎え入れた。
九郎は暫し、その結界の中で息を吐いた。やっと腹から息が出来たような気がした。それほど、知らぬ間に気を張っていたのだと気づく。
「虐めてなど」
女が忍び笑いを交えて言う。それに対して大天狗はため息を吐いた。
「あなたにそのつもりはなくても、人の子には重い問いかけであろう。誰であっても答えられぬよ」
「……さすがに、その魂が覚えておられまするか。よくお分かりになられる」
女が言った。
九郎は、最初何の事を言っているのか分からなかった。しかし、まさかと思い当たり、天狗を見上げた。
(もしや、大天狗は昔、人であったのだろうか)
大天狗はその眼差しに気付き、九郎へ目を向けた。しかし、何も言わなかった。ただ、優しく受け止め、静かに笑った。
「我とて、多くの血が流れることは、望んではおらなんだ」
大天狗はそれだけ言った。そしてぽつりと誰にも聞こえない呟きを零した。結果的にそうなってしまったがな、と。
「ですが、それも時流の理。全てが必然でありましょう。人の世ではどうあれ、太極の御許ではただ、自然の流れに過ぎませぬ。その理の中では貴方様に罪はありますまい。であればこその今」
「自然の流れ、か」
「然り」
ふ、と大天狗が笑った。
「九郎」
「はい」
「お前は、何を望む」
「どちらか、ということですか?」
九郎はまだ先刻の問いを念頭に置いていた。
「否、純粋にお前が望むことだ」
九郎はしばらく考えた。そうして、まとまらずとも、はっきり物事を決めることは出来なくても、今まで通り、素直に気持ちを伝えることにした。
「私は、争い事はできるだけ避けたいと思いまする。出来うることならば誰も傷つけずにいたいと。しかし、そうすることで逆に誰かが傷つくのであれば、それを変えていきたい。そのために、私は全力を傾けたく思いまする」
(今までそうであったように、これからも。誰かのためになることを)
九郎は心に今までの御魂達との出会いを思った。だからこそ、そう願いつつ、自分に奢らずにいようと心に決めた。
「だ、そうだ」
大天狗は女に告げた。女は静かに微笑み、頭を下げた。
「九郎殿」
女の声に、九郎は大天狗の羽の内から出て来た。そうして、改めて頭を下げた。
「この景色を、どうぞ心に留め置かれませ」
「はい」
女の指し示す景色は変わらず澄んでいる。穏やかに、優しく包み込むような優しさをも感じる。
まるでそこは、母の腕の中のようでもあると、九郎は思った。
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