第38話
九郎の視界に小さな光が見えた。
それはどんどん近づいてきた。九郎が焔岩に声をかける前に、彼もまたその光に気付いた。そして、何の疑いも迷いも無くその方向へ駆けだした。
そして、
次の瞬間、彼は姫蝶を抱きしめていた。焔岩にはその光が姫蝶であることが分かったのだ。最早、何の言葉も要らなかった。姫蝶は声も無くただただ涙を流し、焔岩を抱きしめていた。焔岩は、懸命に涙を堪えながら、姫蝶を受け止めていた。
その姿を見て、九郎は想いの強さを知った。時に人の思いは、御魂の想いは、理屈を超える。どんな思考でも、心の衝動には勝てないのだと知った。真の願いには、叶わないのだと。理屈は通用しないのだ。心で感じる、真の前では。
焔岩と姫蝶は気持ちが落ち着くと、改めて九郎に深々と頭を下げた。
「九郎殿、本当にありがとうございまする。おかげで再び焔岩と会うことが出来ました」
姫蝶は満面の笑みでそう言った。無理にでも笑わなければ、せっかく収まった涙が、また零れ落ちてしまいそうだった。
「だが、私の罪は消えぬ。喩え、その根本にあるのが私の心でなかったにせよ、惑わされて、火の山を動かしてしまったのは私の罪だ」
焔岩は姫蝶を見つめて言った。姫蝶はそれでも、静かな微笑みを湛えていた。
「焔岩の罪は私の罪。罪は無くならずとも、供に背負うことは出来まする。それは、天の神もお許し下さるでしょう」
「会うのは一年に一度きりにしよう。天の川の畔に住まう、二柱に習い。それでも良いか」
「是非もございません。それに従いましょう。貴方が私を必要としてくださる。それだけで私は十分にござりまする」
そういうと、姫蝶は九郎に向き直った。
「私は、日に一度、お山の上を飛び、おかしな兆しが無いか、見守りましょう。それでよろしいでしょうか」
九郎は驚いて、
「私にはお二人を裁くことも、その罪を測ることもできませぬ。私に言われても、」
「九郎殿は立会人にござりますれば。ただ、我らの宣言を聞いて頂ければよろしいのです。確かに我らがそう、取り決めをしたと、お聞き願えれば、それで」
焔岩が静かに言った。
「されば」
と、言って、九郎は頷いた。
焔岩は、それを見届けてから、しばらくじっと九郎を見ていた。九郎もその目線を真っ直ぐに受け止めた。
(恐らく何か、大切なものを見ている)
それは、何度か御魂に関わった者の直感だった。
「……九郎」
焔岩が沈黙を破った。重々しい声だった。
「は、」
九郎は居住まいを正して返事をした。
「人間の間で、争いが起きつつあるだろう」
九郎はどきりとした。
まだ自らが巻き込まれたわけでは無い。しかし、九郎の実の父は、人同士の争いで死んだ。その事実は確かにある。同じようなことが、自らの身に降りかからないとは言えない。
「一見、争い事は小さく、世の中は安寧に見えるが、時の流れは既に、大きな歪みを生じ始めている。変化が起きるべき時に、変容できず、軋み、悲鳴をあげている」
焔岩はそこで一度言葉を切り、一つ大きく息をした。
隣の姫蝶が心配そうに彼を見る。その視線に優しく応えて、再び厳しい目を九郎に向けた。
「……大きな争いが起きるだろう。誰かの想いが、歴史を変える本流を起こす。それは、誰か一人の思いでは無い。そして、人の思いだけでも無い。大きな、とても大きな渦だ」
「渦……」
九郎には想像もできない。何が起こるのか。ただ、戦が起きるのだろうとは、思った。歴史が大きく動く時、概ね戦が起きる。それも、大きな戦だ。
(確か……以前にも……)
九郎は先に同じような言葉を聞いた気がした。それが、どこでだったか、思い出しかけた時、焔岩が続けた。
「そうだ。九郎。その渦に飲み込まれるなよ。どれほどの奔流に身を晒そうとも、ただ、お前であれ。お前の心を忘れるな。お前が真に望んでいることは何なのか。お前の心はどこにあるのか。それを忘れるな」
焔岩は、自分への戒めのように言っている。それは、まさしく彼が、自分にずっと言い聞かせていることだろう。恐らくは、あの出来事の前にも、思っていたのかもしれない。焔岩が心に抱くその罪を被ってからは、もっと強く思うようになった。その、大切な訓戒。それを成し得なかった者だけが知る、痛みと共に、強く胸に刻み付けていること。
「……私も、その渦中におりましょうや」
九郎は小さな声で聴いた。そこに戦があるのなら、武家の血を持つ自分が、そこに居る可能性は高い。
「その恐れは、多分にある。だからこそ言うておる」
自分のようになるな、と。
九郎にも、それは伝わっていた。九郎は強く頷いた。
焔岩の顔が穏やかな笑顔を作った。
「時が大きく変わろうとしている。惑わされてはならぬ。ただ、己であれ」
九郎は、思い出した。焔岩に言われていることは、鞍馬の天狗や、大天狗に言われたことと同じだ。
そのことが、より強く、九郎にその言葉を刻み付けた。
そして、彼らの言う、大きな渦が、確かに起きるのだと確信させていた。
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