第10話

 しばらくすると、遮那王は天狗が時折、遠い目で何かを見ている事に気付いた。声をかけると、天狗は、少し悲しそうな目で遮那王を見た。

「遮那王。これから時代は大きく変わる。一つの治世が終わり、新しき世が生まれる。それは世の常だ。そして、その節目には、必ず多くの血が流れる。多くの命が失われる」

遮那王には、天狗の言わんとすることがぼんやりとしか分からなかった。その事に天狗も気づいていた。天狗は遮那王の頭を優しくなでて微笑んだ。分からずとも良い、と、言いながら。

 その上で、聞け、とも言う。天狗の物言いは、まるで幼い子供に寝物語を聞かせる母親のようであった。

「人は、人が世を作るように思おておるが、世が人を求めるのよな。流れに添うもの、抗うもの、それらが対立し、時に争い、そうして、世は変わる。抗う者は、自らが抵抗していることに気付かぬ。そして、自らに反抗するものを抗う者とする。しかし、その時点で既に、自らが時の流れに抗うておるのだよ」

「説法のようでありますね。あれは時に人を煙に巻くようで好きではありませぬ」

遮那王は拗ねた。

「説法は好かぬ。坊主も好かぬ。適当に、自分の都合のいいように人を操ろうとしてるように思えるのです。己の身で覚えた事では無く、書物の中身だけを語るのは実が無いように思えまする」

遮那王は、天狗から実際に様々な事を学ぶ上で、その身を以って知る事の大切さを覚えて行った。それはそのまま、寺を出たいという願望をより強くしていった。寺を出て、外の世界でその身で様々な事を見たい。知りたい。その上で自分の道を決めたい。その想いは、強くなるばかりであった。反面、お山に留まり、その中だけしか知らず、それでいて人より偉いという気持ちを持つ者に対しての嫌悪感は強くなっていった。

 それは、天狗の望むところでは無かった。しかし、年若い者は、そう思ってもおかしくはないと思っていた。そもそも、人が自分の、誰かの思い通りになること自体が不自然であり、自分が教えたことによってでも、自分が思わぬ方向へ変化が起きることもままあることと思えた。そして、誰がどう望もうと、人は在るべきように変化を繰り返して在るべき道を前へ進む。

 天狗は敢えて言葉に出さなかった。それを口に出したところで詮無いことと分かっているからだ。

「さもあろう。長き時の中では、生まれ出でし時は清浄な珠も歪み、淀む」

「また分からぬ事を仰る」

「遮那王。着物とて、長く着れば破れ綻びるだろう。それは目に見えて衰えるものだ。しかし、目に見えずとも、時と共に破れ綻びるものはある。ただ、目に見えるか見えないかの違いだけだ」

「仏の教えも破れ綻びていると」

「教えが綻びるのではなかろうがな。受け取る者の心が破れ綻びるのであろうよ。それは、仏の教えという道の中でも、また、他の道の中でもこれまでの長き時の中で幾度も繰り返されてきたことだ。だが、着物の破れ綻びが繕えるように、誰かが気づけば、その破れ綻びは正すことができる。それもまた、これまでの人の営みの中でくりかえされてきたことだ。しかし、残念なことに、此度の綻びはまだ誰も気づきもせず、正すこともせぬようであるがなぁ」

天狗はそう言って寂しそうに笑った。

「遮那王。其方は寺の破れ綻びを正すことはせずとも、世の破れ綻びを正す者になるやもしれぬ。そのためには強くなれ。己の破れ綻びを見出し時は自ら律せよ」

「よう、分かりませぬが」

「今は分からぬでよい。分からぬで良いのじゃ」

天狗はまた、遮那王の頭を撫でた。

(父親のようじゃ)

遮那王に実の父の記憶は無い。その後、預けられた先に義理の父は居たが、あまり頭を撫でてもらった覚えは無かった。ただ、今、頭に触れる手からは、何とも言えない暖かなものを感じた。

「遮那王。どこで生きても、何となっても、ただ、己自身であれ。其方は物事の本質を見る事が出来る。それは、時に其方を生きづらくするやもしれぬ。それでも、其方が其方であることを棄てれば、既に其方は生きる意味を失くそう」

「分かり……」

「それでよい。それでよいのじゃ」

天狗は遮那王の言葉を遮り、同じ言葉を繰り返すと、また遠くを見た。

「時が、変わろうとしている」

その呟きの意味を、遮那王は理解しかねたままだった。

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