スローモーション



「ふう~! いいお湯でしたねっ」


 フロアのベンチで数十分ほどして待っていると、洗面器を抱えた久園寺さんがパジャマ姿で歩いてきた。


「じゃあ帰ろか」

「えっ、コーヒー牛乳飲まないんですか?」


 思わず面食らう。


「あ……俺たちは、いいよ」

「ここのコーヒー牛乳美味しいのに……」


 たかが120円の牛乳、されど120円だ。

 少しでも節約しなければ、生活費がもたない。

 せめて飾莉ぐらいには飲ませてやりたいが──


「かざりも、いらない」


 目を少し伏せて、そう言った。

 生活がきついのは飾莉も分かっているようで、ここのところ変な気をつかわせてしまっている。

 少しだけ、罪悪感を感じてしまった。


「う~ん、あ、じゃああれやりましょうよ! あれ!」


 久園寺さんが指差したのは、ゲームコーナー。

 スロットゲームやシューティングゲームなど、レトロを感じさせるものばかり並んでいる。

 その中で久園寺さんが選んだのは小型のUFOキャッチャーだった。


「このクマちゃんを獲ります!」


 そういって財布を取り出し、百円を投入。

 レバーを動かして、手のひらサイズのクマのぬいぐるみのキーホルダーをがっちりと掴んだ。

 ……が、惜しくも落下。


「うう……」


 久園寺は悔しそうにまた百円玉を取り出すが、またもクマのキーホルダーは落下した。


「もういっちょ!!」


 ──ぽとり。


「くっ……もういっちょ!!」


 ──ぽとり。


 ああ、こんなに百円を使ってしまって……。

 これが庶民と上流階級の差なのだろうか、と思いながら後ろで眺めていた。


 それから何分か経って、もう二千円は使ったであろう頃。


「これ……ぜったい遠隔操作してます。不正な設定してますよ、これは」

「物騒なことを言うな。もう次で最後にしなよ」


 久園寺さんは、泣きそうになりながら最後の百円玉を投下し、レバーを動かしていた。

 すると……


「おお」


 掴んだ位置がたまたま良かったのか、今度は落下せずに、穴の中にクマが落ちていった。


「やったーー!!」


 久園寺さんは大喜びで、クマのキーホルダーを掲げた。


「よかったね、久園寺さん」


 すると、久園寺さんはにっこりとした笑顔で──そのぬいぐるみを飾莉に手渡した。


「え……」

「飾莉ちゃんへのプレゼントです」


 飾莉は、久園寺さんから手渡されたぬいぐるみ見つめ、


「……ありがとう」


 少し驚いたような──唖然とした表情で、お礼を言った。



***



 銭湯の帰り道。


 飾莉はキーホルダーの輪っかに指をかけてくるくると回して遊んでいた。



「しかし驚いたな、久園寺さんがプレゼントだなんて」

「お近づきの印になにかあげられればいいな、って思ったんですけど……家に良いモノがなくて、手ごろなクマちゃんを発見できてよかったです」

「そんなに気を使わなくてもいいのに……」

「ダメです、こういうのって大事なんですから!」


 そういうものなのかな……。


「そういえば久園寺さん、学校……」


 ──行ってないんだっけ、と言いかけた所で、その言葉をのみ込んだ。


「学校?」


 久園寺さんが不思議そうに顔を覗き込んでくる。


 家庭にはそれぞれの事情がある。

 それに深く関与するのは良くないことだ。


「いや、明日は学校、一緒にいこうか」

「断固拒否します」

「え……」

「私、言いました。太陽浴びると死んじゃうんです」


 あれって本気だったのか。


 すると久園寺さんはにこりと笑って


「大丈夫、学校なんか行かなくても死にはしませんからっ!」


 と言い切った。



 ──『二年の後半からばったり来なくなったんだよな』


 翔吾の言葉を思い出す。


 学校にいかないのは、おそらく彼女に深い事情があるのだろう。

 詮索しないでおこう。



「……」


 水門橋から見える川がきらめていた。


 隣に目をやると、飾莉は嬉しそうな顔をしてクマのぬいぐるみを回している。

 久園寺さんに貰ったのが、そんなに嬉しかったのかな。


「飾莉、そんなにぶんぶん振り回してたら、川に……」


 言いかけた瞬間、

「落ちて──」


 輪っかが、小さな指から外れ、その勢いで鉄柵の向こうへ──



 飾莉は「あ……」と声を漏らし、音もなく暗闇の川に落ちていくクマのぬいぐるみを目で追った。



「飾莉、おまえ──!」


 叱ろうとした瞬間、素早い動きで久園寺さんが鉄柵に乗り出して──




 まるでスローモーションのように──鉄柵の向こうに飛び込む彼女の姿が映った。



 ……落ちた。




「……え、あっ、うそ、久園寺さん──!!」


 どぼん、と水の中に落ちる音が響いた。


 高さ十メートルはある川に落下した久園寺さんは、「ぷはっ」と水面に上がって息継ぎをした。

 ばしゃばしゃと音を立てながらぎこちなく泳ぎ、川に落ちたぬいぐるみを探している。



「にーちゃん……」


 飾莉は泣きそうな顔を浮かべていた。


「待ってろ」


 俺は水門橋のわきの階段を駆け下り、久園寺さんのことを呼び続けた。



***



「はあ……はあ……」


 全身びしょ濡れの久園寺さんは、手に持ったぬいぐるみを


「はい、飾莉ちゃん──」


 にっこりと、渡した。


 外灯の光を背景に映る彼女の笑顔は、それはとても純粋なもので──。


「……ありがとう」


 川のせせらぎの音にかき消されそうなほど、か細い飾莉のお礼。


「だいじにする」


 少し涙を浮かべながら、ずぶ濡れのぬいぐるみを抱きしめた。

 灰色のパーカーに、じんわりと水が浸透していく。


 久園寺さんは「あはは、濡れちゃったのでもう一回銭湯いってきます」と言って、その場を去っていった。


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