第36話 もしかした!
「ただいま」
「ただいま」
ひよりと八雲は自宅の玄関を開けると、二人揃って帰宅の挨拶を交わした。そして持ち帰った餃子を冷蔵庫に入れると、二人で洗面台に向かった。
手を洗い、うがいをする。八雲はにこりと笑ってハンドタオルをひより差し出した。執事ですか? と突っ込みたくなるほど八雲はひよりの少し先を動いてサポートをしてくれる。最後に鏡でお互いを見つめ合うと、八雲はひよりの頭のてっぺんにキスをした。
「もう、八雲さんたらっ。こんなところにー」
不意打ちに恥ずかしさと照れ臭さが込み上げてくる。八雲はひよりの反応に満足したのか、着替えのために寝室に向かった。
(そうだ! 今日はネクタイしてるんだわ! わたしのお仕事!)
今朝、八雲は珍しく迷彩ではなく紫紺色の制服を着て出掛けていったのだ。
「八雲さん! 待って!」
「おや、どうかした」
八雲がジャケットをハンガーにかけながら、振り返った。
ひよりは目を輝かせて、八雲の首元を見つめている。そのネクタイを外すのは私の仕事だと言わんばかりに。
初めてのネクタイ外しは八雲が手伝った。その仕草があまりにも色気がありすぎて腰を抜かしたことが記憶に新しい。
「なるほど。着替えを手伝ってくれるんだね。どれ、上手になったかな? お手並み拝見だ」
「わたしのこと子ども扱いしてません?」
「そんなことないよ、ひよりさん」
ひよりのために少し腰を屈めてくれる。目尻は下がって嬉しそうだ。こんなことで喜ぶ男がいるだろうか。いや、ひよりの目の前にいる。
「じゃあネクタイ外すね」
「お願いします」
ひよりはもう慣れたものだ。結び目に指をかけて、スルッと八雲の首からネクタイを取り去った。皺を指で伸ばしてからネクタイ掛けに引っ掛けた。
「ひより、まさかネクタイだけで満足していないよね」
「えっ?」
「シャツも脱ぎたいし、ベルトも外したいんだよね」
「わたしが脱がせるってこと?」
「着替えさせてくれないのかい?」
おかしいなと首をかしげた八雲の仕草にひよりは思わず噴き出した。
「子どもみたいな顔、しないでよ。うふふふ。じゃあ脱がせてあげる」
「そう来なくっちゃ」
八雲は両手を広げてお願いしますのポーズをした。ひよりはくすりと笑いながら、シャツのボタンを外して肩から脱がせた。それから腰のベルトに手をかける。黒革のシンプルなベルトは特に難しくはないはずなのに、前から外すのはうまくいかない。
「逆からって難しいかも」
「じゃあ、後ろからやってみる?」
「あー、なるほど……って、見えないから無理だよ」
「まったくひよりは可愛いなぁ」
「何を言ってるんですか。ちょっと、八雲さ」
愛おしい妻が腰元でカチャカチャしているのが可愛くてたまらない。八雲はひよりを抱き上げてそのままベッドにごろりと転がってしまった。
「ズボン皺になりますよ!」
「アイロンは得意だよ」
「完璧な旦那様は困りものですね」
「嫌かい?」
「嫌じゃないって、知ってるくせに。いじわる」
「やっぱり、ひよりは可愛い」
結婚してからも八雲の溺愛は止まることを知らない。ひよりを抱き寄せて、至るところにキスを落としていく。
これはまずいと焦ったひよりは頑張って抵抗をする。
「ダメですから。まだ、外は明るいし、お風呂も入ってない! 餃子の味もみてないでしょう?」
「ひよりと若菜さんが作った餃子?」
「はい。とっても美味しい餃子です」
「うーん」
「え、そこ悩みます?」
とにかく八雲はひよりといちゃいちゃしたいのだ。せっかくひよりと過ごせる休日も、当番とはいえ仕事で潰されたのが気に喰わないのだろう。
ちょっぴりわがままな医官さん。
◇
夕方、少し早めの夕飯にするためひよりはキッチンに立った。若菜さんと作った餃子を茹でて出すのだ。
冷蔵庫には作り置きのおかずがあるので、メインが餃子でも十分だろう。
「さて、沸騰した。全部茹でちゃおう」
若菜さんに教わった上手な茹で方は、沸騰したお湯をまずかき混ぜる。かき混ぜてできた水流に乗せるように餃子を入れる。こうすると鍋の底に餃子が沈んでくっつくことが防げるのだ。
全部入れたら蓋をしてしばらく茹でる。そして、お湯が再沸騰したら差し水をする。この差し水を3回ほど繰り返す。3回目が終わる頃には餃子がふっくらしながら浮き上がってくるので、それを掬い上げてできあがり。
「よし、あとは掬うだけね。もう火は止めよう」
「おお、いい具合に茹で上がってるじゃないか。手伝うよ」
「ありがとう」
もくもくと上がる湯気がひよりの顔にも届いてくる。その時、また胸の奥が気持ち悪くなった。
(うっ……)
ひよりの異変にすぐに気づいた八雲は換気扇を強に切り替えて、ひよりを鍋から離した。
「ひより? もしかして調子が悪かったのかな。ソファーに座ろうか」
「大丈夫だよ。茹で汁のにおいが少しイヤだっただけ。今はぜんぜんだから」
「いいや。ちょっとこっちに来て診せてごらん」
八雲はひよりの手を引いてリビングのソファーに座らせると、ひよりの顔色を改めて観察し始めた。夫ではなく医師の顔をした八雲を見て、ひよりは大人しくすることにした。
「熱はなさそうだね。喉も腫れていないみたいだ……リンパも今のところ異常なし。顔色は少し悪いな。風邪でもひいたのか。ううむ……」
ひよりは真剣に悩む八雲を見て、若菜さんから言われたことを思い出す。今言わずして、いつ言うのだと。
(そうだ。ちゃんとお話しないと。そういう可能性があるって)
「あのね、八雲さん。ちょっと聞いてほしいことがあるの。えっと、わたしの体調のこと」
「思い当たることがあるんだね。話してごらん。心配はいらないよ。僕は医者だからね。絶対にひよりを守ってあげるよ」
「ありがとう。実は、ね」
八雲はひよりの手を握ってゆっくりと隣に腰を下ろした。ひよりのことが心配なのだろう。ひよりの手をずっとさすっている。
「実は若菜さんのお宅でも気分が悪くなってしまって。きっかけはね、黒酢のにおいだったの。でも、吐くほどのものでもなくて、今みたいにすぐによくなったわ。さっきは茹でたにおいが少し胸をついちゃって」
「うん」
「若菜さんからね、もしかして赤ちゃんできたんじゃないのって言われたの。それで、よく考えたら生理も遅れているの。だからそういう可能性を考えてもいいかなって……」
「ひより? ごめん、もう一回言ってもらえるかな。その、なんだ……何が遅れてるって?」
うん、うんと真剣にひよりの話に耳を傾けていたはずの八雲が、なぜか途中で内容を見失っているのだ。とても珍しいことである。
「だから、生理が」
「どれくらい?」
「2週間……くらい」
なにやら八雲は頭の中が忙しそうだ。一点を見つめて黙ったまま指を折ったりして何かを数えている。
「ちょっと出てくる。ひよりはここで待っていて」
「どこに行くんですか」
「ひよりはここで、とにかくゆったりとしていなさい。すぐに帰ってくるから。いいね」
「はい」
質問は受けつない。いつもの八雲とは違う気配を感じて、ひよりは静かに八雲を見送った。
◇
八雲は30分ほどで帰ってきた。
手には何か買ってきたのか、紙袋を持っていた。
「ひより。すまない、気がつかなくて。僕はどれだけひよりに甘えていたんだろうね」
「八雲さん、どうしたの?」
「ひよりに言われるまで分からなくて。まったく医者失格だよ。気を取り直してとはいかないかもしれないが、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「まずはこれで、調べてみようか」
八雲が袋から出してひよりに見せたのは妊娠検査薬であった。箱からそれを出して、ひよりに使い方を説明する。
「えっ、あの……え! これ、八雲さんが買ってきたんですか!」
「そうだよ。今の検査薬はかなり正確になってきていてね。我々も助かっているよ。女性の体はデリケートだからね。きちんと把握しておかないといけない」
「恥ずかしくなかったですか! 薬局で、こんなものを、男の人が」
「恥ずかしいもんか。だってひよりのことだよ。僕の大事な人の事なのに恥ずかしいことなんてないよ。頼まれれば生理用品だって買えるよ」
「八雲さん……」
八雲は真剣だった。そしてひよりもそれを感じ取っている。心の底からひよりのことを思っての言葉であり、行動だったと八雲の表情から伝わってきた。
「ひとりで悩んだりしないでほしい。もしかして怖いかな? でもね、僕は大歓迎だよ。もしそうでなくても変わらずひよりを愛しているよ」
「もう、八雲さんたら。本当に優しいんだから」
「検査、してくれるかな」
「はい。わたしもそうだったらいいなって思います」
「ありがとう」
ひよりは八雲から妊娠検査薬を受け取った。医師である夫がそばにいると思うだけで、心強い。
「では、行ってまいります」
「待っているよ」
トイレに入って処置をして、1分待てばいい。
たったの1分で妊娠しているかどうかが分かるなんて驚きだ。小さな小窓に縦にピンクのラインが入れば、妊娠している可能性大だ。
ひよりはかすかに震える手で、検査薬をそっと置いた。
ドキドキドキドキ……胸の音が頭にまで響きそうな勢いだ。
1分経つまでひよりは目を瞑ることにした。でも、その1分がなかなか長い。
「はぁ……ドキドキする」
とうとう待てずに、ひよりは薄らと目を開けた。もう覗き込まなくとも分かる。縦に薄いピンクのラインが現れ、見る見るうちに濃くなっていく。
ひよりは思わず手で口を覆った。
(うそ! ほんとうに⁉︎)
ひよりは妊娠検査薬を持って、トイレから出た。気持ちを落ち着かせるために手を洗った。そしてもう一度、検査結果を確かめる。
間違いない。ひよりは八雲との子を妊娠していたのだ。
「ひより?」
八雲が心配そうにひよりを呼んだ。ひよりは検査薬を八雲の方に向けながら、急ぎ足で八雲の前に来て座った。
「八雲さん! お腹に、赤ちゃんいるみたい!」
「それは本当かい! ああ、確かにこれは陽性だ。妊娠している可能性が高い。ひより、おいで。抱きしめさせてくれ」
「八雲さん……わたし、嬉しいです。本当に、嬉しい」
「ああ、僕もだよ。なんて最高な日だ」
八雲の腕は強くなく、とても優しく包み込むようにひよりを抱きしめた。そしてひよりの背中を撫でたり、頭を撫でたり、額にキスをしたりととにかく仕草が甘い。
二人はしばらく抱き合っていた。
◇
「と言うことは、病院に行かないとだね。さて、どうするかな」
「そっか。ちゃんと確かめてもらわないといけないですね。近くにあったかな。調べないと」
「うむ。決めた。うちの病院にしよう。僕が話をつけておくよ」
「それって、自衛隊病院?」
「そうだよ。その方が何かと手助けできるからね。ああ、どうして僕は産科の勉強をしてこなかったんだ」
「まさか今からでも、なんて言わないでくださいね。八雲さんは自分のお仕事に集中です」
「ひよりのことは僕が」
「ダメですよ」
「ダメなのかい?」
「はい。ダメです」
八雲のことだ。主治医以上にひよりの心配をするはずだ。これから生まれるまでの
医官さん、特技の特権発動である。
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