第34話 いつもの日常が戻ってきたはずだった

 あれから八雲の出張もなく、ひよりはいつもの日常を送っていた。平日は二人揃って駅まで並んで歩き出勤。夕方は早く帰った方が夕飯の支度をする。

 家事はできる方がするというのが東家の暗黙のルールだった。もっともそれを強く望んだのはひよりの方だった。夫の八雲は家事をなんとも思っておらず、油断するとひよりは何もせずに終わってしまう。夫の家事率がどうしても高くなることを避けるため、競うように定時で帰るようになった。

 お陰で仕事の効率も前より良くなったつもりだ。


「ただいまー。あっ、今日はわたしの方が先だ! よーし、作るぞ」


 食材は週末にある程度を買いだめしている。なんとなく、ひよりが和食担当で八雲が洋風料理の担当になっている。ひよりは食べ慣れた家庭の味ならば、それなりに自信があった。ただ、アレンジを加えたり新しい材料を試すのは少し苦手で、そういうのは八雲に任せている。割り切れるようになったら、妻である自分が家のことを全部しなければというプレッシャーはなくなった。

 それ以前に八雲はひよりにプレッシャーを感じさせるようなこともない。そしていつも自然に、さりげなく、ひよりの隣に居てくれるのだ。


「ただいま。おや? ひよりが帰っている。ふむ、豚汁だね」

「あ、お帰りなさい」

「腹が空くにおいだね。何か手伝うことはある?」

「ない……あっ、お洗濯物! 取り込み忘れてる。ごめんなさい、お願いできる?」

「うん。任せて」

「ありがとう」


 しかし、できる八雲は洗濯物を取り込むだけにとどまらない。風呂を洗い湯張りの準備を整えたら、取り込んだ洗濯物をたたんで仕分ける。当然、ひよりの物も全部だ。


「やだ、もうたたんじゃったの? 八雲さんたら、相変わらず早くてきれい。きゃー、わたしのショーツ! 売り物みたいになってる恥ずかしいぃー」

「どうしてこんなに小さいんだ。お腹を冷やしやしないか心配だなぁ」

「大丈夫です! ちゃんと隠れてますからっ」

「じゃあ今度は僕好みのランジェリーを買ってこようか。何色がいいかな?」

「あー、あー、ご飯ですよ。ご飯ご飯」

「ひよりは可愛いなぁ」


 耳まで真っ赤にするひよりに八雲は目尻を下げた。男のロマンを変態だと罵りながらも、八雲が買った可愛らしいエプロンを交互につけてくれる。そんなひよりが、可愛くてたまらないのだ。



 食卓には炊きたてのご飯、豚汁と大皿に乗った生姜焼きが並んでいた。今夜は豚づくしらしい。


「トマトのピクルスも、あるんですよ。そんなに酸っぱくないから大丈夫だと思う」

「ありがとう」

「そうだ。今度の土曜日に若菜さんからお料理教えてもらうことになったの。行ってもいい?」

「土曜日? うん、行っておいで。僕は出勤だから」

「そうなの?」

「当番なんだよね。でも、早く帰れると思う」

「お弁当作ろうか? 食堂はお休みだよね」

「じゃあ、頼もうかな」

「りょーかいです」



 ◇



 土曜日、ひよりは朝早く起きて夫のためにお弁当を作った。若菜さんに教えてもらった1人分の卵焼きをご機嫌に巻く。そして、作り置きのひじきの煮物と茹でたえんどう豆を添え、すき焼き風に味付けをした牛肉をおかずのメインにした。ご飯はおにぎりにするつもりだ。具材は昆布とカリカリ梅の二種類を混ぜて冷ましてからラップで包んだ。

 こうしてひよりはいつものようにいつも通りに準備をしていたつもりだった。でも、なぜか違和感を覚える。


(うーん……おかしい)


 何がどう違うのかというと、味見をしてもなぜか納得いかないのだ。分量はいつもと同じはずなのに、なんだか舌の感覚が妙だった。


「おはよう。ひより」

「おはよう八雲さん。あっ、ねえ。ちょっと味見をしてくれません? なんだか分かんなくなっちゃった」

「うん? どれ」


 珍しく困った顔をしたひよりに八雲は疑問に思いながら、ひよりが作ったおかずとご飯を少し口に入れた。


「どう? 薄すぎたり、濃すぎたりしてない?」

「大丈夫だよ。いつものひよりの味。でも、どうした。風邪でもひいた?」

「ううん。たぶん、寝起きすぐに作ったからかな」

「身体が休みたがっているのだろうね。せっかくの休みなのに申し訳ないな」

「八雲さんこそ、休日出勤お疲れ様。わたしはこの後少し眠れるから大丈夫だよ」

「ゆっくりするんだよ。今日だよね? 若菜さんによろしく。ああ、今日は安達さん休みだから家にいると思うよ」

「そうなんだ。じゃあたくさん作っても余らないかもね」

「楽しんでおいで」

「はーい」


 8時前、ひよりは八雲を送り出して少し横になろうかと思ったが、とくに体調が悪いわけでもなかったのでやめた。ひよりは洗濯物を干し部屋の片付けをして、出かける準備をした。準備といっても、下の階の安達家にお邪魔するだけなので身なりを整える程度だ。


 ひよりは昨日のうちに買っておいた手土産を持って、午前10時過ぎに家を出た。



 ◇



「いらっしゃい。待ってたわよ〜」

「おはようございます。お邪魔します。あ、これお茶のお供にと思いまして。マリトッツォです」


 ひよりの会社の駅近くに、最近マリトッツォ専門のお店がオープンしたのだ。甘いものが大好きな安達家ならばきっと喜んでくれるに違いない。そう思って買ってきたのだが、案の定リビングから太い声が返ってきた。


「マリトッツォ⁉︎」

「もうあなたったら、お耳がはやいんだからっ」


 声の主は八雲の部下である安達四季陸曹長だ。額の傷痕がピクリと動いて、大きな目玉がひよりをとらえた。


「安達さん、午後のティータイムに是非」

「東隊長の分は?」

「もちろんとってありますから、ご安心ください」

「それならば遠慮なく」


 安達はひよりが八雲と正式に付き合う前からの知り合いになる。この安達が自衛隊知識ゼロのひよりに、駐屯地の記念行事で丁寧に自衛隊のいろはを教えてくれてのだ。そして、レンジャーになるまでの映像をこの家で視聴した。

 この強面な安達なくしては、ひよりの自衛隊への知識は広がらなかっただろう。


「ひよりさん、今日は餃子と酢豚、それから卵スープよ」

「中華料理ですね。我が家ではめったに作らないので楽しみです。これ黒酢ですか? 本格的」

「ほら、一時期健康ブームで流行ったでしょ」

「そうでしたね」


 ひよりと安達の妻若菜はもうキッチンで盛り上がり始めた。それをこの家の主人である安達は微笑ましく思っていた。まるで仲のいい嫁姑ではないかと。


 それから、ひよりは安達家のキッチンでメモを取りながら中華料理に奮闘した。今回の餃子は皮から作るといったこだわりようだ。小麦粉をこねるのを若菜さんが引き受け、ひよりはひき肉に細かく刻んだ白菜、生姜、椎茸を混ぜた。


「ひよりさん、水餃子にするわよ。余ったら焼きましょう」

「水餃子! わたし大好きです」

「よかった」


 ひよりはとにかく楽しかった。若菜さんの料理は家にある材料でできるし、「だいたいでいいのよ」「あとから帳尻合わせられるから大丈夫よ」などと肩肘を張らなくていい、いかようにでもなるという家庭料理の典型だったからだ。あまり几帳面ではないひよりには彼女流の料理があっていたのかもしれない。

 それに比べて、東と料理を作るときは創作活動に似ていて違った意味でまた楽しいと思っている。いかに形を整えるか、彩りをどうするか、付け合わせの小料理にも品を優先したりする。

 料理にもいろいろな形があって楽しいと思えたのも、東や安達に出会えたからこそだろう。


 料理も終盤に差し掛かった頃だ。


「さあ、仕上げに黒酢を入れましょうか。ひよりさんお願いできる?」

「はい。量はどれくらいですか?」

「お好みで、適当に、じゃさすがに困るわよね。黒酢は隠し味程度にしたいから、まずは大さじ1で」

「はい」


 酢豚の味はもう整っている。最後に風味をつけるために黒酢を少し入れる。

 ひよりが黒酢の蓋を開け、計量スプーンにそれを注いだ時だった。黒酢独特の香りが鼻を突き抜けて、胸いっぱいに広がると、今まで感じたことのない不快感に襲われた。


「うっ……」


 黒酢の香りが鼻の奥にこびりついたように、全く抜けない。それどころか胃の底辺に得体の知れない何かが広がっていく。


(なにこれ……っ、気持ち悪い!)


「ひよりさん?」


 ひよりの異変に若菜さんが顔を覗き込む。

 いけないと思いながらも体は反応を止めてくれない。とうとうハッキリとした吐き気に変わり、それを押さえ込むと頭から妙な汗が滲み出た。


「お、お手洗いお借りします!」


 少し乱暴に黒酢の瓶を置くと、ひよりは若菜さんの返事を待つ前に動いていた。急ぎトイレに駆け込んでみたものの、実際に嘔吐するとはなかった。しかし、冷や汗が止まらない。貧血に似た感覚が頭頂から広がっていった。


(手が、震えてる。なんなの、これ……なんでこのタイミングで貧血に?)


「ひよりさん? 大丈夫なの?」


 しばらくすると、震えもおさまり体温が戻ってきた。


「はい。大丈夫です」


 トイレから出て、洗面台で手を洗い口をすすいだ。ふと見上げた鏡には、血の気の引いた自分の顔がある。


「大丈夫じゃないみたいよ。もしかして体調悪かった?」

「いえ。黒酢の匂いに急に反応しちゃって。すみません。わたし、黒酢がダメだったのかもしれません」

「少し、横になる?」

「いえ」

「お料理はもうできてるから、お茶にしましょうか。お腹に温かい飲み物を入れてから、お昼にしましょう」

「本当にすみません」

「気にしないの。さて、うちの人にも動いてもらおうかしら。最近ね、お茶を淹れることを覚えたのよ」

「そうなんですね。では、お言葉に甘えます」

「あら、顔色戻ったわよ。うふふ、よかった」


 ひよりは甘えることにした。ソファーに座って深呼吸をすると、さっきの自分が嘘のように気分も良くなっている。


(なんだったんだろ。生理前だから? 今回少し遅れてるからPMSが重いのかも)


「あなたー。ほうじ茶お願い。とびっりきの美味しいやつね」

「分かった。ひよりさん、少し待っていてくださいね」

「はい。安達さんのお茶、楽しみです」


 そしてこの後、安達は顔を引き攣らせながら、おどおどした様子で戻ってくるのだ。


 安達家に巻き起こる、ひより騒動だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る